春日大社の本殿が、大柳生の里へ移された

春日大社の四殿は瑞垣や門の奥にあり、間近に寄って眺めることは難しい。同じ造りの社殿を近くで見るなら、大社そのものではなく、東へ二十キロほどの大柳生の里がよい。夜支布山口神社の拝殿の背後に建つ摂社・立磐神社の本殿は、檜皮葺の一間社春日造。これが春日大社の旧本殿そのものである。

移建は「春日移し」と呼ばれる大和の習わしによる。春日大社はおよそ二十年ごとに本殿を造り替え、まだ使える旧殿を地域の摂末社へ譲り渡してきた。本殿は享保12年(1727)の御造替に際し本社本殿第四殿として新造され、次の延享御造替(延享4年・1747)の折に立磐神社へ移された。

指定の理由

昭和28年(1953)3月31日、重要文化財に指定された。評価の根拠は二つの明確な記録にある。春日大社蔵の記録と、社殿から発見された墨書とが、第四殿としての出自と移建の事情をともに裏づける。移築の経緯がこれほど明らかな建造物は多くない。

形式も読みどころである。一間社春日造は、切妻造の妻入で、正面の屋根を前へ延ばして向拝とし、全体を朱で塗る。春日大社に由来する様式で、大和の社々に広まった。本品は本社の番匠の手になり、当初材を多く残すため、江戸中期の春日造を後補の少ない姿で伝える。附として天冠一箇が指定に含まれる。

本殿の背後の磐座

本殿の裏へ回ると、社名のゆえんが現れる。高さ二、三メートルの巨石が斜面から立ち上がる。この磐座こそご神体であり、石への信仰は社殿のいずれよりも古い。立磐の名は「立つ岩」を指す。社伝では、磐座は社殿の到来よりずっと前から祀られ、山口神社が移される以前から立磐神社がこの地にあったと伝える。延喜式神名帳の天乃石吸神社に比定する説もある。

建物と同じほど、その場が見どころとなる。大柳生は奈良から東の山あいへ登る柳生街道沿いに開け、柳生一族とその剣の地に連なる。社叢は田の上に針葉樹の暗い森として立ち、参道もまた独特で、南北に走る道と石段が交差し、鳥居も別に設けられる。古くからこの地にあった立磐神社が、大社とは別の動線を保っている。春日大社の本殿と異なり、この社殿は間近で観察できる。

Q&A

Q本殿を間近で見られますか。
A見られます。開かれた村の境内にあり、立磐神社本殿は近くから拝観できます。これが本品の魅力の一つです。ご神体の磐座は本殿の背後にあり、斜面に半ば隠れています。
Q春日移しとは何ですか。
A本社の造替に際し、まだ使える旧本殿を摂末社や村の社へ移す慣行です。奈良周辺に多くの遺例があり、本品は享保12年(1727)造営の第四殿を延享4年(1747)に移したものと記録されています。
Q一間社春日造とは。
A春日大社に由来する社殿形式で、切妻妻入の小社の正面に向拝を付し、木部を朱に塗ります。「一間社」は身舎が桁行一間の規模であることを示します。
Q夜支布山口神社との関係は。
A立磐神社は、大柳生の氏神で延喜式にも載る夜支布山口神社の境内摂社です。社伝では磐座と立磐神社が先にあり、のちに山口神社が並んで遷座したと伝えます。
Q行き方を教えてください。
AJR・近鉄奈良駅から柳生方面行きのバスで大柳生下車、南へ徒歩約12分です。徒歩約30分の円成寺と併せて巡るのに向きます。

基本情報

名称夜支布山口神社摂社立磐神社本殿
ふりがなやぎゅうやまぐちじんじゃせっしゃたていわじんじゃほんでん
種別近世以前/神社(建造物)
指定区分重要文化財
指定年月日昭和28年(1953)3月31日
員数1棟(附 天冠1箇)
時代江戸中期。享保12年(1727)に第四殿として造営、延享4年(1747)移建
構造及び形式一間社春日造、檜皮葺
所有者夜支布山口神社
所在地奈良県奈良市大柳生町
公開状況境内は開放。本殿は間近で拝観可能

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/102/2531
夜支布山口神社・立磐神社(神社巡遊録)
https://jun-yu-roku.com/yamato-soekami-oyagyu-yakifuyamaguchi/
夜支布山口神社(奈良まちあるき風景紀行)
https://narakanko-enjoy.com/?p=15683

最終更新日: 2026.06.22