陽明文庫第二文庫、戦争が図面に触れた跡

陽明文庫第二文庫の竣工は昭和15年(1940年)。数メートル先に建つ兄にあたる第一文庫は昭和13年(1938年)の竣工である。設計者は同じ。大工棟梁も同じ。施主も同じ。仕事も同じで、近衞家に千年積み上がった紙を、燃やさず、崩さず、黴させずに保つことだった。

それでも同じ建物にはなっていない。理由はゆっくり読む価値がある。

第一文庫は平屋、73平方メートル、床下を吹き放って風を通す構えを持つ。第二文庫は二階建、121平方メートル、そして床下吹き放ちは断念されている。文化庁のデータベースはその理由を飾らずに書く。厳しい資材事情。二年のあいだに図面が変わったのは、国が変わったからである。

これは、登録簿が物資の欠乏を静かに記録している文化財である。

何を、何から守るための箱だったのか

妥協の重さを測るには、箱に入るものを知る必要がある。

近衞家は摂政・関白を出しうる五摂家の筆頭である。千年近く、その歴代は朝廷の最高位に列し、その職務は紙を生んだ。儀式と先例の日記、書状、家政の記録、懐紙、他家の書の写し。散逸を禁ずる家憲がそれらを縛った。結果として二十世紀に残ったのは十数万点、国宝八件、重要文化財六十件ほどを含む集積である。中心にあるのが『御堂関白記』。十一世紀初頭、藤原氏の絶頂期に藤原道長がその手で書いた日記が、直系の家に伝わり、ユネスコの世界の記憶に登録されている。

脅威は具体的で、すでに何度も現実になっていた。文正元年(1466年)、応仁の乱が始まる前年、代々の日記など五十箱が洛北岩倉の実相院へ運び出された。翌年、近衞家の邸宅は軍勢の乱入によって焼き払われ、資料は残った。延宝三年(1675年)、京中の大火が仮内裏となっていた近衞第を襲い、文庫に火が入る。家司ら五人が押し入って書籍・家宝・旧記の過半を運び出したが、諸道具の庫は焼け落ち、掛物数百幅が失われた。同じ五摂家でも二条家はこのとき文庫に火が入り、記録を焼滅させている。

首相であり二十九代当主であった近衞文麿が建てていたのは、この年代記に対する反論である。昭和13年に第一文庫が建ち、同年11月に財団法人陽明文庫が発足した。事務所棟、第二文庫が続く。二棟目の資材を手配する頃には、日中の全面戦争はすでに三年目に入っており、鉄もセメントも木材も、行き先は別に決まっていた。

諦めたものと、諦めなかったもの

二棟の書庫はいずれも長谷部鋭吉(1885-1960)の設計、大工棟梁は俣野忠蔵。長谷部は住友の建築部門で育ち、昭和8年(1933年)に竹腰健造らと独立して長谷部竹腰建築事務所を興した。後の日建設計である。本業は大阪の鉄骨のオフィスビルだった。宇多野で彼がやっていたのはそれとは別で、瓦屋根の下、商家の土蔵の姿を借りた鉄筋コンクリートである。

高床は装飾ではない。京都は湿気が多く、コンクリートは水分を抱え、箱を地面から離して床下に風を通すのは日本建築が最も古くから持っている解答のひとつだった。コンクリートより古く、土蔵より古い。弥生の高床倉庫がすでにそうしている。第一文庫はそれを得た。第二文庫は得られず、仕様はそこで分岐した。

面白いのは、諦めなかった部分のほうである。文化庁の解説は、第二文庫も第一文庫と同じく湿度管理、耐震耐火などを意識して建てられた、と明記する。二階建という選択自体が制約への返答でもある。同じ地面からより多くの容量を取る。地面が最も安く、資材が最も高い時期の判断として筋が通っている。ひとつの解を封じられた設計が、別の解を探しにいった跡がある。

登録は平成10年(1998年)10月9日、告示は同月26日、登録番号26-0028。基準は「造形の規範となっているもの」。平成8年(1996年)に始まった登録は、国宝・重要文化財を生む指定より緩やかな制度で、建物を記録し、大きな改変に届出を求めつつ、使い続ける余地を所有者に残す。陽明文庫の四棟は26-0027から26-0030まで、建った順に連番で並んでいる。

二階の部屋

この建物が建築史家だけでなく訪問者にとって意味を持つ理由がここにある。

第二文庫の二階には展示室がある。陽明文庫が客を迎えるとき、収蔵品が出てくるのはこの部屋である。専用に建てた展示館でもなく、後から足した博物館棟でもなく、戦時のコンクリート書庫の二階、それらの文書を生かしておくために建てられた物体の内側で見ることになる。

近年の展示では『御堂関白記』が、『和漢抄』下巻、『類聚歌合』、『十巻本歌合』といった同館の国宝と並んで出されている。道長の筆跡が、それを残すために設計された建物の中にある。

参観は手続きが要る。陽明文庫は現役の研究資料館であり、飛び込みの見学は受けていない。年二期、おおむね3月から5月と9月から11月、電話申込、20名以上の団体、参観料一人1,500円から。書庫内の展示と、近くに建つ数寄屋造の虎山荘が見学の対象となる。館内の撮影はできない。

もし行けたなら、上がる前に二棟のあいだに立ってみてほしい。二つの箱、二年の差、設計者ひとり、棟梁ひとり、目的ひとつ。片方には床下に空気があり、片方にはない。その理由が、国のデータベースにこれ以上ないほど平板な言葉で書かれている。敷地は仁和寺から坂を少し上った木立の奥にある。門前を流れてゆく参拝者に、それを知る手がかりは特にない。

Q&A

Q第二文庫に第一文庫のような高床がないのはなぜですか。
A戦時の資材不足です。文化庁は、厳しい資材事情から床下吹き放ちを断念するなど設計・仕様が異なっている、と記録しています。設計者も棟梁も目的も同じでありながら二年で仕様が分かれました。ただし湿度管理、耐震耐火への配慮は第二文庫にも引き継がれています。
Q内部を見ることはできますか。
A予約制の参観で可能です。この建物の二階が展示室で、収蔵品はここで公開されます。陽明文庫はおおむね3月〜5月、9月〜11月に電話申込で20名以上の団体を受け入れており、参観料は一人1,500円から。館内の撮影はできません。
Q展示室では何が見られますか。
A近衞家伝来の収蔵品で、全体としては国宝八件、重要文化財六十件ほどを含みます。過去の展示では藤原道長自筆の『御堂関白記』のほか、『和漢抄』下巻、『類聚歌合』、『十巻本歌合』などが出されました。内容は参観期ごとに替わります。
Qコンクリート造なのに瓦葺なのはなぜですか。
A建物が土蔵の形式を取っているためで、瓦屋根はその語彙の一部です。土蔵は日本各地で貴重品を火から守ってきた形式であり、構造そのものは堅牢さを狙った鉄筋コンクリートです。文化庁も土蔵風の外観とRCの構造を分けて記述しています。
Q誰が設計・施工したのですか。
A設計は長谷部鋭吉(1885-1960)、大工棟梁は俣野忠蔵で、第一文庫と同じ組み合わせです。長谷部は日建設計の源流となる長谷部竹腰建築事務所の創業者の一人で、大阪の住友ビルディングなど大規模建築で知られます。陽明文庫の登録四棟はすべて彼の設計です。
Q登録有形文化財は重要文化財の指定と同じですか。
A別の制度です。登録は平成8年に始まった緩やかな仕組みで、明治以降の膨大な建物を記録し、大きな改変に届出を求めます。重要文化財や国宝の指定は対象がはるかに限られ、規制も重くなります。

基本情報

名称陽明文庫第二文庫(ようめいぶんこだいにぶんこ)
所在地京都府京都市右京区鳴滝宇多野谷2
種別登録有形文化財(建造物)/登録番号 26-0028
登録年月日平成10年(1998年)10月9日(告示 同年10月26日、第14回登録)
登録基準造形の規範となっているもの
年代昭和15年(1940年)
構造及び形式等鉄筋コンクリート造2階建、瓦葺、建築面積121㎡
員数1棟
設計・施工設計 長谷部鋭吉/大工棟梁 俣野忠蔵
所有者財団法人陽明文庫
公開状況参観は予約制。おおむね3月〜5月、9月〜11月。電話申込、20名以上の団体、参観料一人1,500円から。二階の展示室が参観対象に含まれる。館内撮影不可。

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)陽明文庫第二文庫
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/101/00000875
文化遺産オンライン 陽明文庫第二文庫
https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/147485
公益財団法人陽明文庫 陽明文庫の沿革
https://ymbk.sakura.ne.jp/enkaku.htm
公益財団法人陽明文庫 参観案内
https://ymbk.sakura.ne.jp/exroom.htm

最終更新日: 2026.07.18