史記〈孝文本紀第十〉― 世界最古の年代入り『史記』写本が伝える、日本と中国の知の架け橋

宮城県仙台市の東北大学附属図書館には、日本が誇る国宝の一つ、『史記』孝文本紀第十が厳重に保管されています。平安時代の延久5年(1073年)、宮廷の学者・大江家国によって書写されたこの巻子本は、年代が明記された『史記』の写本として現存する世界最古のものです。単なる中国の歴史書の写しではなく、日本がいかに大陸の知的遺産を受容し、独自の学問として発展させたかを物語る、かけがえのない文化遺産です。

『史記』とは

『史記』は、中国前漢の歴史家・司馬遷(紀元前145年頃〜紀元前86年頃)が著した全130巻の歴史書です。伝説上の天子・黄帝から前漢の武帝の時代まで、二千年以上にわたる中国の歴史を記した大著であり、本紀(帝王の記録)・表(年表)・書(制度)・世家(諸侯の記録)・列伝(人物伝)の五つの体裁を組み合わせた「紀伝体」と呼ばれる史書の形式を確立しました。この形式はその後二千年にわたって中国の正史の基本となりました。

日本には奈良時代までに伝来し、日本初の正史『日本書紀』(720年)の手本ともなりました。平安時代以降には朝廷の官僚養成機関である大学寮で「紀伝道」として教授され、『源氏物語』や『枕草子』といった文学作品にまで影響を及ぼすなど、日本の文化史において極めて重要な書物です。

国宝の写本 ― 大江家の学問を伝える証

東北大学が所蔵するこの写本は、巻子本(いわゆる巻物)の形態をとり、縦28.5cm、横972.7cmという長大なもので、横50cm前後の料紙16枚を継いで作られています。内容は『史記』巻十「孝文本紀」、すなわち前漢第五代の文帝の治世を記した部分です。文帝は質素で仁愛に満ちた統治で知られ、その治世は中国史上の理想的な善政の一つとされています。

書写したのは大江家国。大江朝綱の玄孫にあたる名門・大江氏の一族で、文章博士(紀伝道の教授職)を務めた学者です。底本には、中国南朝・劉宋の裴駰による注釈書『史記集解』が用いられています。

巻末の奥書には延久5年(1073年)の年紀と書写者名が明記されており、その後も康和3年(1101年)、建久7年(1196年)、建仁2年(1202年)と、少なくとも3回にわたって大江家の後学が校合や加点(訓読のための書き入れ)を行った記録が残されています。

なぜ国宝に指定されたのか

この写本は昭和27年(1952年)11月22日に国宝に指定されました。その価値は多岐にわたります。

  • 年代の判明する世界最古の『史記』写本:書写年が奥書に明記された『史記』の写本として、現存する世界最古のものです。
  • 日本語史の第一級資料:本文には朱筆のヲコト点(助詞を示す記号)や墨書の古訓・反切などが施され、欄外・行間・紙背にも諸注が記されています。これらの「訓点」は、漢文を日本語の語順で読む「漢文訓読」という日本独自のシステムの貴重な証拠であり、平安時代後期から鎌倉時代初期の日本語の姿をそのまま伝えています。文学作品とは異なり、写本が繰り返し転写される過程で後代の言葉が混入する恐れがないため、当時の言語を正確に知ることができる第一級の資料です。
  • カタカナ成立の手がかり:漢文訓読の行間書き入れ用文字としてカタカナが生まれた過程を示す資料でもあります。
  • 大江家の学問伝承の証:紀伝道の名家・大江氏が代々どのように家学を相伝してきたかを示す、具体的な物的証拠です。
  • 三巻の国宝群:同じ延久5年に大江家国が書写した『史記』の僚巻として、巻九「呂后本紀」(毛利博物館蔵・山口県防府市)と巻十一「孝景本紀」(大東急記念文庫蔵・五島美術館・東京都)が現存し、いずれも国宝に指定されています。

訓点の世界 ― 中国語を日本語で読む知恵

この写本で最も興味深い点の一つが「訓点」です。中国の漢文が日本に伝わった当初は、外国語として中国語のまま読まれていたと考えられますが、長い年月をかけて日本の学者たちは、漢文を日本語の語順で読む独創的な方法を編み出しました。

具体的には、日本語の語順に合わない箇所は返り読みし、行間に漢字の読み方(傍訓)を書き入れ、助詞(「てにをは」)を「ヲコト点」という記号で補います。このような書き入れを施した資料を「訓点資料」と呼びますが、この孝文本紀はまさにその代表例です。朱筆と墨点で丁寧に加点され、延久5年以降に3度にわたる重層的な書き入れが行われています。

こうした訓点資料は、日本語の歴史を研究する上で極めて重要です。『源氏物語』のような文学作品は転写を重ねる過程で後世の言葉が混入する可能性がありますが、訓点資料は博士家の家学相伝のために書写・加点された時点のものがそのまま残っているため、その時代の言葉や文字の形を正確に知ることができるのです。

東北大学への道 ― 狩野文庫の物語

この写本が東北大学に伝わった経緯も興味深い歴史を持っています。秋田県大館出身の文学博士・狩野亨吉(1865〜1942)は、旧制第一高等学校校長や京都帝国大学文科大学長を歴任した哲学者・教育者であり、同時に類まれな蒐集家でもありました。和漢書の古典を中心に約108,000冊という膨大なコレクション「狩野文庫」を築き上げ、「古典の百科全書」「江戸学の宝庫」と称されています。

狩野の親友で東北帝国大学の初代総長であった澤柳政太郎(1865〜1927)の尽力により、この蔵書は東北大学に譲渡されました。狩野は「蔵書を一括すること」と「東北大学で永久に保管すること」の二つの条件を付けたと伝えられています。この狩野文庫に含まれていたのが、『史記』孝文本紀第十と『類聚国史』巻第二十五の国宝2点です。

鑑賞・見学のご案内

約千年前の繊細な巻子本であるため、原本は厳格な温湿度管理のもとで保管されており、常設展示は行われていません。しかし、東北大学ではさまざまな方法でこの国宝に触れる機会を提供しています。

  • 東北大学総合知デジタルアーカイブ(ToUDA):高精細なデジタル画像がオンラインで公開されており、世界中どこからでも写本の詳細を観察することができます。
  • 東北大学附属図書館(本館):川内キャンパスにある本館では、狩野文庫をはじめとする特別コレクションの展示を不定期で開催しています。展示スケジュールは図書館のウェブサイトやSNSでご確認ください。
  • 東北大学総合学術博物館:青葉山キャンパスにある博物館では、大学の学術コレクションを展示しており、関連する文化財資料が企画展に含まれる場合があります。入館無料です。
  • デジタルミュージアム「歴史を映す名品」:東北大学文学研究科・文学部のオンラインミュージアムでは、日本語学の専門家による詳しい解説を読むことができます。

仙台の周辺情報

この国宝を訪ねる旅は、東北地方最大の都市・仙台の魅力を楽しむ絶好の機会でもあります。「杜の都」の愛称で知られる仙台には、ケヤキ並木の美しい大通りや多彩な文化・歴史スポットが点在しています。

  • 仙台市博物館:仙台城(青葉城)跡近くに位置し、伊達家に関連するコレクションや地域の歴史・美術の展示を行っています。
  • 瑞鳳殿:仙台藩祖・伊達政宗の霊廟。桃山時代の華麗な装飾建築の傑作です。
  • 大崎八幡宮:伊達政宗が慶長12年(1607年)に造営した社殿は国宝に指定されており、桃山様式の漆塗り・金箔の装飾が見事です。
  • 東北大学片平キャンパス:国宝の登録住所である片平キャンパスには、登録有形文化財の東北大学史料館(旧図書館建物)があり、大学の歴史を伝える展示を行っています。

Q&A

Q実物を見ることはできますか?
A原本は保存環境の維持のため常設展示は行われていませんが、東北大学附属図書館が不定期で開催する特別展示で公開されることがあります。図書館のウェブサイトやSNSで展示情報をご確認ください。また、東北大学総合知デジタルアーカイブ(ToUDA)では高精細画像をオンラインで閲覧できます。
Q同じ大江家国が書写した他の巻はどこにありますか?
A巻九「呂后本紀」は山口県防府市の毛利博物館に所蔵されており、毎年11月の「国宝展」で公開されます。巻十一「孝景本紀」は東京都世田谷区の五島美術館(大東急記念文庫)に所蔵されています。いずれも国宝に指定されています。
Q中国の歴史書なのに、なぜ日本の国宝なのですか?
A内容は中国の歴史書ですが、この写本は日本の学者によって日本で制作され、日本独自の「訓点」(漢文を日本語で読むための注記)が施されています。日本語の歴史、漢文訓読システムの発展、平安時代の宮廷学問の伝承を知る上で、極めて重要な日本の文化遺産です。
Q東北大学へのアクセスは?
A附属図書館本館のある川内キャンパスへは、仙台市地下鉄東西線「川内駅」下車すぐです。JR仙台駅から地下鉄で約5分。国宝の登録住所である片平キャンパスへは、同じ東西線の「青葉通一番町駅」から徒歩圏内です。
Q外国語での案内はありますか?
A東北大学附属図書館のウェブサイトおよびデジタルアーカイブには英語ページがあります。また、東北大学のニュースサイトでも英語での紹介記事が掲載されています。現地での英語案内は限定的な場合がありますので、事前に図書館へお問い合わせいただくことをおすすめします。

基本情報

正式名称 史記〈孝文本紀第十〉
指定区分 国宝(昭和27年11月22日指定)
種別 書跡・典籍
制作年代 延久5年(1073年)書写、康和3年(1101年)・建久7年(1196年)・建仁2年(1202年)加点
書写者 大江家国(文章博士)
形態 巻子本(紙本墨書)1巻
法量 縦28.5cm × 横972.7cm(料紙16枚継ぎ)
底本 史記集解(裴駰・南朝宋・5世紀)
所有者 国立大学法人東北大学
所蔵 東北大学附属図書館 狩野文庫
所在地 〒980-8577 宮城県仙台市青葉区片平2-1-1
アクセス 仙台市地下鉄東西線「川内駅」下車すぐ(附属図書館本館)/ 「青葉通一番町駅」徒歩約10分(片平キャンパス)/ JR仙台駅から地下鉄で約5分
デジタル公開 東北大学総合知デジタルアーカイブ(ToUDA): https://touda.tohoku.ac.jp/

参考文献

東北大学の国宝 — 東北大学総合知デジタルアーカイブコレクションデータベース
https://touda.tohoku.ac.jp/collection/database/library/exhibition/20240325_natl_treas
司馬遷撰『史記』巻十 孝文本紀 — 東北大学文学研究科・文学部デジタルミュージアム「歴史を映す名品」
https://www.sal.tohoku.ac.jp/digital_museum/02.html
史記延久点 — Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/史記延久点
史記(孝文本紀第十) — 仙台市の指定・登録文化財
https://www.sendai-c.ed.jp/~bunkazai/shiteidb/c00027.html
狩野文庫 — 東北大学総合知デジタルアーカイブコレクションデータベース
https://touda.tohoku.ac.jp/collection/database/library/collection/kano
史記 孝景本紀第十一 大江家国筆 — 五島美術館
https://www.gotoh-museum.or.jp/2020/10/02/22-5-5/
文化財・山口県の文化財(史記 呂后本紀第九) — 山口県
https://bunkazai.pref.yamaguchi.lg.jp/sp/bunkazai/summary.asp?mid=40031
Introduction to the Special Collections — 東北大学附属図書館(英語)
https://www.library.tohoku.ac.jp/en/collections/major_special_introduction.html

最終更新日: 2026.03.18