賀来飛霞標本 ― 江戸本草学から近代植物学へ、760点が物語る学知のバトン
宮崎神宮の鎮守の森を北へ抜けた森閑とした一角に建つ宮崎県総合博物館。その収蔵庫には、日本の自然科学史を語る上で欠くことのできない貴重な一群の資料が大切に保管されています。それが、平成22年(2010年)8月5日に国の登録記念物として登録された「賀来飛霞標本」です。植物・地質鉱物・動物の標本760点からなる本コレクションは、江戸期の本草学の伝統が近代植物学へと変貌を遂げる、まさにその転換期を実物資料として今日に伝える、他に類を見ない歴史的・学術的遺産です。
本草学者・賀来飛霞という人物
賀来飛霞(かく ひか、1816年〜1894年)は、当時島原藩領であった豊後国国東郡高田、現在の大分県豊後高田市に医家の三男として生まれました。1歳で父を亡くした飛霞は、5歳から豊後の儒学者・帆足万里のもとに預けられ、18歳まで医学・薬学・書を学びます。同時に画家・十市石谷から精緻な写生図の技法を習得し、さらに京都の山本亡羊に本草学を学ぶなど、若くして当代一流の師に師事しました。
その後の飛霞は、九州各地はもちろん、四国、東北、北陸・甲信越地方、さらには小笠原諸島にまで及ぶ広大な現地調査の旅を続け、膨大な観察記録と細密な写生図を残します。明治10年(1877年)には新設まもない東京大学小石川植物園の取調掛に任ぜられ、同郷の名古屋出身・伊藤圭介とともに植物の調査・整理にあたりました。その業績により、飛霞は伊藤圭介、美濃の飯沼慾斎と並んで「幕末の日本三大本草学者」の一人に数えられています。江戸の本草学から、後の牧野富太郎らに代表される近代植物学へと、まさに学知のバトンを手渡した一人といえる存在です。
標本760点の内容
賀来飛霞標本は、植物、地質鉱物、動物の三つの分野にわたる計760点で構成されています。各標本にはしばしば飛霞自身の手による精緻な写生図や、採集の経緯を記した手稿が付随しており、単なる「もの」としての資料を超え、当時の観察眼と知的営為そのものを今に伝える複合的な記録群となっています。
とりわけ重要な部分が、現在の宮崎県北部、高千穂地方に関わる資料です。弘化3年(1846年)、飛霞は延岡藩の招きを受けて高千穂地方を巡り、約4か月にわたる踏査の成果を『高千穂採薬記』としてまとめました。日本神話の故地としても知られるこの山深い地域における、近代以前の本格的な自然誌調査の記録として極めて貴重なものであり、標本群中にもこの旅に由来する植物・鉱物資料が多数含まれています。
なぜ国の登録記念物に ― 文化財としての価値
江戸時代までの日本の本草学では、書物の挿絵や図譜が中心で、植物や鉱物の「実物」を体系的に保存するという発想はほとんどありませんでした。したがって、当時の標本そのものが現代まで残っていること自体、それ自体が極めて稀な出来事といえます。賀来飛霞標本が、その量と質の両面で当時の標本群としてまとまった形で伝来していることは、まさに奇跡的といってよい状況です。
文化庁による登録の趣旨も、まさにこの点に置かれています。江戸期の本草学から近代植物学の黎明期にかけて作成された一連の標本資料として極めて重要であること、そして当時の和名・通称と現代の学名との比較資料として高く評価されること ― この二つの観点から、本コレクションは平成22年8月5日に国の登録記念物に登録されました。日本の博物学史・科学史を考えるうえで、研究者にとっても、また自然科学の歩みに関心を持つ来訪者にとっても、第一級の一次資料といえる存在です。
見どころと拝観上の留意点
標本を所蔵する宮崎県総合博物館は、地元では「みやはく」の愛称で親しまれている県立博物館です。昭和46年(1971年)に開館し、設計はル・コルビュジエに師事したモダニズム建築の旗手・坂倉準三が手がけました。宮崎神宮の北側、深い杜に包まれた静謐な敷地に建ち、自然史・歴史・民俗の各展示室を備えた総合博物館として、宮崎の自然と人びとの営みを総合的に体感できる施設となっています。
来館にあたって一点ご留意いただきたいのが、賀来飛霞標本が常設で全点公開されているわけではないという点です。歴史的に貴重で繊細な資料群であるため、選ばれた一部の標本が企画展や特集展示の際に折々公開されるかたちが一般的です。標本そのものをご覧になりたい方は、来館前に博物館へお問い合わせのうえ、現在の公開状況をご確認いただくことをおすすめします。標本が展示されていない時期でも、自然史展示室では宮崎の動植物・地質を実物資料豊富にたどることができ、飛霞が生涯をかけて記録し続けた自然の世界を、より深い背景とともに理解する手がかりが得られるはずです。
また、博物館に隣接する屋外の民家園もぜひあわせてお立ち寄りください。県内各地から移築復原された4棟の茅葺き古民家が点在し、うち旧黒木家住宅と旧藤田家住宅は国の重要文化財に指定されています。
周辺情報 ― 宮崎神宮の杜とあわせて
博物館が建つのは、初代天皇・神武天皇を主祭神とする宮崎神宮の境内北端。長い参道、灯篭、そびえる狭野杉の杜が織りなす厳かな空気のなかをたどる参拝とセットで、博物館をめぐる一日は理にかなった旅程となります。宮崎神宮の現社殿は明治40年(1907年)、建築史学の大家・伊東忠太の設計によるもので、神殿(本殿)以下の主要建造物は国の登録有形文化財に登録されています。
周辺には、境内右手に位置する五所稲荷神社の赤鳥居の並ぶ参道、隣接する宮崎縣護國神社、そして樹齢400年以上ともいわれ国の天然記念物に指定されている大藤「オオシラフジ」など、見どころが集まります。宮崎市中心部からは車で約15分。JR日豊本線・宮崎神宮駅からは徒歩約10分。JR宮崎駅からは宮崎交通バスの綾・国富・平和が丘方面行きに乗り「博物館前」バス停下車すぐと、公共交通でのアクセスも便利です。
Q&A
- 賀来飛霞標本は常に見ることができますか?
- いいえ。江戸後期に作成された極めて繊細な歴史資料であるため、保存上の理由から常時全点が公開されているわけではありません。企画展や特集展示の機会に選ばれた一部の標本が公開されるのが一般的です。お目当ての資料がある場合は、事前に博物館へお問い合わせのうえ、現在の展示状況をご確認ください。
- 入館料はかかりますか?
- 宮崎県総合博物館の常設展示は入館無料です。特別展や企画展については、内容に応じて別途観覧料が設定される場合があります。
- 「本草学」とはどのような学問ですか?
- 本草学は、植物・動物・鉱物などを薬用や博物学的観点から研究する東アジア由来の学問体系で、近代以前の日本における自然誌と薬学を兼ねたような知の領域でした。江戸後期にかけて大きく発展し、明治以降の日本の近代植物学・薬学の母胎となります。
- JR宮崎駅からのアクセス方法を教えてください。
- タクシーであれば約15分。バスの場合は宮崎交通の綾・国富・平和が丘方面行きで「博物館前」下車すぐです。JRをご利用の場合は日豊本線で一駅、宮崎神宮駅で下車し、宮崎神宮の杜を抜けて徒歩10〜15分ほどでご到着になります。
- 飛霞の描いた写生図も標本と一緒に伝わっているのですか?
- はい。賀来飛霞標本には、植物・地質鉱物・動物の実物標本だけでなく、飛霞自身の手による精緻な写生図や採集に関わる手稿類も含まれています。これらも標本と同じく保存上の理由から常設公開ではないため、展示状況については博物館にご確認ください。
基本情報
| 名称 | 賀来飛霞標本(かくひかひょうほん) |
|---|---|
| 指定区分 | 国登録記念物 |
| 登録年月日 | 平成22年(2010年)8月5日 |
| 点数 | 植物・地質鉱物・動物の標本など計760点(関連手稿・写生図を含む) |
| 作成者 | 賀来飛霞(1816年〜1894年)― 幕末の本草学者 |
| 所有者 | 宮崎県 |
| 所蔵 | 宮崎県総合博物館(みやはく) |
| 所在地 | 〒880-0053 宮崎県宮崎市神宮2丁目4番4号 |
| 電話番号 | 0985-24-2071 |
| 開館時間 | 9:00〜17:00(入館は16:30まで) |
| 休館日 | 火曜日(休日を除く)、国民の祝日の翌日(土・日・休日を除く)、年末年始(12月28日〜1月4日)、特別整理期間・燻蒸期間 |
| 入館料 | 常設展は無料(特別展は内容に応じて別途観覧料) |
| アクセス | JR日豊本線「宮崎神宮駅」より徒歩約10〜15分/JR「宮崎駅」より宮崎交通バス「博物館前」下車すぐ |
参考文献
- 177.賀来飛霞標本 - 国登録記念物 - 宮崎市
- https://www.city.miyazaki.miyazaki.jp/culture/art/627.html
- 賀来飛霞 - Wikipedia
- https://ja.wikipedia.org/wiki/賀来飛霞
- 賀来飛霞標本 (かくひかひょうほん) - みやざきの文化財情報
- https://www.miyazaki-archive.jp/d-museum/mch/details/view/2195
- 宮崎県総合博物館 公式サイト
- https://www.miyazaki-archive.jp/museum/
- 宮崎県総合博物館 - Wikipedia
- https://ja.wikipedia.org/wiki/宮崎県総合博物館
- 登録記念物 - Wikipedia
- https://ja.wikipedia.org/wiki/登録記念物
- 宮﨑神宮 | 観光スポット | みやざき観光ナビ
- https://www.kanko-miyazaki.jp/spot/1209
最終更新日: 2026.05.15