よろづや旅館桃山風呂|信州の山ふところに息づく登録有形文化財の名湯
長野県北部、雪深い山ノ内町の湯田中温泉郷。創業二百余年の老舗旅館「よろづや」の本館一階に、訪れる人を一瞬で別の時代へと誘う一棟の浴舎があります。昭和二十六年(一九五一年)に着工し、約三年の歳月をかけて昭和二十八年(一九五三年)に完成した「桃山風呂」。安土桃山時代の伽藍建築を範とした純木造の浴舎は、平成十五年(二〇〇三年)十二月一日、「再現することが容易でないもの」として国の登録有形文化財に登録されました。
京都や東京の定番から少し足を延ばして、もっと深い日本の表情に出会いたい——そんな旅人にこそ、この浴舎は格別の体験を約束してくれます。松の折上格天井の下、稲田石が縁取る楕円の湯船に身を沈めれば、湯気の向こうに虹梁や組物の影が静かに揺れ、まるで寺院の堂内に湯けむりが立ちのぼるかのような、稀有なひとときが流れます。
戦後の湯けむりに込められた、ある館主の夢
桃山風呂の物語は、一つの建物ではなく一つの志からはじまります。戦後まもない昭和二十年代、温泉旅館は、戦争の傷を癒し明日への活力を蓄える場として、人々に強く求められていました。寛政年間に創業したよろづやの五代目館主・小野博は、伊豆修善寺の名旅館「新井旅館」が誇る「天平風呂」に深く感銘を受け、自らの生まれ育った湯田中渋温泉郷に、安土桃山の建築様式を踏まえた名物風呂を築こうと決意します。
設計を託されたのは建築家・沖津清。腕利きの宮大工たちが集められ、昭和二十六年に着工、約三年をかけて昭和二十八年に竣工しました。以来、この浴舎は同家のもとで大切に守られ、現在は七代目館主・小野誠氏のもと、三代にわたって受け継がれています。
なぜ国の登録有形文化財に選ばれたのか
文化庁が桃山風呂を登録した理由として掲げたのは、「再現することが容易でないもの」という基準でした。これは決して大げさな評価ではありません。釘をいっさい使わずに木を組み上げる伝統工法、社寺建築でしか目にしないような虹梁(こうりょう)と呼ばれる反りをもつ梁、軒を支える組物(くみもの)——いずれも、現代では宮大工以外にはほとんど扱える者がいない高度な技術ばかりです。同じ規模の浴舎を新たに建てようとしても、戦後の宮大工たちが結集して残した技の総量を、いまふたたび集めることは極めて難しいでしょう。
規模もまた特筆に値します。木造平屋建、鉄板葺で建築面積は約二百二十平方メートル。浴室部分だけでも約二百平方メートル、楕円形の浴槽は約四十平方メートルあり、二十四トンもの源泉を満たします。これほどの大空間でありながら柱の数が極めて少ない構造に、現代の宮大工も驚嘆するといいます。
建築の見どころを巡る
玄関に立てば、まず目に飛び込むのは雄大な唐破風(からはふ)。城郭や寺社の正面を飾ってきた、波打つような曲線美の屋根です。屋根本体は切妻造りで、長辺側に玄関を構える「平入」の堂々とした姿。浴舎としては類例の少ない、格調高い構えといえるでしょう。
一歩浴室へ足を踏み入れると、自然と視線は天井へ向かいます。中央が一段高くなった「折上(おりあげ)」と、角材で正方形を組んだ「格(ごう)」を組み合わせた折上格天井は、和風建築における最高格式の意匠。年を経た松の一枚板が一区画ずつをなめらかに塞いでいます。脱衣室には、もうひとつの逸品が静かに掛けられています。越後の彫刻師・相崎武吉翁による彫物欄間「雉の一生」。雉が生まれ、子を育み、生涯を閉じるまでの場面が克明に刻まれた力作で、相崎翁が一年にわたり当館に滞在しながら彫り上げ、桃山風呂が完成した昭和二十八年に欄間として収められたといわれます。
浴槽の縁と床を縁取るのは、茨城県産の稲田石。きめ細やかで仄明るい花崗岩は、湯気のなかでやわらかな存在感を放ちます。浴室の扉の上には、「洒心(さいしん)」——「心を洗う」と読ませる小さな扁額。日本人がいかに入浴を、身体だけでなく内面の浄化として捉えてきたかを、静かに物語っています。
湯そのものの魅力
湯田中温泉は、文献によれば約一千三百五十年前、僧・智由がこの湯を発見し「養遐齢(ようかれい)」——長寿を養う湯——と名づけたと伝えられます。松代藩真田家、俳人・小林一茶、初代陸軍軍医総監の松本良順など、歴史に名を刻む人々がこの湯を訪れたことでも知られます。よろづやは三本の自家源泉を有し、桃山風呂を満たす湯は約七十五・六度で湧出。井戸水で約二十五パーセントを加水して適温に整えるのみで、加温も循環も行わない、源泉かけ流しのまま湯船に注がれます。泉質はナトリウム-塩化物・硫酸塩温泉、弱アルカリ性で、長く浸かるほど肌がしっとりと潤うのを実感できるでしょう。
桃山風呂に併設される庭園露天風呂は、約七十畳もの広さを誇る雄大な空間。石組み、植栽、そして立ちのぼる湯気が織りなす一幅の絵のような景色は、夜にひときわ味わいを増します。さらに温泉蒸し風呂もあり、湯の楽しみは尽きません。
周辺の見どころ|野猿、温泉街、そして山岳の自然
湯田中は、九つの古湯が連なる湯田中渋温泉郷の玄関口に位置しています。よろづやから車で約二十分、世界的に名高い「地獄谷野猿公苑」では、寒い季節になるとニホンザルが自分たちの露天風呂に入る愛らしい姿を目にすることができます。徒歩圏には江戸の風情を色濃く残す渋温泉があり、浴衣姿で九つの外湯をめぐり、湯入りごとに木の鐘を鳴らして満願成就を願う風習が今も生きています。さらに奥へ進めば志賀高原。冬は日本有数の連結スキーエリアとして賑わい、夏は湿原と白樺林を抜けるトレッキングが楽しめる、四季折々に表情を変える山岳リゾートが広がっています。
訪れるための情報
桃山風呂は、よろづやにご宿泊のお客様のみがご利用いただける浴舎です。日帰り入浴は原則として行われていません。男女の入浴時間は決まっており、ご婦人は十五時から二十一時三十分まで、殿方は二十二時から翌朝九時三十分までで、その間に清掃時間が設けられます。スタッフによる桃山風呂の見学ツアーが不定期で開催され、建築の歴史や意匠について丁寧な解説を受けることができます。空いた浴室での撮影も時間帯によっては許可されますが、入浴中の撮影は厳禁です。
長野電鉄湯田中駅から徒歩約七分。東京駅からは北陸新幹線で長野駅(約九十分)、長野電鉄に乗り換えて湯田中駅まで、合わせて約三時間の道のりです。冬季にお車で向かわれる際はスタッドレスタイヤやチェーンが必要となります。スノーモンキーシーズンの十二月から三月は特に予約が混み合いますので、お早めの計画をおすすめいたします。
Q&A
- 宿泊しなくても桃山風呂に入ることはできますか。
- 原則として、桃山風呂はよろづや宿泊者専用の浴舎です。記念事業など特別な機会に日帰り入浴が開放された例もありますが、確実に入浴を楽しまれたい場合はご宿泊が唯一の方法となります。
- どのような点が文化財として高く評価されているのですか。
- 釘を使わない木組み、虹梁や組物といった社寺建築の技法、最高格式とされる折上格天井など、現代では再現が極めて困難な伝統技法が随所に用いられています。文化庁はこれを「再現することが容易でないもの」として登録しました。
- 訪れるのに最適な季節はいつですか。
- どの季節にもそれぞれの魅力があります。冬は雪化粧した浴舎の風情と地獄谷野猿公苑への近さ、秋は周囲の山々の紅葉、春から夏にかけては涼やかな気候と志賀高原の自然散策が楽しめます。
- 浴室での写真撮影はできますか。
- 入浴時間中の撮影は他のお客様のプライバシーを守るため固くお断りしています。曜日により浴室が空いている時間帯に撮影の機会が設けられることがありますので、最新の運用についてはチェックインの際にスタッフへお尋ねください。
- 東京からのアクセスを教えてください。
- 東京駅から北陸新幹線で長野駅まで約九十分、そこから長野電鉄で湯田中駅へ。総所要時間は約三時間で、湯田中駅から旅館までは徒歩で七分ほどの道のりです。
基本情報
| 名称 | よろづや旅館桃山風呂(よろづやりょかんももやまぶろ) |
|---|---|
| 所在地 | 長野県下高井郡山ノ内町大字平穏3137 |
| 文化財種別 | 国登録有形文化財(建造物) 平成15年(2003年)12月1日登録 |
| 竣工 | 昭和28年(1953年) 昭和26年(1951年)着工 |
| 設計 | 沖津 清 |
| 構造 | 木造平屋建、鉄板葺 建築面積約220㎡ |
| 建築様式 | 純木造伽藍建築(安土桃山時代の意匠) 切妻造、平入、唐破風玄関、折上格天井 |
| 所有者 | 株式会社萬屋傳蔵 |
| 泉質 | ナトリウム-塩化物・硫酸塩温泉、弱アルカリ性、源泉温度約75.6℃ |
| アクセス | 長野電鉄「湯田中」駅から徒歩約7分 |
| 利用 | よろづや宿泊者専用 |
参考文献
- よろづや旅館桃山風呂|文化遺産オンライン(文化庁)
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/139418
- 桃山風呂|湯田中温泉 よろづや【公式】
- https://yudanaka-yoroduya.com/hs_momoyama.html
- 桃山風呂|松籟荘【公式】
- https://shoraiso.com/hotspring/momoyama/
- 国の登録有形文化財「桃山風呂」誕生70周年記念「入浴無料」イベント開催(PR TIMES)
- https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000005.000117107.html
- 湯田中温泉 よろづや旅館 桃山風呂|フォートラベル
- https://4travel.jp/dm_shisetsu/11963666
- 新美の巨人たち「文化財に泊まろう!湯田中温泉よろづや桃山風呂」|テレビ東京
- https://www.tv-tokyo.co.jp/broad_tvtokyo/program/detail/202602/14857_202602142200.html
最終更新日: 2026.05.03