旧平澤家住宅(松籟閣)― 和洋の粋を融合した昭和初期の名邸
新潟県長岡市、田園に囲まれた静かな一角に、昭和初期の日本が放った建築美の結晶とも言うべき一邸が佇んでいます。朝日酒造株式会社の創立者・平澤與之助(ひらさわ よのすけ)が、昭和9年(1934年)までに数年の歳月をかけて完成させた旧平澤家住宅、通称「松籟閣(しょうらいかく)」です。松籟とは、松の梢を吹き抜ける風の音のこと。邸を取り囲む松と楓の庭の佇まいと、施主の風雅な志を同時に表わした、詩的な名前です。
伝統的な日本家屋の格式を守りながら、アール・デコ様式の丸窓ステンドグラスや寄木細工の床、チーク材のモザイク扉を取り入れた和洋折衷の意匠。欄間や組子、蒔絵に至るまで銘木と工芸技術が惜しみなく注ぎ込まれ、近代日本住宅建築の到達点を今に伝える邸宅として、平成30年(2018年)に国の重要文化財に指定されました。
歴史的背景
江戸後期の天保年間に創業した朝日酒造は、「久保田」「越州」などの銘柄で知られる新潟を代表する蔵元のひとつです。昭和初期、創立者・平澤與之助は、自邸にして迎賓の場となる住宅の建築を構想しました。訪れる客人をもてなす空間として、そして当時最先端の意匠と技術を結集した建築として、その意志は昭和9年までに形を結びます。
主屋棟の木工事を担ったのは、地元の工務店である安達工務店。一方、洋風の応接室部や寝室部の設計には、清水組(現・清水建設)の大友弘が起用されました。大友弘は、かつて東京都品川区に所在した正田邸(上皇后美智子様のご実家)や新津記念館も手掛けた建築家で、松籟閣にもその洋風意匠の精緻な技が遺憾なく発揮されています。
平成13年(2001年)、朝日酒造の新製品倉庫建設に伴い、松籟閣は創立者の邸宅を後世に残すという強い意志のもと、建物全体を約70メートル曳家(ひきや)によって移築するという大掛かりな工事が行われました。平成16年(2004年)の新潟県中越地震では被害が全室に及びましたが、翌年の雪解けを待って復旧改修工事が進められ、平成17年(2005年)12月に完了。平成15年(2003年)には国登録有形文化財となり、そして平成30年8月17日、ついに国の重要文化財に指定されました。
重要文化財に指定された理由
文化庁による指定理由は、「近代新潟の主要産業である酒造業の創業家による昭和初期の優れた住宅建築として高い価値を有している」と明記されています。この評価を支える柱は、大きく三つに整理できます。
第一に、卓越した建築的完成度です。松籟閣は、主体部を中心に応接室部、御母堂室部、寝室部、勝手室部が組み合わされた構成で、正面中央に入母屋造の正玄関を配し、形式の異なる屋根を重層させた重厚かつ変化に富む外観を持っています。内部には、ケヤキ、カエデ、タガヤサン、チーク材、クスノキ、イチイなどの銘木が惜しみなく使われ、繊細な組子障子や彫刻欄間、蒔絵が随所を飾ります。
第二に、アール・デコ様式を大胆に取り入れた意匠です。洋風寝室には直線と円で構成された幾何学的なステンドグラスの丸窓があり、床は寄木細工、書斎との間仕切り扉にはチーク材を斜めに貼り、中央にガラスのモザイクタイルをはめ込んだ凝った造作が施されています。昭和初期の個人邸にこれほど完成度の高いアール・デコ空間が残ることは、極めて稀有です。
第三に、近代日本の産業史・文化史を物語る記念碑としての価値です。新潟の基幹産業であった酒造業の創業家が、世界的に工業製品の流通が始まった時代の潮流を自邸に写し取ったこの建物は、地域と世界が結ばれ始めた昭和初期の日本を証言する、貴重な物的資料です。
見どころ
来訪者は、入母屋造妻入形式・総ケヤキ造の車寄を備えた正玄関から邸内へと迎え入れられます。玄関脇の火頭窓には、松葉崩しを思わせる極細のケヤキ桟が交差しており、邸名の由来を一目で印象づける造形です。
中心となる「松籟の間(茶の間)」は2間半四方の12畳半。床柱にはヤシ材、床板にケヤキ、框にタガヤサンを用い、上段には横尾深林人による籠と花・松に鳥の襖絵が、仏間との境には福田豊四郎による海と舟の襖絵が描かれています。昭和10年夏に福田が平澤家に寄宿して描いたと考えられる「越路客中」の銘も残り、施主の芸術への深い関わりを物語ります。
茶の間裏手の洋風食堂は、寄木細工の床と、中心に8角形の意匠を配した格天井が印象的な空間です。続く洋風寝室では、東寄りの壁面に据えられたアール・デコの丸窓ステンドグラスが、陽の光を色とりどりに変えて床に落とします。
主屋棟東側の応接室は、桁行18尺、梁行14尺の洋室。暖炉の上には福田豊四郎の絵「暮沼」が掲げられ、両脇をステンドグラスが飾ります。漆喰塗の天井中央には菱形の装飾を配し、4灯のシャンデリアが吊り下げられる意匠は、大友弘設計ならではの洋風空間の完成形です。
主屋棟四周の廊下にはケヤキの長材が敷き詰められ、節であった部分には富士山形や瓢箪形、扇形などの木片で塞ぎが施されています。「節塞ぎ」と呼ばれるこの遊び心は、歩きながら探す愉しみを訪問者に与えてくれます。
建物を囲むコの字型の中庭にも注目したいところです。赤、茶、青、白と色とりどりの石が巧みに配され、西側には京都・銀閣寺型を模した手水鉢が据えられています。和の美意識を深く身につけた施主ならではの、静かな細部の妙が庭にも息づいています。
拝観案内
松籟閣は、朝日酒造の敷地内にあり、一般見学が可能な文化施設として公開されています。最寄駅はJR信越本線の北長岡駅で、タクシーで約10分、あるいは上越新幹線が停車するJR長岡駅からも路線バスまたはタクシーでアクセスできます。
開館期間は4月から11月まで。休館日は火曜日と木曜日で、施設の貸し出しや維持管理、悪天候の都合により休館となる場合もあります。土日祝日には見学ガイド付きの案内が行われており、建物の細部や歴史を深く知りたい方にはこちらがおすすめです。入館料は無料で、現役の酒造施設と同じ敷地にあることから、拝観にあたっては係員の案内や建物の保全に配慮することが求められます。
開館時間が11:00から15:00と比較的短いため、余裕をもって来訪計画を立てることが望まれます。朝日酒造の酒蔵見学とあわせて訪れることで、昭和初期の建築文化と、江戸時代から続く新潟の酒造文化の両方を一日で体感できる、贅沢な文化体験となるでしょう。
周辺情報
松籟閣のある長岡市越路地域は、田園の風景と河川の自然に恵まれた地域で、渋海川沿いのサイクリングや散策も楽しめます。越路エリアには地元の食材を扱うカフェや工芸品の工房も点在し、春の桜、夏の田の緑、秋の紅葉、冬の雪景色と、四季折々の景観がこの地域を訪れる理由を一層豊かにしてくれます。
長岡市は、日本三大花火大会のひとつである長岡まつり大花火大会や、戦災の歴史を伝える長岡戦災資料館、新潟県立近代美術館など、文化的見どころに恵まれた街でもあります。朝日酒造以外にも歴史ある酒蔵が点在しており、酒文化と建築文化を巡る旅の拠点として、新潟を代表する目的地のひとつと言えるでしょう。
Q&A
- 「松籟閣」という名前の由来は何ですか?
- 「松籟(しょうらい)」とは、松の梢を吹き抜ける風、またその音を意味する言葉で、「閣」は高殿や邸宅を指します。邸を囲む松と楓の庭の情趣と、施主・平澤與之助の風雅な美意識をあわせて表した、詩情ある名前です。
- 松籟閣は通常の住宅なのですか、それとも特別な用途の建物ですか?
- もともとは朝日酒造の創立者・平澤與之助の自邸として建てられましたが、当初から訪れる客人を迎える迎賓の場としての機能を併せ持っていました。現在は茶会や各種文化活動の拠点として活用されており、重要文化財として一般にも公開されています。
- 日本家屋なのに「アール・デコ」と呼ばれるのはなぜですか?
- 松籟閣は全体としては日本の伝統的な住宅様式を踏襲しつつ、洋風寝室や応接室といった特定の空間にはアール・デコ様式を積極的に取り入れています。直線と円で構成されたステンドグラスの丸窓、寄木細工の床、幾何学模様のモザイクタイル、暖炉脇のステンドグラスなどが、1930年代に世界を席巻したアール・デコの感性を物語っています。
- 建物全体が移動したというのは本当ですか?
- 事実です。平成13年(2001年)、朝日酒造が新しい製品倉庫を建設するにあたり、建物を解体せず約70メートル曳家(ひきや)により移築しました。建物を持ち上げて車輪に載せ、そのままの形で別の基礎の上に移動させる伝統工法で、昭和9年の増築工事以来松籟閣に関わってきた清水建設により施工されました。
- 入館料はかかりますか?事前予約は必要ですか?
- 入館料は無料です。開館時間内の個人見学については原則として予約は不要ですが、開館日および時間帯が限られており、施設の貸し出しや悪天候により休館となる場合もあるため、遠方から訪れる場合は事前に朝日酒造に問い合わせておくと安心です。
基本情報
| 名称 | 旧平澤家住宅(松籟閣)主屋 |
|---|---|
| 所在地 | 新潟県長岡市朝日字滝ノ下980番地1 |
| 指定区分 | 国指定重要文化財(平成30年〔2018年〕8月17日指定)/平成15年〔2003年〕国登録有形文化財 |
| 時代 | 昭和初期(昭和9年〔1934年〕までに完成) |
| 構造 | 木造平屋建(一部2階建)、主体部・応接室部・御母堂室部・寝室部・勝手室部からなる(1棟) |
| 施主 | 平澤與之助(朝日酒造創立者) |
| 設計・施工 | 主屋棟:安達工務店(地元工務店)/洋風応接室・寝室部:清水組(現・清水建設)大友弘 |
| 所有者 | 朝日酒造株式会社 |
| 開館期間 | 4月~11月 |
| 休館日 | 火曜日・木曜日 |
| 開館時間 | 11:00~15:00 |
| 入館料 | 無料 |
| 連絡先 | 朝日酒造株式会社(平日9:00~17:00)TEL 0258-92-3181 |
参考文献
- 旧平澤家住宅(松籟閣) ― 文化遺産オンライン(文化庁)
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/401951
- 松籟閣 ― 朝日酒造株式会社 公式サイト
- https://www.asahi-shuzo.co.jp/visit/shouraikaku/
- 松籟閣 ― 長岡観光ナビ(長岡市公式観光サイト)
- https://nagaoka-navi.or.jp/spot/42544
- 「松籟閣(旧平澤家住宅)」 ― NOVARE Archives 清水建設歴史資料館
- https://www.shimzarchives.jp/heritage/heritage_650/
- 松籟閣 ― にいがた観光ナビ(新潟県公式観光情報サイト)
- https://niigata-kankou.or.jp/spot/44306
最終更新日: 2026.04.19