日本最大の宝篋印塔

宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、大分県臼杵市大字深田字木原にある鎌倉時代後期の石造塔で、通称を日吉塔(ひよしとう)といい、昭和29年(1954年)9月17日に国の重要文化財に指定された。満月寺の境内北端、竹林を背にして立つ。

宝篋印塔は供養塔・墓塔として用いられた仏塔の一形式で、名称は宝篋印陀羅尼経に由来する。原型は、中国・呉越の王である銭弘俶がインドの阿育王の仏舎利塔にならって八万四千基の金属塔を造ったという故事にさかのぼるとされる。日本には平安時代中期に伝わり、鎌倉時代に入って形が定型化した。定型化以降は塔形そのものの名称となったため、宝篋印陀羅尼経以外を納めたものも宝篋印塔と呼ばれる。

この塔を際立たせているのは寸法である。臼杵市は総高4.09メートルとし、国宝臼杵石仏の公式サイトは台座からの総高を4.2メートルと記す。どちらの数字をとっても、確認されている宝篋印塔としては国内最大となる。ただし両者は計測の起点が異なるとみられ、文化庁のデータベースには寸法の記載がない。

五個の大石と、ひとつの手間

石材は凝灰岩。臼杵の磨崖仏群を成立させたのと同じ、彫りやすく風化しやすい火山性の石である。塔は基礎・塔身・笠・相輪の大石五個を積み上げて構成されている。

石造美術を見る人がまず指摘するのは屋蓋の四隅である。宝篋印塔の隅飾突起は、通常なら笠と同じ一石から彫り出す。この塔では別石になっている。ほかの造塔者が簡略化していく方向へ進んだところで、この塔を建てた者だけが手間を増やす選択をした。その理由は記録に残っていない。

基礎は四面それぞれに格狭間を二個ずつ刻む。塔身は厨子の形に造られ、その内方の底部に深い穴が開く。何かが納められていたことは確かで、経巻と推定されているが、確証となる出土品はない。

相輪は笠の中央からわずかに芯がずれている。据え付けの誤差なのか、七百年の間の沈下なのかは判断がつかない。それでも塔全体の均衡は崩れておらず、彫りは迷いがなく、この高さに対する各部の分量の取り方も的確である。

銘のない石をどう年代づけるか

この塔には記銘がない。年紀も願主も石工名も刻まれていない。造立年代についての記述はすべて、形の読み取りに基づいている。

文化庁の国指定文化財等データベースは時代を鎌倉後期とし、西暦の幅を1275年から1332年としている。臼杵市の解説はより慎重で、鎌倉時代の中期を降るまいという言い方をとる。満月寺の現地解説は13世紀後半を挙げる。三者は重なりつつ一致していない。本記事では、記述が分かれる箇所については一次資料である文化庁の記載を基準とした。

通称のほうにも情報がある。日吉塔の名は、満月寺の守護社であり古園石仏の上方に鎮座していた日吉社に由来する。寺の守護社の名を冠した塔ということは、満月寺の整備事業の一環として、経典を納め寺域を鎮護する目的で建てられたと考えるのが自然だろう。

出てこなかった黄金

この塔には歌が付いていた。「朝日さす、夕日かがやくこの下に、黄金千杯、朱千杯、七つ並びが七並び」。埋蔵金の在り処を示すというこの種の文句は日本各地の農村に伝わっており、実際に掘られることはまずない。

昭和26年(1951年)11月、津久見市の老人が実際に掘った。場所は塔から二十メートルほど下の田んぼである。黄金は出なかった。代わりに出土したのは木片と古瓦だった。

この古瓦のほうに価値があった。満月寺は天正年間に記録を失っており、寺と磨崖仏の創建についてはいまも解明されていない。年代の手がかりになる建築部材が乏しいなかで、失敗した宝探しが資料を提供した恰好である。のちの発掘調査では、現在の本堂の西側と南側から新旧二時期の礎石跡が見つかっている。東西・南北とも約11メートルの鎌倉時代初めの礎石と、それに重なる室町時代の礎石建物の跡である。江戸時代の『寺社考畧』に、本坊釈迦堂は七間四面で礎石が二重になっていると記されており、この建物跡と対応するとみられている。

境内に並ぶ石造物

塔は単独で立っているわけではない。満月寺の境内には石造物がまとまって残り、いずれも数分で歩ける範囲にある。

入口付近に立つ一対の仁王像は木原石仏と呼ばれ、腿のあたりまで地中に埋まっている。旧満月寺の門に立っていたと推測されている。両像とも鼻が完全に失われているが、これは「仁王様の鼻を削って粉を煎じて飲むと疫病に効く」という言い伝えから、人々に削り取られた結果だという。残った顔立ちは幅広く、愛嬌がある。造立は鎌倉時代終わりから室町時代にかけてとみられる。

本堂の東側にある二体の坐像は、真名野長者夫妻像と伝わる。もう一体は蓮城法師像とされ、磨崖仏を造らせた、あるいは彫らせた人物という伝承をもつ。いずれも伝承であって、史料による裏づけはない。近くの五重塔には、正和4年(1315年)に密教僧が先輩たちと亡き父母のために造立したという銘文が刻まれており、臼杵市の指定文化財となっている。境内のはずれには、伝説の玉津姫が植えたとされる大きな杉が残る。

見学と行き方

塔は特別史跡「臼杵磨崖仏」の区域内にある。JR日豊本線臼杵駅からバスで約20分。「大分県庁前行」または「三重行」に乗り「臼杵石仏」で下車する。運賃は200円。大分駅からは同じ路線で約1時間10分である。車なら東九州自動車道臼杵ICから約5分で、普通車80台・大型バス8台の無料駐車場がある。臼杵駅には無料のレンタサイクルがあり、自転車で約40分。

磨崖仏の観覧は有料で、大人(高校生以上)550円、小人(小中学生)270円。年中無休、9時から17時まで(最終入館16時30分)である。観覧順路は階段とスロープの続く山道で、途中に重要文化財の五輪塔がある。ひと巡りして石仏公園を抜けた先が満月寺で、宝篋印塔はその境内の北端に立つ。塔そのものに拝観料は設定されていない。観覧時間外に立ち寄る場合は、当日の状況を臼杵石仏事務所(0972-65-3300)で確認するとよい。

この塔は昭和27年(1952年)3月29日に石仏群とともに特別史跡となり、その二年後に中尾の五輪塔とあわせて重要文化財にも指定された。史跡と重要文化財の二重指定である。石仏公園の蓮は7月から8月に咲き、開花は夜明けとともに進んで午前8時から9時ごろが盛りになる。早い時間に着けば蓮に間に合ううえ、東から差す低い光が塔の石肌を横から照らす。格狭間の彫りがもっとも読み取りやすいのはこの時間帯である。

Q&A

Q宝篋印塔(日吉塔)はどこにあり、どう行けばよいですか?
A臼杵市大字深田、満月寺の境内北端に立ちます。臼杵石仏の観覧順路を巡り、石仏公園を抜けた先です。JR臼杵駅から「大分県庁前行」または「三重行」のバスで約20分、200円、「臼杵石仏」下車。車なら臼杵ICから約5分で、無料駐車場があります。
Q宝篋印塔は本当に日本最大の宝篋印塔なのですか?
A確認されている数値ではそのとおりです。臼杵市は総高4.09メートル、国宝臼杵石仏の公式サイトは台座からの総高4.2メートルとしています。いずれも他の宝篋印塔を上回りますが、両者は計測の起点が異なるとみられます。
Q宝篋印塔の見学に拝観料はかかりますか?
A塔そのものに拝観料は設定されていません。ただし多くの人がたどる臼杵石仏の観覧順路は有料で、大人550円・小中学生270円、9時から17時まで(最終入館16時30分)です。時間外の立ち寄りについては臼杵石仏事務所(0972-65-3300)にご確認ください。
Q宝篋印塔はいつ造られたのですか?
A記銘がないため、年代は形式からの推定になります。文化庁は鎌倉後期(1275年から1332年)とし、臼杵市は鎌倉時代中期を降るまいとし、満月寺の現地解説は13世紀後半を挙げています。三つの見解は重なりつつ一致していません。
Q宝篋印塔が「日吉塔」と呼ばれるのはなぜですか?
A満月寺の守護社で、古園石仏の上方に鎮座していた日吉社に由来する通称です。塔に刻まれた銘によるものではなく、寺と守護社との関係から付いた呼び名です。

基本情報

名称宝篋印塔(ほうきょういんとう)/通称 日吉塔
所在地大分県臼杵市大字深田字木原929の2番地(満月寺境内北端)
指定区分重要文化財(建造物) 指定番号01321。特別史跡「臼杵磨崖仏」の区域内
指定年昭和29年(1954年)9月17日重要文化財指定(特別史跡指定は昭和27年3月29日)
員数1基
寸法総高4.09メートル(臼杵市)/台座からの総高4.2メートル(国宝臼杵石仏公式サイト)。石造、凝灰岩、大石五個からなる
所有者臼杵市
公開状況屋外・通年見学可。塔単独の拝観料はなし(臼杵石仏の観覧順路は有料)

参考文献

文化庁 国指定文化財等データベース「宝篋印塔」
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/102/3592
臼杵市「臼杵市内の文化財(国指定)」
https://www.city.usuki.oita.jp/docs/2014021200019/
臼杵市「日吉塔」
https://www.city.usuki.oita.jp/docs/2014020300208/
国宝臼杵石仏 公式サイト「料金・アクセス」
https://sekibutsu.com/access/
文化遺産オンライン「宝篋印塔」
https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/123677/1

最終更新日: 2026.08.20