国府遺跡 ― 二万年の暮らしが積み重なる藤井寺の台地
大阪府藤井寺市惣社、石川と大和川が合流する地点のすぐ西に、人が住みつづけた一画の土地がある。国府遺跡である。旧石器時代から中世にいたるまで、人々の生活の跡が同じ地層に何層も重なって残されてきた。1917年(大正6年)、この地で日本初の本格的な発掘調査が行われ、その成果は今も考古学の議論の中心にありつづけている。
現在、遺跡の一部は街なかの公園になっている。石碑と花壇があるだけで、通りすがりの目には特別な場所とは映らないかもしれない。この遺跡のおもしろさは、ほとんどが地表の下に、あるいはかつてそこから掘り出されたものの中にある。
各時代の暮らしが残る複合遺跡
遺跡は羽曳野丘陵の北東縁、二つの川の合流点に近く、河内平野を行き来する古くからの交通路沿いに位置する。長期にわたって人が住みついた背景には、この立地がある。
約2万年前の旧石器時代には、石を打ち欠いて道具をつくる人々がこの台地で活動していた。縄文時代から弥生時代にかけては集落と墓地が営まれ、飛鳥時代には仏教寺院が建てられた。奈良・平安時代になると、この地に河内国府が置かれた。「国府」という地名はここに由来する。考古学では、複数の時代の遺構が一か所に積み重なって残る遺跡を複合遺跡と呼ぶが、国府遺跡はその代表例とされる。
最初の組織的な発掘は大正6年のことである。前年、歴史学者の喜田貞吉が、この地で採集された大形の粗い石器に着目し、縄文時代より古い時代のものではないかと考えた。その層位を確かめるために、京都帝国大学の浜田耕作が発掘に着手する。ところが調査隊は地表近くから保存状態のよい人骨3体を掘りあて、調査の主眼は埋葬人骨へと移っていった。発掘は1921年(大正10年)までに10次ほど続き、遺跡の歴史を通じて30数次の調査が行われている。
史跡に指定された理由
国府遺跡が国の史跡に指定されたのは1974年(昭和49年)6月25日で、1977年(昭和52年)7月19日には追加指定が行われた。指定面積は約18,450平方メートルにおよぶ。指定の根拠は一つの建造物ではなく、この土地が出した遺物・遺構の幅の広さにある。
一つの軸は、日本に旧石器時代があったのかという問いである。浜田が発掘した大正6年当時、日本に旧石器時代は存在しないという見方が主流だった。1917年の調査結果はこの点については決め手を欠き、本格的な旧石器研究は1949年の岩宿遺跡(群馬県)の発見まで停滞する。国府遺跡では1957年・1958年の再調査によって、縄文時代の文化層より下位の粘土層からサヌカイト製の石器群が確認され、この地での旧石器時代の人々の活動が裏づけられた。
もう一つの軸は、特定の石器そのものである。「国府型ナイフ形石器」は、この遺跡の名を冠した石器の型式名だ。二上山周辺で採れる緻密な火山岩・サヌカイトを石核とし、横長で翼のような形の剥片を連続して打ち剥がす技法でつくられる。この方法は現在「瀬戸内技法」と呼ばれている。型式の特徴が一定して見分けやすいため、西日本の後期旧石器時代の石器群を分類・編年するうえでの指標として用いられている。
三つ目の軸は人骨である。発掘では縄文時代から弥生時代にかけての人骨が約90体検出された。酸性土壌が多く貝塚の少ない西日本では、古い人骨がまとまって出土することはまれで、これは貴重な事例である。なかには、けつ状(玦状)耳飾りという、一か所に切れ込みを入れた環状の装身具を身につけて葬られた人もいた。複数の人骨には、健康な歯を儀礼的に抜く抜歯や、上顎の前歯を尖らせるように削る叉状研歯の痕がある。叉状研歯が学術的に初めて報告されたのはこの遺跡からで、出土した人骨は縄文時代の社会習俗や儀礼を知るうえでの重要な手がかりとなっている。
大正期の調査で得られた遺物の多くは、発掘の費用を負担した大阪毎日新聞社主・本山彦一の収蔵となった。これらは現在、関西大学博物館の本山コレクションを形づくっており、その一部は国の重要文化財に指定されている。
現地で見られるもの
復元された建物を期待して訪れると、ここにはそれがない。国府遺跡は眺める遺跡というより読む遺跡で、少しの予備知識が見え方を大きく変える。
指定地のなかには、塔の心礎が一つ残されている。これは、その場所の古い字名から衣縫廃寺と呼ばれる寺院のものだ。出土した瓦は、日本最古の本格的寺院である飛鳥寺と同じ型でつくられており、衣縫廃寺の創建が7世紀初頭にさかのぼることが分かっている。この心礎は、飛鳥時代の建物が現地に残した最もはっきりとした痕跡である。
遺跡内の花壇は、縄文・弥生時代の埋葬人骨が見つかった範囲を示している。かつて墓地があった場所を、控えめに伝える工夫だ。けつ状耳飾りに関心のある人は、その形を市内のあちこちで知らずに目にしている。藤井寺市の市章は、市域に多い前方後円墳の輪郭と、この遺跡から出土したけつ状耳飾りの形を組み合わせて図案化されたものだからである。
台地に立ったら、足もとの数百メートル四方に重なる時間を思い描いてみたい。氷期の終わりの石器づくりの人々、死者をていねいに葬った縄文の集落、7世紀の寺院、そして国の役所が、同じ地面の上に順に積み重なっている。
アクセスと周辺の見どころ
遺跡へは、近鉄南大阪線の土師ノ里駅から北東へ徒歩約10分。駐車場はなく、周辺の道も狭いため、公共交通機関の利用が現実的である。史跡の敷地は開かれた空間で、入場料や決まった開園時間はない。
国府遺跡は、日本でも有数の古代遺跡の密集地のなかにある。南西のすぐ近くには、允恭天皇陵に治定される大型の前方後円墳・市野山古墳があり、ユネスコ世界遺産に登録された百舌鳥・古市古墳群の一基となっている。約870メートルの距離には、学者・官人の菅原道真ゆかりの道明寺天満宮と、隣り合う道明寺がある。国府遺跡をこれらと組み合わせれば、この地域の幾層もの過去をたどる半日ほどの行程になる。
Q&A
- 国府遺跡には実際に見られるものがありますか。
- 復元建物はありません。現地で目にできるのは、衣縫廃寺の塔の心礎、石碑、埋葬の範囲を示す花壇です。歴史を知ったうえで訪れる人ほど得るものが多い遺跡で、その意義の多くは地下や博物館の収蔵品のなかにあります。
- なぜ「国府」という名前なのですか。
- 奈良・平安時代にこの地に置かれたとされる河内国府、すなわち河内国の役所に由来します。役所そのものがなくなった後も、その役割の記憶が地名として残されました。
- 「国府型ナイフ形石器」とは何ですか。
- この遺跡の名を冠した後期旧石器時代の石器の型式です。サヌカイトから翼のような形の剥片を打ち剥がす瀬戸内技法でつくられました。特徴が見分けやすいため、西日本の石器群を分類・編年する指標として使われています。
- 出土品はどこで見られますか。
- 初期の発掘で得られた遺物の多くは、関西大学博物館の本山コレクションに収められており、その一部は国の重要文化財に指定されています。遺跡の敷地内に展示施設はないため、出土品を見たい場合は事前に博物館の所蔵状況を確認してください。
- 藤井寺市の市章とどう関係していますか。
- 藤井寺市の市章は、この遺跡から出土したけつ状耳飾りの形と、市域に多い前方後円墳の輪郭を組み合わせて図案化されています。縄文時代の装身具が、市の公式な象徴の一部になっているのです。
基本情報
| 名称 | 国府遺跡(こういせき) |
|---|---|
| 所在地 | 大阪府藤井寺市惣社 |
| 指定区分 | 国指定史跡 |
| 指定年月日 | 1974年(昭和49年)6月25日/1977年(昭和52年)7月19日追加指定 |
| 指定面積 | 約18,450平方メートル |
| 確認される時代 | 旧石器・縄文・弥生・古墳・飛鳥・奈良・平安・中世 |
| アクセス | 近鉄南大阪線 土師ノ里駅から徒歩約10分 |
| 入場 | 無料。開かれた空間で決まった開園時間はなし |
| 駐車場 | なし |
参考文献
- 史跡国府遺跡 - 藤井寺市
- https://www.city.fujiidera.lg.jp/soshiki/kyoikuiinkai/bunkazaihogo/shisekikouiseki/1387868692519.html
- 国府遺跡と旧石器 - 藤井寺市
- https://www.city.fujiidera.lg.jp/soshiki/kyoikuiinkai/bunkazaihogo/fuziiderasinositeibunnkazai/kunifusiteibunkazai/1387699957472.html
- 府内の史跡公園等の紹介【史跡国府遺跡】 - 大阪府
- https://www.pref.osaka.lg.jp/o180150/bunkazaihogo/bunkazai/kouiseki.html
- 国府遺跡(こういせき) - コトバンク
- https://kotobank.jp/word/国府遺跡-61411
- 国指定文化財等データベース(国府遺跡)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/401/1824
最終更新日: 2026.05.27