南滋賀町廃寺跡 ― 礎石から読み解く、名前を持たない古代寺院

大津市北部、琵琶湖を見下ろす傾斜地の公園の中央に、縦横およそ1.5メートル×1.8メートルの花崗岩が据えられている。上面は平らに削られ、二つのくぼみが穿たれている。直径約83センチの浅い円い柱座と、その中央にある直径約21センチ、深さ約18センチの深い孔である。これは塔の心礎で、舎利を納める孔をもつ。心礎の大きさから、ここに建っていた塔は高さ約30メートルに達したと推定されている。

塔はすでになく、塔をもっていた寺院も失われている。残されたのは、発掘によって明らかにされた伽藍の配置と、研究者が数十年かけて取り組んだ「寺の名前」をめぐる問題である。この寺院には記録に残る正式な寺号がない。そのため現在は、寺院が建っていた地名をとって南滋賀町廃寺跡と呼ばれている。

遺跡は昭和32年(1957年)に国の史跡に指定された。日本仏教の初期の歩みに関心のある人にとって、この場所には独特の見どころがある。7世紀の寺院の敷地の中に立ち、礎石と瓦片だけからどれほどのことが復元できるのかを、実際に確かめられることである。

短命の都に寄り添った寺

天智天皇6年(667年)、朝廷は飛鳥(現在の奈良県)から琵琶湖西岸へ都を移した。翌年、中大兄皇子は天智天皇として即位し、新しい都は近江大津宮と呼ばれた。しかしこの都は長くは続かなかった。天智天皇が672年に没すると壬申の乱が起こり、朝廷は南へ戻り、大津はわずか5年ほどで都としての役割を終えた。

この前後の時期に、大津宮を囲む山裾にはいくつかの仏教寺院が建立された。南滋賀町廃寺もその一つである。寺は湖を見下ろす台地に建ち、大津宮跡の北約750メートル、宮とほぼ南北の線上に並ぶ位置にあった。出土した土器や瓦からは、寺院が都そのものよりはるかに長く、7世紀後半の白鳳時代から平安時代末まで、およそ五百年にわたって存続したことがわかっている。

この地が最初に調査されたのは昭和3年(1928年)、二度目の大規模な調査は昭和13年(1938年)に始まった。いずれの発掘も、当時まだ確定していなかった大津宮の所在地をつきとめる目的を兼ねていた。調査によって塔・金堂・講堂・僧房の基壇が姿を現し、ここに規模の大きな寺院が建っていたことが確かめられた。

ただし寺院の正体は長く未確定のままだった。建物は天智天皇ゆかりの崇福寺、あるいは桓武天皇が後に創建した梵釈寺ではないかと考えられてきた。やがて文献の記述が別の答えを示す。古い記録『扶桑略記』は崇福寺を大津宮の乾(北西)の方角に置いており、近くの滋賀里の山中に見つかった別の寺院跡のほうがこの記述に合う。さらに崇福寺と梵釈寺が近接していたと別の史料が記すことから、南志賀のこの寺院は名前の伝わらない逸名の寺と整理され、史跡の名称には地名だけが用いられている。

配置を読む ― 川原寺式の伽藍

遺跡から復元された建物の配置は、川原寺式と呼ばれる伽藍配置に属する。中門を入ると東側に塔、西側にこれと対峙する西金堂が建ち、その北の中軸線上に金堂、続いて講堂が並んだ。講堂の三方を僧房が取り囲む構成である。

この配置は、天智天皇の母にゆかりのある飛鳥の川原寺にちなんで名づけられた。両者が一致することには意味がある。南滋賀の遺跡をめぐる初期の解釈では、中門の左右に並ぶ二つの建物を東西の塔、最も北の建物を食堂と読んでいた。その後の研究が両方の読みを改め、西側の建物を西金堂、食堂を僧房と判断した。修正された配置によって、この寺院は孤立した事例ではなく、知られた建築の系譜の中に位置づけられた。

地上で注目したい構造上の特徴が一つある。塔・西金堂・金堂を支える基壇は、切石ではなく瓦を積み重ねて仕上げられていた。瓦積基壇と呼ばれる技法で、初期の寺院に複数の例があり、この遺跡の年代を推定する手がかりの一つとなった。

塔の心礎と「サソリ文瓦」

この遺跡では、二つのものをゆっくり見ておきたい。一つは公園の中央にある塔の心礎である。平らな上面に刻まれた円い柱座は塔の中心柱の根元を受け、中央の小さな孔には仏舎利が納められた。現在見られる心礎は、昭和3年の発掘の際に近くの民家から見つかり、公園に移されたものなので、本来の位置にあるわけではない。それでも寸法はそのままであり、高さ約30メートルという塔の推定はこの石を根拠としている。

もう一つは、ほかでは見られない瓦である。日本の古代寺院の多くは、蓮の花を上から見た文様の軒丸瓦で甍の先端を飾った。南滋賀町廃寺はこれに加えて、蓮の花を横から見た文様の方形軒瓦を用いた。その文様が後の人の目にサソリを思わせたことから、この瓦は通称「サソリ文瓦」と呼ばれている。文様がこの遺跡に固有のものであるため、各地に散らばった出土品をこの一つの寺院に結びつける手がかりとなっている。

瓦そのものは、すぐ近くで焼かれた。寺院の西約300メートルにある榿木原(はんのきはら)遺跡の窯群が、ここで使われた瓦を生産していた。窯から建物まで瓦をたどることで、一つの寺院の生産と供給の関係を追うことができ、これはこの古さの遺跡では珍しい。

訪れ方と周辺

遺跡は琵琶湖に面した斜面の、段状に造成された一画にある。敷地の一部が小さな公園として整備され、塔の心礎と回廊・僧房の礎石がその場に残されているほか、解説の案内板が設置されている。管理された施設ではなく開かれた史跡公園であるため、入場料はなく、開園時間の定めもない。

最寄りは京阪石山坂本線の南滋賀駅で、西へ坂を登っておよそ7分から10分の道のりである。専用の駐車場はないため、公共交通機関を使うほうが訪れやすい。遺跡そのものはこぢんまりとしており、20分から30分ほどで見て回れる。

周辺には関連する史跡がまとまっている。天智天皇を祭神とする近江神宮が近く、大津宮そのものの場所である近江大津宮錦織遺跡も徒歩圏にある。かつてこの寺院と取り違えられた崇福寺の跡も、遠くない山中に位置する。これらをつなげば、大津が日本の都であった短い時代の足跡を、半日ほどで歩いてたどることができる。

Q&A

Q実際に見るものはありますか。それともただの空き地ですか。
A建物は残っていませんが、塔の心礎と、回廊・僧房の礎石がその場に残されており、伽藍配置を示す解説板も設置されています。観光寺院ではなく、考古遺跡として訪れるとよい場所です。
Qなぜこの寺院には正式な名前がないのですか。
Aこの寺院を確実に指す文献記録が見つかっていないためです。かつては崇福寺や梵釈寺と考えられましたが、後の研究でそれらの寺院は別の場所に比定され、現在は地名による名称で史跡指定されています。
Q寺院はどのくらい古いものですか。
A出土した土器や瓦から、大津宮の頃にあたる7世紀後半から、平安時代末の12世紀後半まで存続していたとみられます。
Q「サソリ文瓦」とは何ですか。
A蓮の花を横から見た文様で飾られた方形の軒瓦で、その文様がサソリに似ています。この寺院に固有の文様で、遺跡に関わる出土品を見分ける手がかりになっています。
Qどうやって行けばよいですか。所要時間はどのくらいですか。
A京阪石山坂本線の南滋賀駅から、坂を登って徒歩7分から10分ほどです。駐車場はありません。遺跡の見学は20分から30分程度で、近くの近江神宮や近江大津宮錦織遺跡とあわせて回れます。

基本情報

名称南滋賀町廃寺跡(みなみしがちょうはいじあと)
所在地滋賀県大津市南志賀一丁目・二丁目
指定区分国指定史跡
指定年月日昭和32年(1957年)10月11日
時代7世紀後半(白鳳時代)から平安時代末
伽藍配置川原寺式伽藍配置
管理団体大津市
アクセス京阪石山坂本線・南滋賀駅から徒歩約7〜10分。専用駐車場なし
公開状況無料。開園時間の定めのない史跡公園

参考文献

南滋賀町廃寺跡 - 文化遺産オンライン(国立情報学研究所)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/163031
南滋賀町廃寺跡(みなみしがちょうはいじあと) - 大津市
https://www.city.otsu.lg.jp/bz/a/4/18/60755.html
大津市歴史文化遺産マップ - 大津市
https://www.city.otsu.lg.jp/soshiki/010/2406/g/32454.html
新近江名所圖会 第74回 天智天皇がのこした大津宮 - 公益財団法人滋賀県文化財保護協会
https://www.shiga-bunkazai.jp/shigabun-shinbun/best-place-in-shiga/%E6%96%B0%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%90%8D%E6%89%80%E5%9C%96%E4%BC%9A%E3%80%80%E7%AC%AC74%E5%9B%9E/
南滋賀廃寺跡 - びわ湖大津歴史百科
https://rekishihyakka.jp/culturalheritages/o-p003/

最終更新日: 2026.05.27