建物のない、二つの「御殿跡」
令和2年(2020年)3月、滋賀県の二つの遺跡が「永原御殿跡及び伊庭御殿跡」という一つの名称でまとめて国の史跡に指定された。永原御殿跡は野洲市に、伊庭御殿跡は東近江市の能登川地区にあり、別々の市にまたがる。どちらを訪れても、目に入るのは建物ではなく地面の起伏である。野洲市の永原御殿跡では、高さ約3メートルの土塁がいびつな四辺形の区画を囲み、その外側を幅16〜20メートルの堀がめぐる。堀には今も水をたたえる部分が残る。東近江市の伊庭御殿跡で見えるのは、斜面に沿った短い石垣だけだ。地元ではこの一帯を古くから「御殿地(ごてんじ)」と呼んできた。
「御殿」という言葉に意味がある。両者は軍事拠点としての城ではなく、旅人が泊まる宿でもない。徳川将軍だけが使うために設けられた専用の施設である。17世紀のはじめから寛永11年(1634年)にかけて、初代家康・二代秀忠・三代家光の三人の将軍は、本拠の江戸と天皇のいる京都との間を何度も往復した。一行が途中で寝食をとるための場所、それが永原御殿と伊庭御殿だった。
二つの御殿は、いずれも朝鮮人街道の近くに位置する。朝鮮人街道は中山道の脇街道で、琵琶湖の東岸の平野を横切る道である。江戸時代、朝鮮通信使がこの道を通って江戸と往復したことが、その名の由来とされる。あわせて、関ヶ原の戦いののち徳川家康が東へ帰る際にこの道を通ったとも伝わり、縁起のよい道として将軍の上洛路に選ばれたともいう。
なぜ国の史跡となったのか
二つの御殿について分かっていることの多くは、性格の異なる二種類の資料がたまたま一致する、という形で裏づけられている。一つは図面である。徳川家の大工頭をつとめた中井家には「指図(さしず)」と呼ばれる詳細な建築図面が伝わり、両御殿の指図が現存する。もう一つは発掘調査の成果だ。永原御殿跡では平成29年度(2017年度)から調査が続き、指図に「古御殿(ふるごてん)」「御亭(おちん)」「南之御門(みなみのごもん)」と記された建物の礎石などが見つかっている。伊庭御殿跡でも石垣・石列・根石・井戸が確認され、その位置が指図と合致した。四百年前の図面と現代の発掘トレンチが、同じ建物を同じ場所に描き出す。そのとき、遺跡の確かさは揺るがない。
この一致こそが指定の核心にある。文化庁は「政治に関する遺跡」にあたる基準で両者を史跡に指定した。評価されたのは建築の美しさではない。建物はすでに失われている。評価されたのは、初期の徳川政権が将軍の上洛をどのように支えたかを、現地の地面の上で具体的に示す、その資料としての価値である。
上洛そのものが政治的な行為だった。新しい将軍は、朝廷から正式な宣下を受けるために京へ上る。家康・秀忠・家光はそれ以外の用件でも京都へ向かった。慶長19年(1614年)から元和元年(1615年)の大坂の陣に向けた出陣、寛永3年(1626年)の後水尾天皇の二条城行幸への列席などである。いずれの行列も将軍の権威を示す場であり、その演出には舞台裏の手配がいる。御殿は、将軍が国土を移動するという行為を、整然と、不自由なく、ふさわしい格式で成り立たせるための仕組みの一部だった。
現地で何を見るか
永原御殿跡 ― 歩いて読む土の遺構
遺跡を案内されるよりも、自分の足で読み解くことを好む人にとって、永原御殿跡は見ごたえがある。中心部の本丸はゆがんだ四辺形で、西辺は南北約136メートル、南辺は東西約128.5メートルを測る。外周をたどれば、その規模が体感できる。気軽な別邸というより、小さな城に近い構えである。
この土地は、御殿が建つ以前から徳川家と縁が深かった。永原のあたりは豊臣秀吉から家康に与えられた所領で、関ヶ原の戦いまでは家康の領地の最も西にあたった。家康は慶長6年(1601年)、江戸へ戻る途中に永原に泊まったと記録され、御殿はそのころに整えられたとみられる。その後も拡張が重ねられ、家光が上洛する寛永11年(1634年)の直前には、新たに三の丸が加えられた。
発掘では、本丸のもっとも奥まった一画から「古御殿」「御亭」、そして「御休息所(ごきゅうそくじょ)」の跡が確認されている。1634年を最後に将軍の上洛は途絶え、御殿は貞享2年(1685年)に正式に廃止された。建物は入札にかけられて解体され、宝永2年(1705年)の火災で残りも失われた。野洲市は本丸を中心に史跡公園として段階的に整備を進めており、西側の土塁は保存のための保護が図られている。
伊庭御殿跡 ― 台所の名残
伊庭御殿跡はより小さく、静かである。南北約90メートル、東西約35メートルの単郭で、能登川の集落に近い繖山(きぬがさやま)の西麓に寄り添う。寛永11年(1634年)、家光のその年の上洛のためだけに、短期間で造られた。普請を指揮したのは作事奉行の小堀遠州、すなわち茶人としても知られる小堀政一であり、大工頭は中井大和守がつとめた。現地を読み解く手がかりとなる指図を残したのも、この中井家である。
現存する指図を見ると、敷地の大きな部分が台所に割かれている。これは伊庭御殿の役割と合う。ここは食事を整えて供する場所であり、宿泊する場所ではなかった。短命だった理由もそこにある。将軍の上洛が絶えれば、一度の行列のために設けられた休憩所に出番はない。伊庭御殿は数十年のうちに使われなくなった。今いちばんはっきり目に見えるのは南西側の石垣で、敷地そのものは地元の愛宕神社のお旅所として用いられている。
周辺とあわせて楽しむ
永原御殿跡へは、JR東海道本線の野洲駅が起点になる。新快速の停車駅で、京都から30分ほどの距離である。野洲駅の周辺は、線路の南にやわらかな円錐形を見せる近江富士・三上山への入口でもあり、その麓には本殿が14世紀の国宝として知られる御上神社が建つ。野洲市歴史民俗博物館は、この地域で出土した銅鐸の資料で知られ、土の遺構を歩いた午後の締めくくりにふさわしい屋内の見学先となる。
伊庭御殿跡のある能登川地区は、琵琶湖の内湖に沿って水路と葦原が広がる土地である。能登川や近江八幡を含む一帯は水郷の景観で知られ、近江八幡の商家の町並みも電車で近い。旧朝鮮人街道は今も各所で歩いてたどることができ、二つの御殿跡を、人や物、そして使節がこの近江の一角をどう行き交ったかという広い歴史のなかに置きなおしてくれる。
Q&A
- 実際に見るものはあるのか、それとも空き地だけか。
- 両遺跡は復元建物ではなく、遺構である。永原御殿跡では土塁の上を歩き、堀の一部を見ることができ、史跡公園としての整備が進められている。伊庭御殿跡で主に見えるのは石垣の一部である。歴史的な景観を読み解くことを楽しめる人には、永原御殿跡のほうが見どころが多い。
- 中に入れるのか、入場料は必要か。
- 永原御殿跡は開かれた土地で、入場は無料、券売所はない。発掘調査と公園整備が続く現場であるため、工事の都合で立ち入りが制限される区域がある。伊庭御殿跡は神社のお旅所として使われている土地にあり、地域で今も使われている場所として、敬意をもって見学したい。
- 公共交通機関での行き方は。
- 永原御殿跡は、JR東海道本線の野洲駅が最寄り駅で、京都から新快速でおよそ30分。駅から永原地区まではさらに徒歩、または短いタクシーの距離となる。伊庭御殿跡へは、東近江市の能登川地区が起点となる。現地の案内表示は限られるため、訪れる前に最新の情報を確認しておくとよい。
- なぜ離れた二か所が一つの史跡なのか。
- 二つの御殿は同じ仕組みの一部だった。どちらも同じ京都への道沿いに設けられた徳川将軍の休泊施設であり、どちらも中井家の指図によって裏づけられ、どちらも江戸時代初期の同じ政治史の一場面を示す。あわせて指定されたのは、その共通の役割を反映している。
- 「御殿」と城はどう違うのか。
- 城は本来、軍事と統治の拠点である。ここでいう御殿は、将軍が旅の途中で自身の用に使うための住まいだった。永原御殿は土塁と堀をめぐらせて城のような姿をとったが、その機能は防御ではなく宿泊と儀礼にあった。伊庭御殿は石垣で囲まれたより小さな施設で、食事のための立場(たてば)に近い。
基本データ
| 名称 | 永原御殿跡及び伊庭御殿跡(ながはらごてんあとおよびいばごてんあと) |
|---|---|
| 所在地 | 滋賀県野洲市・東近江市 |
| 指定区分 | 国指定史跡 |
| 指定年月日 | 令和2年(2020年)3月10日 |
| 指定面積 | 35,120.77平方メートル |
| 時代 | 江戸時代(17世紀初頭) |
| 管理団体 | 野洲市(永原御殿跡)/東近江市(伊庭御殿跡) |
| アクセス | 永原御殿跡:JR東海道本線・野洲駅周辺/伊庭御殿跡:東近江市能登川地区 |
| 公開 | 無料・常時見学可(発掘調査中は一部立入制限あり) |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)/永原御殿跡及び伊庭御殿跡
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/00004096
- 永原御殿跡(野洲市)
- https://www.city.yasu.lg.jp/soshiki/bunkazaihogo/nagaharagotenato/index.html
- 史跡永原御殿跡整備基本計画書(野洲市)
- https://www.city.yasu.lg.jp/soshiki/bunkazaihogo/nagaharagotenato/1652272921352.html
- 東近江市内の遺跡紹介(東近江市)
- https://www.city.higashiomi.shiga.jp/bunka_sports_shougaigakushu/rekishi_bunka/1003155/1003160.html
最終更新日: 2026.05.23