富田城跡(月山富田城)— 山陰の覇者・尼子氏が君臨した難攻不落の天空城

島根県安来市広瀬町、飯梨川がゆるやかに蛇行する田園の奥に、深い緑をまとった月山がひっそりと横たわっています。その山ふところに眠るのが、戦国の中国地方に巨大な勢力を築いた尼子氏の本拠地、富田城跡—通称「月山富田城」です。およそ70万平方メートルにおよぶ広大な城域は、東京ドーム約15個分にも相当し、昭和9年には国の史跡に指定されました。馬蹄形に伸びる尾根、累々と残る石垣、つづら折りの登城路を歩けば、戦国武将たちの気迫と、滅びゆく一族のはかない美しさが、今も静かに胸に迫ってきます。

幾世紀をかけて築かれた山陰の要塞

富田城の起源は古く、平安末期の十二世紀ごろにこの地が城地として用いられたと伝えられます。中世を通じて佐々木氏や京極氏などの有力武家がこの地を治めましたが、やがて京極氏の守護代として頭角を現したのが尼子氏でした。

転機となったのは文明十八年(1486年)のこと。一度はこの城を追われていた尼子経久が、奇襲によって富田城を奪い返したのです。これを契機に、尼子氏は単なる守護代から戦国大名へと飛躍し、山陰の政治・経済の中心地として富田城を整備していきます。経久と、その孫にあたる晴久の時代には、家の勢力は山陰山陽の十一州にまで広がり、銀山や日本海沿岸の港湾、そして古来の製鉄技術「たたら」から得られる富が、巨大な城郭を支えました。

しかし永禄九年(1566年)、毛利元就による一年半におよぶ包囲戦の末、尼子義久はついに開城を余儀なくされ、尼子氏の本宗家は滅亡します。その後、城は毛利氏、吉川氏へと渡り、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの後には堀尾氏が入城。堀尾氏は石垣造りや瓦葺きの建物を整えて近世城郭へと大改修しましたが、慶長十六年(1611年)に堀尾忠晴が新たに築いた松江城へと本拠を移したことで、富田城はその役割を終え、廃城となりました。

なぜ国の史跡に指定されたのか

昭和9年1月22日、富田城跡は国の史跡として指定を受けました。その評価の根拠は、いくつもの観点に支えられています。

第一に、規模の壮大さです。標高約184メートルの月山山頂に主郭部を据え、尾根に沿って大小無数の曲輪が馬蹄形に展開する複郭式山城としては、日本でも屈指の大きさを誇ります。第二に、中世的な土の城から、近世的な石垣の城への移行過程を、ひとつの城の中に重層的にとどめている点が貴重とされます。吉川広家、堀尾氏らによって築かれた石垣群は、安土桃山から江戸初期にかけての築城技術を伝える生きた資料です。第三に、戦国期の中国地方の政治史に深く刻まれた尼子氏の興亡という、歴史的物語と分かちがたく結びついた場所であることが、その価値を一層際立たせています。

国指定史跡に加え、平成18年(2006年)には日本100名城に選定され、平成30年(2018年)には日本遺産「出雲國たたら風土記」の構成文化財にも認定され、地域の鉄文化との結びつきが改めて評価されています。

城跡の見どころ

整備の行き届いた登城路をたどれば、各時代の遺構が物語の章をひとつずつ綴ってくれます。

山中御殿と居館エリア

山の中腹に広がる山中御殿平は、城主の居館があったとされる広大な平坦地です。その下方には千畳平、花ノ壇といった曲輪群が配され、建物の礎石や塀の一部が復原されています。周囲を取り囲む堂々とした石垣は、吉川広家や堀尾氏の時代に築かれたもので、安土桃山から江戸初期にかけての高度な築造技術を今に伝えています。

七曲り — 難攻不落の象徴

山中御殿の奥から本丸へと続くのが、つづら折りの急峻な登城路「七曲り」です。両脇の曲輪から矢や石を浴びせられる構造になっており、攻め上がる兵にとってはまさに地獄の道。月山富田城が一度も山頂までは攻め落とされなかったと伝わるのは、この七曲りの存在ゆえと言われ、まさに「難攻不落」の象徴と言えるでしょう。

本丸跡と勝日高守神社

七曲りを登りきると、三の丸、二の丸、本丸の曲輪が尾根上に連なって現れます。二の丸と本丸の間には敵の侵攻を遮断するための堀切が設けられ、防御の念の入りようがうかがえます。山頂には『出雲国風土記』にも記される古社・勝日高守神社が鎮まり、歴代の城主、特に尼子氏が篤く信仰したと伝わります。晴れた日には、城下から島根半島、弓ヶ浜、そして遠く日本海までも一望でき、その風景はかつての城兵が見ていた景色と重なります。

山中鹿介幸盛像

登城路の途中で必ず足を止めたいのが、山中鹿介幸盛の像です。広瀬の地に生まれ、若くして尼子家に仕えた鹿介は、主家の滅亡後も尼子再興を生涯の願いとして諸国を巡り、ついには非業の死を遂げた悲運の武将です。月山にかかる三日月に向かって「願わくは我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったと伝わるその姿は、忠義と志の象徴として、今なお多くの人の心を打ちます。

周辺のおすすめスポット

登城の前後には、城下町・広瀬の風情と、城跡を取り巻く歴史文化に触れる時間もぜひ確保してください。

  • 安来市立歴史資料館:登城口のすぐ近くにあり、月山富田城の精巧なジオラマや、富田川河床遺跡からの出土品が展示されています。登る前に城の全体像をつかむのに最適です。
  • 道の駅 広瀬・富田城:地元の特産品やパンフレットが揃い、登山の拠点としても便利な道の駅。お食事処も併設されています。
  • 巌倉寺:月山のふもとに佇む臨済宗の古刹で、堀尾吉晴の墓と、その妻によって建立された山中鹿介供養塔が並んでいます。
  • 城下町・広瀬の町並み:江戸時代の城下町の名残を残す通りには、約三百年の歴史をもつ酒蔵が今も営業しており、軟水で仕込まれる地酒が味わえます。
  • 足立美術館:月山富田城跡から車で十数分の距離にある、日本を代表する近代美術館。世界的に高く評価される日本庭園と、横山大観をはじめとする近代日本画の名品を鑑賞できます。

Q&A

Q本丸まで登るのにどのくらい時間がかかりますか?
A登城口から本丸までは、ゆっくり歩いて片道45分〜1時間ほどです。階段や案内板がよく整備されていますが、七曲りはかなりの急坂ですので、歩きやすい靴と飲み物の準備をおすすめします。
Q城の建物は残っていますか?
A江戸時代初頭に廃城となったため、当時の建物は残っていません。ただし石垣や曲輪、堀切、門跡、井戸跡など、城郭の構造を伝える遺構は非常によく保存されており、一部の建物は復原されています。
Q山中鹿介とはどのような人物ですか?
A山中鹿介幸盛(1545〜1578年)は、広瀬の地に生まれた尼子家の家臣です。永禄9年(1566年)の主家滅亡後も尼子再興の志を捨てず、各地で奮戦したのち34歳で命を落としました。「願わくは我に七難八苦を給え」と月に祈ったという逸話で知られ、忠義の武将として今も親しまれています。
Q訪れるのにおすすめの季節はいつですか?
A桜が咲く春(4月)と紅葉に染まる秋(11月)が特におすすめです。夏は山中の蒸し暑さに注意が必要で、冬は雪化粧した遺構が幽玄な雰囲気をたたえます。
Q入場料はかかりますか?
A城跡は常時開放されており、見学は無料です。麓の安来市立歴史資料館は別途入館料が必要で、火曜日(祝日の場合は翌日)は休館日です。事前予約で観光ボランティアガイドの利用も可能です。

基本情報

名称 富田城跡(月山富田城)
所在地 島根県安来市広瀬町富田
指定区分 国指定史跡(昭和9年1月22日指定)
その他の認定 日本100名城(平成18年)/日本遺産「出雲國たたら風土記」構成文化財(平成30年)
立地 月山(標高約184メートル)
城郭種別 山城(複郭式山城)/日本五大山城のひとつに数えられる
築城・廃城時期 12世紀末頃〜慶長16年(1611年)
主な城主 富田氏、佐々木(京極)氏、尼子氏、毛利氏、吉川氏、堀尾氏
開放時間 常時開放(歴史資料館は火曜休館)
料金 城跡見学は無料(歴史資料館は別途入館料が必要)
アクセス 山陰道・安来ICから車で約15分/JR安来駅からイエローバス広瀬方面行き「月山入口」下車
管理団体 安来市

参考文献

富田城跡 - 文化遺産オンライン
https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/139134
月山富田城跡 | 安来市観光ガイド
https://yasugi-kankou.com/spot/gassan-toda-castle-ruins/
月山富田城跡 | しまね観光ナビ
https://www.kankou-shimane.com/destination/20377
月山富田城 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/月山富田城
ガイドとめぐる日本100名城「月山富田城跡」 | しまね観光ナビ
https://www.kankou-shimane.com/pickup/50871.html

最終更新日: 2026.05.09