旅館いな葉 ― 松川河畔に佇む、築百年の木造温泉旅館

伊豆を代表する湯のまち・伊東温泉の中心、松川(伊東大川)の南岸に、屋根の上にドーム型の望楼を頂く木造三階建ての建物が静かに建っています。地元で「油差し」と呼ばれ親しまれてきたこの望楼を持つ建物こそが、登録有形文化財「旅館いな葉」です。隣接する「東海館」とともに、伊東温泉の最も象徴的な川辺の景観をかたちづくり、静岡県景観賞の最優秀賞にも選ばれた由緒ある一棟。1998年に国の登録有形文化財に登録されたこの建物は、2010年からは「ケイズハウス伊東温泉」として、世界中の旅人を迎える宿として新たな歩みを続けています。

建物の歴史

旅館いな葉は、大正末期(1912年頃から1925年頃)にかけて、松川沿いに軒を並べていた大型木造旅館の一つとして建てられました。建てたのは、隣の東海館を所有していた稲葉氏一族で、当初は「大東館」の名で営業を始めたと伝えられています。伊東温泉の賑わいとともに建物も成長し、昭和4年頃(1929年頃)には西端部に増築が行われ、特徴的な望楼が加えられました。さらに昭和12年頃(1937年頃)には三階部分が拡張され、現在見られる伸びやかな三階建ての姿が整います。

大正から昭和、戦後を通じて多くの湯治客や文人を迎えてきた旅館は、2007年に老舗旅館としての歴史に幕を下ろしました。しかし建物そのものはその後も大切に受け継がれ、2010年に外国人旅行者にも開かれた宿「ケイズハウス伊東温泉」として再出発。古き良き旅館建築と源泉かけ流しの温泉が、いまも訪れる人を温かく迎えています。

なぜ文化財に指定されたのか

旅館いな葉は、1998年9月2日付で国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。この登録には、いくつもの理由が積み重なっています。

第一に、地階を含めて三階建て、塔屋付きという大規模な木造旅館建築は、火災や建て替えによって全国的にもほとんど姿を消しており、その本格的な平面構成と立面を残す好例として高い評価を受けています。第二に、玄関ホールに敷かれた一枚板の欅をはじめ、銘木をふんだんに用い、欄間の彫刻や繊細な建具、丁寧に納められた天井など、室内の細部意匠にいたるまで職人の技が冴えわたっている点も注目されました。第三に、隣接する東海館とともに伊東温泉の象徴的な街並みを形成しており、その景観的価値は2002年に「温泉文化香る東海館界隈」として静岡県景観賞最優秀賞にも選ばれています。建築単体だけではなく、湯のまちの記憶を伝える存在として、登録の意義はとりわけ大きいといえるでしょう。

魅力と見どころ

「油差し」と呼ばれる望楼

建物の最も象徴的な特徴は、西端の屋根上に載るドーム形の望楼です。古くから油差しの形に似ていると親しまれてきたこの塔屋は、昭和4年頃に当時評判の名工によって建造されました。望楼に登れば、松川の流れと連なる屋根、そして伊東の街並みが一望のもとに広がります。隣の東海館にも同じく望楼があり、両家の主が高さを競うように増築したと伝えられる二つの塔屋が並ぶ姿は、まさに伊東温泉のシンボル的景観です。

唐破風の玄関と欅の床板

玄関を覆うのは、銅板葺きの優美な唐破風屋根。その軒下には、稲穂に群がる雀の彫刻が施され、訪れる人を縁起の良い意匠で迎えます。一歩中に入ると、玄関ホールの床に敷かれた欅の一枚板が目を引きます。長い年月をかけて磨き込まれた木肌は、しっとりとした飴色の艶を帯び、建物の歩みを静かに物語っています。

53畳の大広間

2階には、なんと53畳という広大な大広間が設けられています。中央の欄間を彩るのは、地元出身の彫師・森田東光氏による彫刻。床柱には太く堂々とした槐(えんじゅ)の銘木が立ち、格子状に組まれた天井がさらに空間を引き締めます。豪華さと品格を兼ね備えたこの広間は、当時の宴の賑わいを思わせるとともに、職人の腕前を今に伝える舞台となっています。

文福茶釜の湯口

浴室に足を踏み入れると、湯船に流れ落ちる湯がタヌキの口から注がれていることに気づきます。これも森田東光氏の手になる作品で、昔話「文福茶釜」をモチーフにしたユーモラスな湯口です。男湯・女湯それぞれにタヌキが控え、湯口の表情やしっぽの形にまで遊び心が宿っています。湯はカルシウム・ナトリウム塩化物泉の源泉かけ流しで、まろやかな肌触りが特徴です。

意匠の異なる19の客室

館内には全部で19の客室があり、そのいずれもが異なる意匠で誂えられています。川側の客室には雪見障子が設えられ、廊下には繊細なタイルを用いた共同洗面所が残るなど、館内のどこを歩いても新たな発見があります。現在はケイズハウス伊東温泉の客室としてそれぞれが大切に使われ、宿泊する人がそのまま文化財建築の細部に親しめる稀有な体験ができます。

訪問情報

建物は松川の南岸、JR伊東線・伊東駅から徒歩で約7分の場所にあります。東京駅からはJR特急「踊り子」で伊東駅まで約1時間40分、または東海道新幹線で熱海まで行きJR伊東線に乗り換えるルートでも約2時間ほど。現在は「ケイズハウス伊東温泉」として営業しており、和室や相部屋形式の客室で宿泊が可能です。源泉かけ流しの大浴場のほか、無料で利用できる貸切風呂も用意されています。日帰り利用や館内見学は時期によって対応が異なるため、訪問前に直接施設へ問い合わせると安心です。

周辺のみどころ

すぐ隣には、同じく登録有形文化財の「東海館」が建ち、市が運営する文化施設として一般公開されています。週末には日帰り入浴も楽しめ、二棟の望楼を間近で見比べられる絶好の場所です。松川の遊歩道を歩けば、これも登録有形文化財の旧伊東警察署松原交番(現・伊東観光番)が現れ、すぐ近くには伊東出身の詩人・小説家・医師である木下杢太郎を顕彰する木下杢太郎記念館もあります。海辺の伊東オレンジビーチへも徒歩圏内。少し足を延ばせば、城ヶ崎海岸、大室山、伊豆シャボテン動物公園など、伊豆半島の名所へバスや電車で気軽にアクセスできます。

Q&A

Q旅館いな葉に宿泊することはできますか?
Aはい。建物は2007年に旅館「いな葉」としての営業を終えましたが、2010年から「ケイズハウス伊東温泉」として再オープンし、現在も和室や相部屋形式で宿泊が可能です。源泉かけ流しの温泉も継承されています。
Q屋根の上の塔のような建物は何ですか?
Aドーム形の望楼で、地元では「油差し」と呼ばれて親しまれてきました。昭和4年頃に当時の名工によって建てられたもので、隣の東海館の望楼と並ぶ姿は、伊東温泉を代表する景観として知られています。
Qいつ文化財に指定されましたか?
A1998年(平成10年)9月2日に国の登録有形文化財(建造物)として登録されました。大規模な木造旅館建築の貴重な遺構であることが評価されています。
Q東京からのアクセスを教えてください。
A東京駅からJR特急「踊り子」で伊東駅まで直行、または東海道新幹線で熱海まで行き、JR伊東線に乗り換える方法があります。伊東駅から松川沿いを歩いて約7分で到着します。
Q宿泊しなくても建物の内部を見学できますか?
A建物は宿泊施設として運営されているため、見学の可否は時期や運営状況により異なります。内部見学を希望される場合は、事前に施設へお問い合わせいただくか、まずは松川沿いの遊歩道から外観をお楽しみいただくのもおすすめです。

基本情報

名称 旅館いな葉(りょかんいなば)
所在地 静岡県伊東市東松原町478
構造 木造、地上3階・地下1階・塔屋付、瓦葺、建築面積約451㎡
建築年代 大正末期頃(1912~1925年頃)/望楼は昭和4年頃、3階部分は昭和12年頃の増築
指定種別 登録有形文化財(建造物)
登録年月日 1998年(平成10年)9月2日
現在の用途 登録有形文化財の宿「ケイズハウス伊東温泉」
アクセス JR伊東線・伊東駅から徒歩約7分

参考文献

旅館いな葉 ― 文化遺産オンライン(文化庁)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/113564
旅館いな葉 ― 伊東市公式ホームページ
https://www.city.ito.shizuoka.jp/gyosei/soshikikarasagasu/shogaigakushuka/bunka_supotsu/2/2/1/2388.html
指定文化財一覧表 ― 伊東市
https://www.city.ito.shizuoka.jp/gyosei/soshikikarasagasu/shogaigakushuka/bunka_supotsu/2/2/1/2432.html
ケイズハウス伊東温泉 公式ホームページ
https://kshouse.jp/ito-j/index.html
旧旅館いな葉 ― 駿河湾★百景(伊東市観光ガイド)
https://www.surugawan.net/guide/399.html
ケイズハウス伊東温泉 ― 井伊部長の温泉グルメ探訪(スルガ銀行)
https://onsen.surugabank.co.jp/higashiizu/8539.html

最終更新日: 2026.04.30