将軍が身を潜めた部屋

慶応四年(一八六八)の春、二か月のあいだ、日本で最も大きな権勢を誇った一族が、たった一室に身を寄せた。十五代にして最後の将軍・徳川慶喜は、江戸城を明け渡し、寛永寺に退いて自ら謹慎に入る。二月十二日から四月十一日まで、慶喜が起居したのが「葵の間」である。名は徳川家の家紋・三つ葉葵に由来する。

この部屋があったのは、壮麗な本坊ではなく、五代将軍綱吉の供養のために建てられた子院・大慈院であった。天下に号令した人物が、紙と木で仕切られただけの質素な座敷でその身の処し方を待ったという事実は、彼の足もとで地面がどれほど大きく動いたかを伝えている。

控えめな上質さをもつ書院

葵の間は、武家の正式な接客建築である書院造の様式による、江戸末期の建物である。規模は小さい。主座敷は十畳、その北に次の間の八畳が接し、西側には一間幅の広縁がめぐる。主座敷では床の南の壁に下地窓が開き、床脇は地袋棚となっている。次の間は壁と天井を紙張りとし、北の縁に一畳ほどの板敷がつく。東には雪隠が接続する。

仕上げは華やかさではなく静けさを旨とし、ところどころに数寄屋風のくだけた趣を加えている。障子を閉て、四周を廊下に囲まれたこの座敷で、不安な数週間を過ごす慶喜の姿は、たやすく思い描ける。

建物は大正三年(一九一四)と平成二十五年(二〇一三)の二度、移築されている。移す際にひと回り小さく組み直されたため、障子の桟と枠が今では合わない箇所がある。令和三年(二〇二一)十月、時代を代表する上質な書院として、またそこに宿る歴史とともに、登録有形文化財となった。

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葵の間は通常は非公開である。根本中堂の裏手に位置し、渡り廊下を伝って至る。上野の山の文化行事に合わせた特別公開の折にのみ姿を見せる。公開が告知されると応募は多く、事前申込と抽選による拝観となるのが常だ。

戸口から覗くだけでも、この部屋は見る者に応える。素朴な紙張りの壁、低い地袋棚、一筋の板敷。そのどれもが人を圧倒するために作られてはいない。その抑制こそが要点である。ここは二百六十余年に及ぶ徳川の世が終わりを迎えた場であり、来訪者向けに飾り立てられることなく、そのまま保たれている。

Q&A

Qこの部屋を使ったのは誰で、いつのことですか。
A最後の将軍・徳川慶喜が、慶応四年(一八六八)二月十二日から四月十一日まで、水戸へ発つ前にここで謹慎しました。部屋はその縁で保存されています。
Q「葵の間」とはどういう意味ですか。
A三つ葉葵の間、という意味です。名は徳川家の家紋である三つ葉葵に由来します。この紋は権威の象徴として厳しく管理されていました。
Q見学できますか。
A常時の公開はしていません。通常は閉じられており、特定の文化行事に合わせた特別公開の際に、多くは事前申込で拝観できます。訪問前に寺や行事の告知を確認してください。
Q一八六八年当時のままの部屋ですか。
A慶喜の謹慎にゆかりのある書院として保存されていますが、建物は大正三年と平成二十五年に移築され、ひと回り小さく組み直されています。寸法まで当初のままというわけではありません。

Basic Information

名称寛永寺葵の間
所在地東京都台東区上野桜木一丁目
指定区分登録有形文化財(令和三年十月十四日登録/登録番号 13-0453)
年代江戸末期(一八三〇~一八六八年頃)、大正三年・平成二十五年移築
構造・員数一棟、木造平屋建・瓦葺、建築面積約七二平方メートル、書院造、主座敷十畳に次の間八畳
所有者寛永寺(天台宗)
公開状況通常非公開。特別公開の折にのみ拝観可(多くは事前申込制)

References

文化庁 国指定文化財等データベース/寛永寺葵の間
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/101/00013968
東叡山寛永寺 公式サイト
https://kaneiji.jp/
たいとう文化マルシェ/葵の間と徳川歴代将軍霊廟特別公開レポート
https://www.culture.city.taito.lg.jp/ja/reports/28277

最終更新日: 2026.07.18