五十キロを旅してきた本堂
寛永寺の中心と思われがちなこの建物は、もともとこの地に建てられたものではない。柱も梁も、十七世紀に上野から北西へおよそ五十キロ離れた川越の喜多院で組み上げられた。明治十二年(一八七九)、その堂宇がまるごと解体され、上野へ運ばれ、子院・大慈院の跡地で組み直された。それが現在の寛永寺根本中堂である。
移築の理由は、慶応四年(一八六八)の焼け跡にある。寛永寺は寛永二年(一六二五)、天海によって開かれた。江戸城の鬼門にあたる東北を護るため、上野の山が選ばれている。徳川家の庇護のもとで寺は国内有数の大伽藍へと成長した。元禄十一年(一六九八)、現在の上野公園大噴水のあたりに落慶した初代の根本中堂は、旧幕府軍と新政府軍が上野の山で最後の戦いを交えた上野戦争で焼失した。
天海はかつて喜多院の住職も務めていた。その古い縁があったからこそ、明治に入って十年余りののち、川越が自らの堂宇を譲り、寛永寺はふたたび本堂を得たのである。
登録の理由と、堂内に安置されるもの
令和三年(二〇二一)十月、この堂は登録有形文化財に登録された。桁行七間・梁間七間という大型仏堂で、京都・比叡山の総本堂にさかのぼる「根本中堂」の形式を本格的に受け継いでいる。屋根は入母屋造の本瓦葺。軒下では尾垂木付の二手先組物が、二軒に繁く並ぶ垂木を受け止め、力強く整然とした組み上がりを見せる。
堂内に入ると奥行きの深さがわかる。後方の三間が内陣にあたる。天井は格天井ではなく、一面をそのまま平らに張った鏡天井である。中央の宮殿の周囲は、古い仏堂の作法にならって、もとは土間であった。
本尊は薬師瑠璃光如来の坐像で、日本天台宗を開いた最澄の自刻と伝わる。厨子に納められた秘仏のため、参拝者は御前立の像に向かって手を合わせる。この秘仏の薬師如来そのものが、国の重要文化財に指定されている。
訪ねてみる
公園内の清水観音堂や五重塔のにぎわいに比べると、旧寺地のこの一角は静かなままだ。黒塗りの表門を入ると正面に本堂が建ち、傍らに鐘楼と、陶工・尾形乾山の碑をはじめとする石碑が点在する。
外陣は予約なしで入れることが多い。開山四百年にあたる令和七年(二〇二五)には、画家・手塚雄二による天井画「叡嶽双龍」が奉納され、これまで非公開だった内部が公開された。堂内をじっくり見られる、めったにない機会である。本尊の縁日は毎月十二日で、この日は寺に参る人の姿が増える。
東京国立博物館から少し歩いて訪れるなら、天海その人を祀る近くの開山堂とあわせて回りたい。寺の歩みが、境内を歩くうちに一続きの流れとして見えてくる。
Q&A
- これは江戸時代からの本来の本堂ですか。
- いいえ。初代の根本中堂は慶応四年(一八六八)の上野戦争で焼失しました。現在の堂は明治十二年に川越の喜多院から移築されたもので、建物自体は江戸時代のものですが、この場所に建つのは明治初期からです。
- 本尊の薬師如来は拝観できますか。
- 直接は拝めません。薬師如来は厨子に納められた秘仏で、参拝者は手前に安置された御前立の像に向かって参拝します。秘仏の本尊は国の重要文化財です。
- 堂はどこにありますか。
- 上野公園の北側、東京藝術大学音楽学部の裏手にあたる台東区上野桜木一丁目に建ちます。公園内の観光地とは離れた場所で、東京国立博物館から徒歩数分です。
- 「根本中堂」とは何を指す名前ですか。
- 比叡山延暦寺の総本堂にならった、天台宗の大寺院における中心の本堂を指します。寛永寺は東の比叡山として構想され、その意図は正式な山号「東叡山」にも表れています。
Basic Information
| 名称 | 寛永寺根本中堂 |
|---|---|
| 所在地 | 東京都台東区上野桜木一丁目 |
| 指定区分 | 登録有形文化財(令和三年十月十四日登録/登録番号 13-0452) |
| 年代 | 明治十二年(一八七九)建立、昭和六十年(一九八五)改修 |
| 構造・員数 | 一棟、木造平屋建・瓦葺、建築面積約三六八平方メートル、桁行七間・梁間七間、入母屋造 |
| 所有者 | 寛永寺(天台宗) |
| 公開状況 | 外陣は通常参拝可。内部および秘仏は公開時期が限られる |
References
- 文化庁 国指定文化財等データベース/寛永寺根本中堂
- https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/101/00013967
- 東叡山寛永寺 公式サイト
- https://kaneiji.jp/
- たいとう文化マルシェ/寛永寺根本中堂と徳川歴代将軍霊廟特別公開レポート
- https://www.culture.city.taito.lg.jp/ja/reports/28277
最終更新日: 2026.07.18