ドラクロワ《聖ステパノの遺骸を抱え起こす弟子たち》——埼玉で出会うフランス・ロマン主義の晩年の傑作

JR京浜東北線の北浦和駅から徒歩わずか3分、緑豊かな北浦和公園の一角に建つ埼玉県立近代美術館には、日本国内でもひときわ意外で貴重な美術品が静かに息づいています。それは、19世紀フランス・ロマン主義の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワ(1798〜1863)が晩年の1860年に描いた油彩画《聖ステパノの遺骸を抱え起こす弟子たち》。画家が世を去るわずか3年前の作品で、小品でありながらドラマと信仰、そして成熟した筆致が凝縮された、まさに晩年を象徴する逸品です。西洋絵画やキリスト教美術に関心のある方はもちろん、思いがけない場所で世界的な名作と対峙する静かな感動を求める旅人にとって、見逃すことのできない一枚といえるでしょう。

歴史的背景

聖ステパノ(ステファノ)は、キリスト教における最初の殉教者として世界中のキリスト教徒から敬愛されてきた人物です。新約聖書の『使徒行伝』によれば、ステパノは初代教会の助祭としてエルサレムで熱心に説教を行い、ユダヤ法院で信仰を弁明しましたが、それが反感を買い、紀元35年頃、石打ちの刑により命を落としました。その殉教はキリスト教の礎を築く出来事の一つとなり、千年以上にわたって西洋の画家たちが繰り返し主題として取り上げてきました。

本作で描かれているのは、石打ちの直後、地に倒れたステパノの遺骸を嘆き悲しむ弟子たちが抱え起こそうとする静かな場面です。ドラクロワは殉教の残虐な瞬間ではなく、その後の哀しみに満ちた一瞬を主題として選び取りました。劇的な事件を扱いながらも、画面には声を立てぬ哀悼の空気が満ちています。

ドラクロワは1860年の時点で、すでにフランス絵画界を代表する巨匠として確固たる地位を築いていました。20代で《ダンテの小舟》や《キオス島の虐殺》により名声を得、1830年には名作《民衆を導く自由の女神》を発表。色彩と感情を絵画の中心に据えた彼の様式は、フランス・ロマン主義そのものを形作りました。晩年に入るとドラクロワはいっそう宗教的・文学的な主題に傾き、技巧の粋と個人的な思索を、抑制の効いた小画面に注ぎ込むようになります。本作はそうした晩年の瞑想的な連作の一つであり、同主題を扱った大型の油彩画とも深く関連する、画家の内面を映す小宇宙のような作品です。

なぜ文化財に登録されたのか

本作は2000年(平成12年)12月7日付で、文化庁により「登録美術品」として登録されました。登録美術品制度は、個人や団体が所蔵する芸術性の高い作品について、公開を条件に国が登録し、広く一般の鑑賞に供することを目的とする制度です。

文化庁の評価によれば、本作が登録に値すると認められた理由は大きく二点です。第一に、主題と技術の両面においてドラクロワ晩年の特徴がよくあらわれた作品であり、小品ながら描写の密度が非常に高い傑作であること。第二に、悲劇的な宗教主題に対する画家自身の深い思い入れを強く感じさせる、完成度の高い芸術性を有していること。つまり、規模こそ小さいものの、その一点一点に込められた筆致と心情の重みが、広く人々に共有されるべき価値をもつと判断されたのです。

この評価の意義は、ドラクロワの作品がヨーロッパ圏外に渡ることが極めて稀であるという事実を踏まえると、より際立って見えてきます。署名入りの晩年作が日本の公立美術館で継続的に公開されているという状況そのものが、登録美術品制度の理念を体現する好例となっています。

作品の見どころ

本作は縦41.0×横33.2センチメートルのカルトン(厚紙)に油彩で描かれ、それが42.3×34.4センチメートルの板に貼り付けられるという特殊な支持体をもっています。この独特の下地はしっとりとした絵肌を生み、ドラクロワの自在な筆の運びをいきいきと今に伝えています。ぜひ近づいて、次のような細部に目を向けてみてください。

色彩と光の劇的な対比

ドラクロワは19世紀を代表する色彩の画家として知られ、この沈鬱な宗教画にあっても、その色彩感覚は豊かに息づいています。深い赤、大地の色調の褐色、影に沈む黄金色の中に、殉教者の身体だけが青白くほのかに光を放つように描かれ、見る者の視線を画面中央へと自然に導きます。バロックの巨匠ルーベンスから受け継いだ演劇的な光の演出が、厳かな静けさと見事に両立しています。

感情を運ぶ構図

画面を支配しているのは、ステパノの遺骸を抱え起こそうとする弟子たちの身体的・感情的な緊張感です。屈みこみ、踏ん張り、手を差し伸べる動作が、斜めに流れるリズムをつくり、鑑賞者の視線を画布の上で静かに旋回させます。ここには見世物のような群衆はなく、深い哀しみと信仰で結ばれた小さな集いだけが描かれています。

晩年の筆致

初期のドラクロワの磨き上げられた画面に慣れた目には、本作の筆致の自在さが際立って見えるはずです。形は輪郭で区切られるのではなく、筆触そのものによって示唆され、線描より雰囲気と感情が優先されています。まさにこの自由さが、後のセザンヌ、ルノワール、ファン・ゴッホらに決定的な影響を与えることになりました。

小さな画面に凝縮された力

本作の魅力は、小さな画面と壮大な主題の対比にもあります。ルーヴル宮殿やパリ市庁舎の壁画で知られる大画面とは対照的に、この小品は鑑賞者を画面のすぐ近くへと招き入れ、画家の筆の一つひとつが帯びる個人的な重みを体感させてくれます。

鑑賞のためのご案内

埼玉県立近代美術館(愛称「MOMAS」)は、さいたま市浦和区の北浦和公園内に位置し、東京都心からJRで約35分というアクセスの良さが魅力です。1982年に開館した美術館自体も見どころの一つで、建築家・黒川紀章が手がけた最初の美術館作品として、格子を基調とした端正なファサードは建築ファンの注目も集めてきました。

本作は1階のMOMASコレクション(常設展)エリアで公開されており、モネ、シャガール、ピカソといった巨匠たちの名品や、埼玉にゆかりの深い日本近代美術家の作品とともに鑑賞することができます。常設展の観覧料は手頃で、本物のドラクロワに日本国内で出会える場としては極めて良心的です。また、館内はデザイン椅子のコレクションでも知られ、名作椅子に実際に腰かけて時間を過ごせる珍しい美術館としても人気です。

作品の展示替えは随時行われるため、本作を主目的に訪れる場合は、事前に美術館の公式サイトで展示状況を確認することをおすすめします。

周辺のみどころ

美術館が位置する北浦和公園は、彫刻や噴水が点在する開放的な緑地で、鑑賞後の散策にぴったりの場所です。浦和の街は静かな住宅街と個性的な小さなお店が調和した地域で、昔から「浦和画家」と呼ばれる美術家たちを数多く輩出してきた歴史ある文化の土地でもあります。

少し足をのばせば、大宮方面には日本屈指の規模を誇る鉄道博物館(てっぱく)があり、鉄道ファンならずとも楽しめる人気施設として知られています。また、大宮氷川神社の長い参道は、四季折々の風情が楽しめる日本を代表する神社参詣のコースです。JR京浜東北線で東京駅まで約35分と都心への移動も便利ですので、一日のうちに都内観光と組み合わせて訪れることも十分可能です。

Q&A

Qこの作品は常に公開されていますか。
A本作は常設展示室のMOMASコレクションで公開されており、同コレクションは年間を通じて展示替えを行いながら所蔵品を紹介しています。館を代表する名品の一つであるため比較的公開されやすい作品ですが、鑑賞を目的にご来館の際は、事前に展示予定をご確認いただくことをおすすめします。
Q作品の写真撮影はできますか。
A撮影の可否は展示ごと・作品ごとに異なります。展示室入口に案内が掲示されていますので、その指示に従って鑑賞をお楽しみください。
Q美術館内に英語の解説はありますか。
A多くの作品に英語のキャプションが付されているほか、英語の案内パンフレットも用意されています。ドラクロワや聖ステパノの物語について事前に少し予習しておくと、鑑賞体験がいっそう深まります。
Qドラクロワは同じ主題を他にも描いていますか。
Aはい。ドラクロワは1850〜60年代にかけて聖ステパノの死を複数回主題に取り上げており、フランスにはより大型の油彩画も現存しています。本作はそれらの成果を凝縮するかたちで、晩年のドラクロワが小画面にまとめあげた親密な一作と位置づけられます。
Q「登録美術品」とはどのような制度ですか。
A個人や団体が所蔵する特に優れた美術品を、公開することを条件として文化庁が登録する制度です。広く一般の鑑賞に供されることを目的としており、所有者と美術館、そして鑑賞者をつなぐ仕組みとして機能しています。

基本情報

作品名 聖ステパノの遺骸を抱え起こす弟子たち
作者 ウジェーヌ・ドラクロワ(Eugène Delacroix、1798〜1863)
制作年 1860年
技法・材質 油彩、板にカルトン貼り付け
寸法 41.0×33.2cm(カルトン)、42.3×34.4cm(板)
区分 登録美術品(2000年12月7日登録)
所在地 埼玉県立近代美術館 〒330-0061 埼玉県さいたま市浦和区常盤9-30-1
アクセス JR京浜東北線「北浦和」駅西口より徒歩約3分(北浦和公園内)
開館時間 10:00〜17:30(展示室への入場は17:00まで)。月曜日(祝日・県民の日は開館)、年末年始、メンテナンス日は休館。
観覧料 入館は無料。MOMASコレクション(常設展)は一般200円、大高生100円。中学生以下および障害者手帳をお持ちの方(付き添い1名を含む)は無料。

参考文献

聖ステパノの遺骸を抱え起こす弟子たち — 文化遺産オンライン
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/222489
国指定文化財等データベース — 文化庁
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/202/00000010
ウジェーヌ・ドラクロワ《聖ステパノの遺骸を抱え起こす弟子たち》 — 丸沼芸術の森
https://www.marunuma-artpark.co.jp/collection-category/0805/
埼玉県立近代美術館 公式サイト
https://pref.spec.ed.jp/momas/
埼玉県立近代美術館 — Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/埼玉県立近代美術館
ステファノ — Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/ステファノ

最終更新日: 2026.04.23