稿本北山抄〈巻第十〉

一巻の巻子を広げると、表と裏でまったく性格の異なる二つの文字に出会う。表は、十一世紀のはじめ、宮廷の儀式や政務の手引きとして手早く書きつけられた草稿である。紙をめくった裏には、書き手が後世の目を意識していなかったであろう文書が二十五通も再利用されている。そのなかの二通は、仮名で記された私信であり、現存する仮名書状のうちでも最も古い部類に属する。

この巻子は、平安中期の公卿であり、歌人・学者として高い評価を得た藤原公任(966〜1041)が撰した儀式書『北山抄』の巻第十にあたる。京都国立博物館が所蔵し、紙本墨書、縦三〇・三センチメートル、全長は一二メートルを超える。

本巻の核心は、それが清書ではなく草稿だという点にある。後世の書写者による写本ではなく、公任自身が筆をとった現存唯一の自筆草稿として伝わっている。

朝廷を運営するための参考書

『北山抄』は、宮中の年中行事、太政官の政務、地方に派遣される国司の職務などを記した、おおむね十巻からなる有職故実の書である。後世の公家は、儀式の先例を確かめ、政務上の典拠を求めるとき、この書を手がかりとした。引用される記録や典籍の幅は広く、なかには現在では失われた書物も含まれるため、当時の知の在りようを知る手がかりとしても価値が高い。

書名は、公任が晩年に都の北の山あいである北山に隠棲したことに由来する。

巻第十は「吏途指南」と題され、国司の諸務、すなわち地方官の職掌を扱う。草稿として残るのはこの一巻のみであり、公任の自筆と認められている。

国宝に指定された理由

本巻は、昭和二十七年(1952)三月二十九日に国宝へ指定された。その評価は、一つの作品に同居することの少ない二つの価値に支えられている。

第一に、表の草稿としての価値である。清書ではなく筆者自身の下書きであるため、文章がどのように練られ、どこに語が補われ、どこで言い回しが改められたかを追うことができる。完成した写本では見えない推敲の過程が、ここでは開かれている。あわせて公任の筆跡を直接うかがう資料ともなる。なお、撰述の過程には、公任の息女を通じて縁戚であった藤原道長、あるいはその子・教通の関与が指摘されることもあるが、その関与の度合いについては定かでない。

第二に、裏の紙背文書としての価値である。平安期の料紙は貴重であり、公任は他の用途を終えた紙の裏面に草稿を記した。本巻を構成する反故文書は二十五通を数え、その多くは公任が検非違使別当を務めた長徳から長保年間(995〜1004)のものである。なかの二通は仮名書状で、長保三年(1001)以前のおよそ六年のあいだに記されたと推定される。十世紀末から十一世紀初頭にかけて、草仮名の連綿体が発達していた状況を示す資料であり、現存最古級の仮名消息として知られる。表が儀礼の歴史に重きをなすのと同じだけ、裏は文字の歴史にとって重い。

見どころ

まず心に留めたいのは、この巻子の二面性である。一方は参考書としての整った散文であり、他方は後世に残すつもりのなかった私信の、速く親しげな筆の運びである。同じ一枚の紙が、上級官人の職務上の覚書と、それ以前のだれかの私的な手紙という二つの役割を担っている。

草稿の側では、装飾的ではなく実用に徹した筆致に目を向けたい。自身の用に供するために書かれた、効率のよい手である。紙背の仮名書状では、文字が一字から次の一字へと連なり、筆が途切れずに流れていく様子が見てとれる。この連綿は、のちの和様の書において中心的な要素となっていく。

実際の鑑賞には一つ注意がある。本巻が公開される機会は多くない。京都国立博物館では、おおむね三年から五年に一度、多くは特別展や企画の一環として展示される。原品を目にしたい場合は、来館前に博物館の展示予定を確認するのがよい。

周辺の見どころとアクセス

京都国立博物館は、市の東側、寺院や古い町並みが連なる東山に位置する。通りを挟んだ向かいには、おびただしい数の金色の千手観音像で知られる蓮華王院本堂、いわゆる三十三間堂が建つ。両者を一日のうちに巡るのは無理がない。

博物館へは、京都駅から市バスでおよそ十分、三十三間堂の最寄り停留所で下車する。京阪本線の七条駅からも徒歩圏内である。当該の巻子が展示されていない時期でも、館の名品ギャラリーでは絵画・書跡・陶磁・彫刻など、収蔵品から選ばれた優品が入れ替わりで公開される。京都駅は南へわずかな距離にあり、各方面への乗り継ぎにも便がよい。

Q&A

Qいつでも展示で見ることができますか。
Aいいえ。保存上の理由と重要性から、展示はおおむね三年から五年に一度、多くは特別展の一環に限られます。来館前に京都国立博物館の展示予定をご確認ください。
Q藤原公任とはどのような人物ですか。
A平安中期を代表する公卿で、歌人としても有職故実の学者としても高く評価されました。この巻子が属する儀式書『北山抄』を撰した人物です。
Qなぜ裏面がそれほど重要なのですか。
A草稿は再利用された紙に書かれました。裏面の二十五通の反故文書のうち二通は仮名書状で、現存する仮名消息のなかでも最も古い部類に属し、草仮名の発達を知る資料として貴重です。
Q国宝に指定された『北山抄』は他にもありますか。
Aはい。この自筆草稿のほかに、鎌倉時代に書写され前田家に伝わった写本が、別に国宝へ指定されています。
Q巻第十は何を扱っていますか。
A「吏途指南」と呼ばれる部分で、中央朝廷のために地方を治めた国司の職務を、実務に即して記した内容です。

基本情報

名称稿本北山抄〈巻第十〉(紙背長徳長保年間文書)
指定国宝(昭和27年〔1952〕3月29日指定)
種別書跡・典籍
員数1巻
品質紙本墨書
寸法縦30.3cm、横(全長)約1279.4cm
時代平安時代・11世紀
筆者藤原公任(966〜1041)自筆草稿
所在地京都国立博物館(京都府京都市東山区茶屋町527)
所有者独立行政法人国立文化財機構
伝来三条家伝来
公開常時公開ではない。展示予定は博物館で要確認

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/612
e国宝(国立文化財機構)稿本北山抄巻第十
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=101053
文化遺産オンライン
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/126007
京都国立博物館 館蔵品データベース
https://knmdb.kyohaku.go.jp/3260.html
WANDER 国宝 稿本北山抄
https://wanderkokuho.com/201-00612/

最終更新日: 2026.06.12