並木ハウス:「マンガの神様」が暮らした昭和のアパート

東京都豊島区雑司が谷、鬼子母神堂へと続くケヤキ並木の参道から細い路地を15メートルほど入った先に、クリーム色の木造モルタル2階建ての建物が静かに佇んでいます。それが「並木ハウス」です。昭和28年(1953年)に建てられたこの質素なアパートは、「マンガの神様」と称される漫画家・手塚治虫が『鉄腕アトム』や『リボンの騎士』などの名作を生み出していた時期に暮らしていた場所として知られています。

平成30年(2018年)に国の登録有形文化財に登録された並木ハウスは、単なる建築遺産にとどまりません。全11室すべてが現在も入居者で埋まり、住居や創作活動の場として使われ続けている「生きた文化財」です。マンガの歴史、戦後建築、あるいは東京の知られざる一面に興味をお持ちの海外からのお客様にとって、並木ハウスとその周辺は、日本が世界に誇る文化の原点に触れることのできる貴重なスポットです。

並木ハウスの歴史

並木ハウスは、戦後の深刻な住宅不足の時代に建てられました。周辺の雑司が谷エリアは東京大空襲による被災を奇跡的に免れ、鬼子母神堂参道を中心とした歴史的な街並みが残されていました。建物が建つ敷地は、戦前に模型飛行機の製造販売を営んでいた砂金(いさご)家の所有で、戦後に工場を閉鎖し、昭和28年に賃貸アパートとして並木ハウスが建設されました。

並木ハウスは、戦後の住宅窮乏期にバラック住宅の次の世代として大量供給された「木賃アパート」と呼ばれる住居形式に分類されます。風呂なし・トイレ共同が一般的だった当時の木賃アパートの中にあって、並木ハウスはその仕様の高さにおいて際立つ存在でした。

昭和29年(1954年)、手塚治虫は椎名町(現・南長崎)にあった伝説的な「トキワ荘」から並木ハウスに移り住みました。手塚は2階の奥の部屋を借り、約3年間にわたってこの場所を創作の拠点としました。結婚を機に初台へ転居するまでの間、ここで『ジャングル大帝』『鉄腕アトム』『リボンの騎士』といった代表作の連載を続けていたのです。

並木ハウスのもう一人の著名な元住人が、世界的な建築写真家・二川幸夫(ふたがわ ゆきお)です。二川は早稲田大学在学中にこのアパートに住んでいました。のちに建築写真誌『GA(Global Architecture)』シリーズを創刊し、アメリカ建築家協会(AIA)賞や国際建築家連合(UIA)賞など数々の国際的な賞を受賞する、建築写真の世界的権威となりました。

文化財としての価値

並木ハウスは平成30年(2018年)5月10日付けで、国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。文化審議会の登録に際しての所見では、同時代の木賃アパートと一線を画す建築的特徴がいくつも挙げられています。

最も特徴的なのが幅広の中廊下です。当時の一般的な木賃アパートが半間幅の狭い廊下に画一的な部屋を並べるだけの構成であったのに対し、並木ハウスは1軒幅(約1.8メートル)の中廊下を設け、三方に大小の部屋を配する計画となっています。1階部分の廊下は土間コンクリート仕上げ、階段および2階廊下は人造石研ぎ出し仕上げという、木賃アパートとしては異例の上質な仕様です。

部屋は床の間付きの4.5畳、6畳、3畳+6畳と多様なタイプがあり、トイレ・洗濯室などの共用部にもゆとりを持たせた設計になっています。鉄製の手すりは「気品あるかたち」と評され、型ガラスの入った木製サッシュの窓とともに、建物全体に品格を与えています。

平成21年(2009年)には、建物の保全と機能の更新を両立させた修復工事が行われました。オリジナルのドアノブやレターボックス、採光のための室内窓などの金具類は当時の姿のまま保存され、共同洗濯室をシャワー室に変更するなどの最小限の機能更新にとどめる配慮がなされています。耐震補強は空室が出るたびに順次実施され、入居者の生活を守りながらの修復が実現されました。

見どころ・魅力

昭和の息遣いが残る建築

クリーム色のモルタル壁、T字型に架けられた切妻の瓦屋根、型ガラスの木製サッシュ窓、鉄製の手すり。並木ハウスの外観は、戦後の木造アパート建築の典型を示しながらも、細部に宿る品格が訪れる人の目を引きます。スタジオジブリの作品に描かれるようなノスタルジックな住宅風景を思い起こさせる佇まいは、手塚治虫の作品が日本のアニメーション文化の礎を築いたことを思えば、感慨深いものがあります。

手塚治虫の足跡を辿る唯一の場所

手塚治虫がトキワ荘の前に住んでいた四ッ谷の下宿はすでに現存せず、トキワ荘も1982年に取り壊されました(現在は「トキワ荘マンガミュージアム」として再建)。そのため、並木ハウスは手塚治虫が実際に暮らし、作品を描いた場所として現存する唯一の建物です。玄関に飾られた鉄腕アトムのポスターが、この建物の特別な歴史を静かに物語っています。

「生きた文化財」としての存在

多くの文化財が博物館や記念館として保存されるなか、並木ハウスは現在も賃貸アパートとして現役で使われ続けています。全11室がすべて入居中で、アーティストやデザイナーなどクリエイティブな職業の方々が暮らしているとのことです。人の息遣いが感じられる「生きた資料館」としての魅力は、静的な展示とは一線を画するものです。

周辺情報

並木ハウスが位置する雑司が谷は、東京で最も趣のある歴史的な街のひとつです。池袋駅から徒歩圏内にありながら、細い路地と低層の木造住宅が連なる昭和の風情が色濃く残り、都会の喧騒とは別世界のような静けさに包まれています。

並木ハウスのすぐそばには、鬼子母神堂へと続く参道のケヤキ並木が広がります。江戸時代から残る古木4本が東京都の天然記念物に指定されているほか、その他の木々も豊島区の保存樹木となっています。雑司ヶ谷鬼子母神堂は、寛文4年(1664年)建立の本殿と元禄13年(1700年)建立の拝殿からなる国の重要文化財で、安産・子育ての神様として江戸時代から庶民の信仰を集めてきました。境内には樹齢約700年の大イチョウや、1781年創業の日本最古級の駄菓子屋「上川口屋」があります。

鬼子母神参道沿いには、並木ハウスと同時に文化財登録された「並木ハウスアネックス」(昭和7年築の五軒長屋)があり、「雑司が谷案内処」や「キアズマ珈琲」が入居しています。キアズマ珈琲では、昭和の建物をリノベーションした落ち着いた空間で、ネルドリップのコーヒーを楽しむことができます。

そのほか、雑司ヶ谷霊園(夏目漱石やジョン万次郎らの墓所)、雑司が谷旧宣教師館、豊島区立トキワ荘マンガミュージアムなど、見どころが数多くあります。毎年10月16日から18日に行われる鬼子母神御会式大祭は、万灯練供養の行列が池袋駅前から境内まで練り歩く壮大な祭りで、豊島区の無形民俗文化財に指定されています。

見学にあたって

並木ハウスは現在も入居者が暮らす民間の賃貸住宅です。建物内部への立ち入りは原則として認められていませんので、入居者のプライバシーを尊重し、外観の見学にとどめてください。参道から分かれる路地から外観を眺めることができます。

より詳しい情報を知りたい方は、参道沿いの並木ハウスアネックス内にある「雑司が谷案内処」を訪れてみてください。地図やパンフレットが用意されているほか、2階ギャラリーには手塚治虫が並木ハウスを描いた俯瞰イラストなどのパネルが展示されています。

また、並木ハウスの公式ウェブサイトでは、建物内部をバーチャルに見学できるVRコンテンツが公開されており、廊下や階段、手塚が暮らした部屋の雰囲気を画面越しに体感することができます。

Q&A

Q並木ハウスの内部は見学できますか?
A並木ハウスは現在も入居者が暮らす民間の賃貸住宅のため、一般の方の内部見学は原則としてできません。外観は路地から自由にご覧いただけます。また、参道沿いの雑司が谷案内処2階ギャラリーで手塚治虫と並木ハウスに関するパネル展示を見ることができます。公式ウェブサイトではVRコンテンツも公開されています。
Q手塚治虫はどの部屋に住んでいたのですか?
A手塚治虫は昭和29年(1954年)から約3年間、2階の奥の部屋に住んでいました。この時期に『鉄腕アトム』や『リボンの騎士』などの連載を手がけていました。この部屋は現在もそのまま住居として使われています。
Q並木ハウスへのアクセス方法は?
A最寄り駅は東京メトロ副都心線「雑司が谷駅」(1番出口から徒歩約2分)です。都電荒川線「鬼子母神前駅」からも徒歩すぐ。JR池袋駅からは徒歩約15分です。鬼子母神堂のケヤキ並木の参道の中ほどから、路地を右に入った先にあります。
Q周辺を訪れるのにおすすめの時期は?
A一年を通じて楽しめますが、春は桜、秋はケヤキ並木の紅葉が美しい季節です。毎年10月16日〜18日の「鬼子母神御会式大祭」は、万灯の行列が練り歩く壮大なお祭りで、この地域の秋の風物詩です。毎月第3日曜日には鬼子母神堂境内で手創り市も開催されています。
Qトキワ荘マンガミュージアムと合わせて訪問できますか?
Aはい、同じ豊島区内にある「トキワ荘マンガミュージアム」(南長崎)と組み合わせた訪問がおすすめです。トキワ荘での共同生活から、並木ハウスでのより独立した創作活動へ — 手塚治虫の東京時代の足跡を辿る、マンガ文化のルーツを巡る旅を楽しむことができます。

基本情報

名称 並木ハウス
文化財指定 国登録有形文化財(建造物)、平成30年(2018年)5月10日登録
建築年 昭和28年(1953年)築、平成21年(2009年)改修
構造 木造モルタル造2階建、瓦葺、建築面積約106㎡
所在地 東京都豊島区雑司が谷三丁目32-1
アクセス 東京メトロ副都心線「雑司が谷駅」1番出口 徒歩約2分/都電荒川線「鬼子母神前駅」徒歩すぐ/JR「池袋駅」徒歩約15分
見学 外観のみ(民間賃貸住宅のため内部非公開)
公式サイト https://namikihouse.com/

参考文献

NAMIKI HOUSE 公式サイト
https://namikihouse.com/
並木ハウス|豊島区公式ホームページ
https://www.city.toshima.lg.jp/467/miryoku/shiru/bunka/namikihouse.html
並木ハウス|豊島区 区内のおもな文化財 建造物
https://www.city.toshima.lg.jp/349/bunka/bunka/bunkazai/building/2210261640.html
並木ハウス|文化遺産オンライン(文化庁)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/418622
雑司が谷の「砂金家長屋」と「並木ハウス」が国の有形文化財に|NPO いけぶくろねっと
https://w3.ikebukuro-net.jp/archives/info/bunnkazai201807
虫ん坊 2011年4月号 虫さんぽ 第15回:雑司が谷・並木ハウス周辺|TezukaOsamu.net
https://tezukaosamu.net/jp/mushi/201104/column.html
おすすめスポット|雑司が谷未来プロジェクト(日本女子大学)
https://zoushigaya-mirai.tokyo/spot/
雑司ヶ谷鬼子母神堂|豊島区公式ホームページ
https://www.city.toshima.lg.jp/ike-circle/tourism/spot/kishimojin.html

最終更新日: 2026.03.07