将軍吉宗の隠居祝いに贈られた古備前の太刀

延享2年(1745年)10月19日、8代将軍徳川吉宗は将軍職を退くにあたり、御三家筆頭の尾張徳川家へ一振の太刀を贈った。拝領したのは尾張8代宗勝の嫡子で、後に9代当主となる徳川宗睦である。このとき贈られた刀こそ、平安時代の備前で鍛えられた「太刀 銘正恒(たち めいまさつね)」、現在は国宝に指定され、名古屋の徳川美術館に収められている名刀である。

正恒は、備前国(現在の岡山県南東部)で最初期に活動した刀工集団「古備前派」の代表的名工で、一条天皇の御剣を打ったと伝わる友成と並び称される。活動期は平安時代後期とされるが、正恒銘の現存太刀には鎌倉時代初期とみられる作も含まれるため、今日では同名の刀工が複数代にわたって存在したと考えられている。親子相伝の名であったとする見方もある。

本作は身長71.8センチ、反り2.7センチ。腰元で深く反って切先へ向かうにつれて反りが浅くなる腰反りの姿に、元幅2.9センチから先幅1.7センチへと細く絞られる踏張りの強い造込みを備える。小鋒と相まって、平安期の太刀に特有の優美で引き締まった姿を今にとどめている。

茎は雉子股形をわずかに切り、目釘孔は三つ。その下中央に、太い鏨で「正恒」の二字銘が深々と刻まれている。

国宝指定の理由と価値

本太刀は昭和28年(1953年)11月14日に重要文化財に指定され、わずか4か月後の昭和29年(1954年)3月20日、国宝へ昇格した(指定番号00145)。

正恒銘の太刀で国宝の指定を受けたものは現在5口を数えるが、文化庁の指定解説は、そのなかでも本作の銘振りを「最も古雅」と評している。銘の書体や鏨の運びは刀工の個性と時代を映す重要な手がかりであり、太鏨による武骨で力強いこの二字銘は、古備前最初期の様式を示すものと位置づけられている。

地鉄と刃文の出来も指定理由の柱である。鍛えは板目肌がよく約み、地沸がつき、地斑を交えて乱映りが立つ。指定解説では、同じ古備前の友成と比較して鍛えがいっそう綺麗に約んでいると記される。刃文は焼幅の広い小乱に小丁子が交じり、足・葉が頻りに入り、金筋がかかる。総体に匂が深く小沸がよくつき、匂口の明るさが際立つ。やや技巧的とも評されるこの焼刃は、後の備前刀で開花する丁子乱の萌芽を感じさせる。

加えて、将軍家から御三家への贈答という由緒が文書で裏づけられ、以後280年近く尾張徳川家とその財団のもとを離れていないという伝来の確かさも、本作の価値を支えている。

鑑賞の見どころ

展示室でまず目を向けたいのは、姿の全体である。反りの中心が茎寄りに置かれた腰反りは、鎌倉中期以降の輪反りの太刀と並べると違いがよく分かる。腰で大きく反り、物打から切先にかけてはほとんど直刀のように伸びる。この緩急は、馬上での抜き打ちを想定した平安太刀の機能から生まれた造形である。

次に地鉄。照明の角度を選びながら刀身の表面を見ると、細かな板目の肌目に地沸が霜のように降り、刃文の上方に乱映りと呼ばれる白く淡い影が浮かぶ。映りは古備前から鎌倉期備前にかけての作の魅力として知られ、写真ではほとんど再現できない。実物の前でゆっくり角度を変えて探したい。

刃文は小乱を基調に小丁子が交じる。刃中に入る足や葉、きらりと光る金筋など、細部の働きは単眼鏡があるとよく見える。

なお、本太刀は常設での通年展示ではなく、名品コレクション展示室や刀剣をテーマとする企画展で随時公開される。展示の有無は徳川美術館の公式サイトで事前に確認してから訪れたい。

周辺情報

徳川美術館は名古屋市東区徳川町、尾張徳川家の大曽根屋敷跡に昭和10年(1935年)開館した。JR中央本線・地下鉄名城線・名鉄瀬戸線の大曽根駅から徒歩約10分。名古屋駅からは市バスで「徳川園新出来」下車徒歩約3分、観光ルートバス「メーグル」なら「徳川園・徳川美術館・蓬左文庫」下車すぐである。

隣接する徳川園は池泉回遊式の日本庭園で、春の牡丹と晩秋の紅葉が名高い。同じ敷地には尾張徳川家旧蔵の書物を収める名古屋市蓬左文庫があり、美術館と連携した展示も行われる。西へ歩けば、明治・大正期の邸宅が残る「文化のみち」が名古屋城方面へと続き、本丸御殿が復元された名古屋城まで足を延ばせば、尾張徳川家ゆかりの地を一日でたどることができる。

美術館の建物自体も登録有形文化財で、重厚な石張りの玄関ホールや、大名茶室・能舞台を再現した展示室など、収蔵品を大名道具本来の文脈で見せる構成が特色となっている。

Q&A

Q太刀 銘正恒はいつでも見られますか。
A通年展示ではありません。作品保護のため展示替えが行われており、名品コレクション展示や刀剣関連の企画展で随時公開されます。公式サイトの展示情報で事前確認をおすすめします。
Q正恒とはどのような刀工ですか。
A平安時代後期、備前国で活動した古備前派の名工で、友成と並ぶ草創期の代表格です。正恒銘の現存作には時代差があるため、複数代の刀工が同名を継いだと考えられています。
Qこの太刀はなぜ徳川美術館にあるのですか。
A延享2年(1745年)、8代将軍吉宗の隠居に際して尾張徳川家へ贈られ、後の9代当主宗睦が拝領しました。以来尾張家に伝来し、現在は同家の宝物を継承する公益財団法人徳川黎明会が所有しています。
Q正恒銘の国宝太刀は他にもありますか。
Aあります。正恒銘の太刀で国宝指定を受けたものは5口あり、東京国立博物館所蔵の一振などが知られます。本作は銘振りが最も古雅と評価されている点に特色があります。
Q徳川美術館へのアクセスを教えてください。
AJR中央本線・地下鉄名城線・名鉄瀬戸線「大曽根駅」から徒歩約10分です。名古屋駅からは市バスまたは観光ルートバス「メーグル」で「徳川園新出来」下車すぐです。

基本データ

名称太刀〈銘正恒〉(たち めいまさつね)
指定区分国宝(工芸品) 昭和29年(1954年)3月20日指定/重要文化財指定は昭和28年(1953年)11月14日
指定番号00145
作者正恒(古備前派)
時代平安時代(12世紀頃)
員数1口
寸法身長71.8cm 反り2.7cm 元幅2.9cm 先幅1.7cm 鋒長2.6cm 茎長14.5cm(国指定文化財等データベースによる。徳川美術館は身長72.0cmとする)
所有者公益財団法人徳川黎明会
保管施設徳川美術館(愛知県名古屋市東区徳川町1017)
公開状況展示替えにより随時公開。公式サイトの展示情報を要確認

参考文献

国指定文化財等データベース「太刀〈銘正恒/〉」
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/439
文化遺産オンライン「太刀 銘 正恒」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/71142
徳川美術館「太刀 銘 正恒」(コレクション詳細)
https://www.tokugawa-art-museum.jp/collections/太刀 銘-正恒/
徳川美術館「来館のご案内」
https://www.tokugawa-art-museum.jp/visitor-information
WANDER国宝「太刀 銘 正恒[徳川美術館/愛知]」
https://wanderkokuho.com/201-00439/

最終更新日: 2026.06.11