絹に描かれた千手観音、平安仏画の精華
縦138.0センチ、横69.4センチの一幅の絹に、四十二本の腕を広げた千手観音が描かれている。平安時代、12世紀の作で、現在は東京国立博物館が所蔵する。昭和30年(1955年)2月2日、国宝に指定された。
千手観音は、千の手と千の眼であらゆる人を救うとされる観音菩薩である。奈良時代から篤い信仰を集めてきた。手で一人ひとりを掬い上げ、眼で一人ひとりの苦しみを見るという発想が、その姿に込められている。平安期の作例は数少なく、本図はそのなかでも屈指の出来栄えに数えられる。
四十二臂と、円を描く小さな手
千の手をそのまま描く作例は少ない。主たる四十二臂を表し、残りは多数の小さな手で示すのが通例である。この四十二という数には理由がある。胸前で合掌する二手を除いた四十手が、それぞれ二十五の世界に働きかけるとされ、四十に二十五を掛けて千手となる。
本図でも、腕と腕の間や背後に小さな手が円を描くように並び、像の輪郭を第二の光背のようにやわらかく縁取っている。画面の右下には老相の婆藪仙、左下には功徳天が控える。中尊を囲むこの配置は、胎蔵界曼荼羅の虚空蔵院に見られる尊像構成に通じる。曼荼羅では坐す姿で表されるが、本図の観音は蓮華座の上に立つ。曼荼羅を踏まえつつ、そこからわずかにずらした選択である。
截金の華やぎと、二つの時代の出会い
見どころは、その表面の仕上げにある。衣・光背・台座のいたるところに截金が施され、髪のように細く切った金箔を一片ずつ置いて文様を編んでいく。色調はおさえられ、華やかさのなかに品がある。金は派手にきらめくのではなく、静かな豊かさとして目に映る。
研究者はこの一幅を12世紀後半の作とみる。理由はその様式にある。しなやかな線と文様への嗜好にあらわれた優美で装飾的な平安後期仏画の趣と、骨太で動きのある鎌倉風の表現とが、一つの画面に同居している。二つの感覚が一図に出会う点は珍しく、千手観音画像の代表作とされる大きな理由になっている。
川崎正蔵旧蔵、コレクションを代表した一幅
本図は博物館に入る前、近代日本有数の個人コレクションを経てきた。川崎造船所(現・川崎重工業)を創立した神戸の実業家・川崎正蔵(1837-1912)の旧蔵品である。川崎は日本最初の私立美術館を築いた人物としても知られる。
没後の大正3年(1914年)に刊行された蔵品目録『長春閣鑑賞』では、第一集の巻頭、第一番に据えられている。目録を編んだ者たちがこの一幅をどう位置づけていたかが、その配置からうかがえる。昭和2年(1927年)の金融恐慌で蔵品の多くは散逸し、本図は国立博物館の発足後まもない昭和23年(1948年)に当館へ収められた。
鑑賞のポイントと上野の楽しみ
絹と絵具は光に弱く、常設展示はされない。本館の国宝室で、数年に一度、期間を限って公開される。訪れる前に最新の展示予定を確かめておきたい。公開時には、二つの距離で味わうとよい。近づけば截金の金線が一本ずつ見分けられ、離れれば小さな手が描く円環が一つの光の輪として目に入る。
東京国立博物館は上野公園の北端に位置し、JR上野駅公園口から歩いてすぐである。日本最古・最大の博物館で、複数の建物を一枚の入館券でめぐることができる。周囲には国立科学博物館、国立西洋美術館、東京都美術館などが集まり、上野動物園や不忍池、春の桜並木も近い。一日では巡りきれないほどの見どころが、徒歩圏に揃っている。
Q&A
- 千手観音とはどのような仏ですか。
- 千の手と千の眼であらゆる人を救うとされる観音菩薩です。絵画や彫刻では四十二臂で表し、残りの手は小さな手で示して千手とするのが通例です。
- なぜ手が四十二本なのですか。
- 胸前で合掌する二手を除いた四十手が、それぞれ二十五の世界に働きかけるとされ、四十に二十五を掛けて千手を表します。四十二臂で千の手を象徴しているのです。
- いつでも見られますか。
- いいえ。絹が光に弱いため常設ではなく、東京国立博物館本館の国宝室で数年に一度、期間を限って公開されます。訪問前に博物館の公式サイトで展示予定をご確認ください。
- 截金とは何ですか。
- 金箔を細く切り、一片ずつ貼り付けて文様を表す装飾技法です。衣や光背などに用いられ、平安期の仏画を特徴づける繊細な技です。
- どのように博物館へ伝わったのですか。
- 実業家・川崎正蔵の旧蔵品で、大正3年(1914年)刊の蔵品目録の巻頭を飾った名品です。昭和2年(1927年)の金融恐慌でコレクションが散逸した後、昭和23年(1948年)に東京国立博物館へ収蔵されました。
基本情報
| 名称 | 絹本著色千手観音像(けんぽんちゃくしょくせんじゅかんのんぞう) |
|---|---|
| 指定区分 | 国宝(絵画) |
| 指定年月日 | 昭和30年(1955年)2月2日 |
| 時代 | 平安時代・12世紀(後半) |
| 品質・形状 | 絹本着色、掛幅。衣・光背・台座に截金 |
| 寸法 | 縦138.0cm×横69.4cm |
| 員数 | 1幅 |
| 所有者 | 独立行政法人国立文化財機構 |
| 所在地 | 東京国立博物館(東京都台東区上野公園13-9) |
| 列品番号 | A-10506 |
| 公開 | 本館・国宝室で随時公開(数年に一度程度。常設ではない) |
参考文献
- 文化遺産オンライン(国立文化財機構)
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/148198
- 国指定文化財等データベース(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/110
- e国宝 千手観音像(国立文化財機構)
- https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100154&content_pict_id=0
- 東京国立博物館
- https://www.tnm.jp/
最終更新日: 2026.06.12