弥生二丁目遺跡──一つの壺から「弥生時代」の名が生まれた地

「弥生時代」という言葉を、日本史の授業で習わなかった人はまずいない。稲作が広がり、青銅器や鉄器が用いられた、縄文に続くあの時代である。ところがその「弥生」が、もとは東京の町名だったことは、案外知られていない。明治17年(1884年)3月、本郷台地の東縁にあった貝塚から、一人の学生が赤みを帯びた薄手の壺形土器を掘り当てた。当時この一帯は本郷区向ヶ岡弥生町と呼ばれていた。

その土器は、それまで知られていた縄文土器とは器形も文様も明らかに異なっていた。やがて発見地の地名をとって「弥生式土器」と名づけられ、さらにその土器が代表する時代が「弥生時代」と呼ばれるようになる。東京大学の構内にある国指定史跡・弥生二丁目遺跡は、その出発点となった土地である。都心部では数少ない、貝塚を伴う弥生時代の遺跡でもある。

地名はさらに古い碑から来ている

名づけの連鎖は、土器よりもさらにさかのぼる。江戸時代、この地には水戸徳川家の中屋敷が置かれ、庭園の景観をたたえる「向岡記」碑が建てられた。碑文には旧暦三月を指す古語「夜余秘(やよひ)」の文字があり、明治5年(1872年)の町名整理の際、この語が新しい地名「向ヶ岡弥生町」に採られた。

つまり弥生時代の名は、ある大名庭園の春をうたった一行に、いくつもの段階を経てつながっている。「向岡記」碑は今も大学構内に残り、かつてこの地に水戸藩邸があったことを示す数少ない手がかりとなっている。

土器が登場するのは明治17年(1884年)である。東京大学の学生だった有坂鉊蔵が、後に日本考古学を支える坪井正五郎・白井光太郎とともに付近の貝塚を歩いていて、例の壺形土器を見つけた。十数年のうちに、この種の土器が縄文にも後世にも属さないことが学界で認められ、明治29年(1896年)ごろには地名をとった「弥生式土器」の名称が用いられるようになった。

発掘で姿を現したもの

有坂が掘り当てた壺の正確な出土地点は、長く分からないままだった。都市化が進むなかで貝塚そのものの位置も失われ、推定地として三か所が挙げられていた。決め手となったのは昭和49年(1974年)、校舎の増築に先立って東京大学考古学研究室が旧浅野地区を発掘した調査である。

調査では、台地の縁に沿って幅およそ2メートルの溝が二条、交差して見つかった。古いほうの溝には貝層が堆積し、そのかたわらから壺形2点・甕形3点、あわせて5個体の弥生土器が出土した。溝・貝層・土器の三者はいずれも弥生時代後期に属するものだった。研究者の注目を集めたのは貝の種類で、鹹水産、すなわち海水にすむ貝からなっていた。内陸めいたこの坂に、かつて海が近くまで入り込んでいたことをうかがわせる。

交差する溝は、集落を囲む環濠の一部か、それに関連する溝とみられている。関東地方でも近年こうした例の確認が増えている。住居そのものは西側の台地上にあったと推測され、貝層の堆積はその暮らしの周辺を指し示している。

なぜ守られているのか

この地は昭和51年(1976年)6月7日、貝塚・集落跡・古墳などを対象とする基準により、国の史跡に指定された。理由は華やかなものではなく、きわめて実際的である。貝塚を伴う弥生時代の遺跡は東京の都心部にはほとんど残っておらず、発掘されたこの一画が、地域のかつての姿をしのばせる唯一の地点だからである。

最初の壺は、その前年に独自の保護を受けている。昭和50年(1975年)6月、「本郷弥生町出土壺形土器」として重要文化財に指定された。評価されたのは造形の美しさよりも、それが切りひらいたものである。割れた一個の素朴な壺が、一つの文化の研究の出発点となった。その学史的な重みゆえに、収蔵庫ではなく展示ケースに置かれる土器となった。

訪れる際に一点、心にとめておきたい区別がある。研究者の間では、縄文時代の貝塚(旧来の向ヶ岡貝塚)と、昭和49年に発掘された弥生時代の環濠集落とを分けてとらえる見方が一般的である。指定名称の「弥生二丁目遺跡」が指すのは後者だが、人々の記憶のなかでは両者がしばしば重なっている。

現地で見られるもの、壺の在りか

あらかじめ知っておきたいことがある。歩いてまわれる発掘溝もなければ、のぞき込める発掘現場もない。大学の農学部と工学部の境、言問通りに面して、「弥生式土器発掘ゆかりの地」と刻まれた背の高い石碑が立っている。昭和62年(1987年)の建立で、発見地点を示すものではないことが、あえて断られている。出土地点が今も不明だからである。かたわらの説明板が経緯を補ってくれる。ここでの楽しみは静かなものだ。日本史の一章がその名を得た、その坂の上に立つという体験である。

肝心の壺、すなわち「本郷弥生町出土壺形土器」は、東京大学総合研究博物館が所蔵している。赤褐色で薄手の、ささやかな器である。現存高は約22センチ、胴の最大径は約22.7センチ。頸から上の口縁部は欠けている。羽状の縄文と、小さなボタン状の貼付文が施され、その特徴は南関東の土器よりも、南西の東海地方の土器に近いとされる。原品は常設展示ではないため、実物を見たい場合は事前に博物館の展示内容を確認しておきたい。

弥生・根津のまわりを歩く

遺跡は、半日の散策にうってつけの一角にある。坂を上れば東京大学本郷キャンパスがあり、文政10年(1827年)に大名家の婚礼にあわせて建てられた朱塗りの赤門や、夏目漱石の小説で知られる三四郎池を一般に見学できる。同じ構内の総合研究博物館も、入れ替わる展示が見ごたえのある場所だ。

根津側へ坂を下れば根津神社がある。斜面を埋めるツツジは春に多くの人を集め、朱塗りの鳥居が連なる道は、各地の有名な参道よりも静かである。反対方向へ数分歩くと、弥生美術館と隣接する竹久夢二美術館が、二十世紀初頭の挿絵と落ち着いたカフェを合わせて見せてくれる。さらにその先には、寺と古い商店と細い路地が二十世紀をほぼそのまま生きのびた谷中・根津のまちが広がっている。

行き方は分かりやすい。東京メトロ千代田線の根津駅で1番出口を出て、弥生坂と呼ばれる坂を5分ほど上る。南北線の東大前駅からも、反対側から同じくらいの距離である。

Q&A

Qなぜ東京の地名が、一つの時代の名前になっているのですか。
A順番は地名が先です。明治5年(1872年)に古い庭園の碑文から「弥生町」という町名が付けられ、明治17年にこの地で新しい様式の土器が見つかったため、地名をとって「弥生式土器」と名づけられました。その土器が代表する時代が、のちに同じ名で呼ばれるようになったのです。
Q実際に見学できる遺跡はありますか。
A発掘現場が公開されているわけではありません。見られるのは、東京大学構内の縁、言問通りに面した石碑と説明板です。発掘された遺構は露出していないため、遺物を見るというより、歴史的に重要な土地に立つことを味わう場所だとお考えください。
Q有名な最初の壺はどこで見られますか。
A本郷キャンパスの東京大学総合研究博物館が所蔵し、重要文化財に指定されています。原品は常時公開されているわけではないので、実物を目当てに行く場合は、事前に展示内容を確認することをおすすめします。
Q石碑は発見地点そのものに立っているのですか。
Aいいえ。石碑自体もそうは主張していません。明治17年に壺が見つかった正確な地点は都市化のなかで失われ、これまでに三か所の推定地が挙げられてきました。昭和49年(1974年)の発掘地が最も有力ですが、特定にはいたっていません。
Qどのくらい時間をみておけばよいですか。周辺に何がありますか。
A石碑だけなら数分ですが、周辺は半日歩いても飽きません。根津神社、赤門や三四郎池のある東京大学、弥生美術館、そして谷中・根津の古い町並みが、いずれも徒歩圏内にあります。

基本情報

名称弥生二丁目遺跡(やよいにちょうめいせき)
所在地東京都文京区弥生二丁目
指定区分国指定史跡(昭和51年〔1976年〕6月7日指定)
指定基準貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡
時代弥生時代後期
発掘調査昭和49年(1974年)、東京大学による
関連文化財本郷弥生町出土壺形土器(重要文化財、昭和50年〔1975年〕6月12日指定)。東京大学総合研究博物館所蔵。現存高約22.0センチ、胴部最大径約22.7センチ
現地の表示「弥生式土器発掘ゆかりの地」碑(昭和62年〔1987年〕建立)
アクセス東京メトロ千代田線・根津駅(1番出口)または南北線・東大前駅から徒歩約5分

参考文献

文化遺産オンライン(文化庁)─ 弥生二丁目遺跡
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/160938
国指定文化財等データベース(文化庁)─ 弥生二丁目遺跡
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/728
文化遺産オンライン ─ 本郷弥生町出土壺形土器
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/206860
文京区 ─ 「弥生式土器ゆかりの地」碑
https://www.city.bunkyo.lg.jp/b014/p003754.html

最終更新日: 2026.05.28