白山城跡 — 釜無川を見おろす武田の戦国山城

白山城跡は、甲府盆地の北部、釜無川西岸に立つ標高約560メートルの独立丘の上にある。平成13年(2001年)1月29日に国の史跡に指定された。天守も石垣もない。残るのは地面そのもので、尾根に沿って削り出された平場と、斜面を切り取った堀の連なりがその城の姿である。

主郭に立って、ほぼ真北を見る。約3.5キロメートル先に、武田勝頼が最後の本拠とした新府城跡が横たわっている。この見通しの線が、白山城を理解する手がかりになる。ここは居館でも見せる城でもなく、北の国境を見張り、合図を送り、その一帯を押さえるための実用の拠点だった。

城そのものは小ぶりで、郭の範囲は東西約150メートル、南北約180メートルにおさまる。ただし南北に置かれた二つの烽火台が城の役割を丘の外へと大きく広げており、この三か所がひとつの史跡として指定されている。

武田氏と、守るべき辺境

この丘には武田の名が長く結びついてきた。近世の地誌『甲斐国志』によれば、白山城は甲斐源氏の祖、武田信義(1128〜1186)の要害として築かれたと伝わる。信義は甲斐源氏の流れをくみ、武田の名字を名のった人物である。丘の北麓には武田氏の氏神、武田八幡神社が鎮座し、保延6年(1140年)に信義がこの神前で元服し武田を名のったと伝わる。今に見える土の遺構のどこまでが信義の時代にさかのぼるかは定かではない。残された防御施設の大半は、それより四百年ほど後の戦国時代のものである。

その戦国期、白山城を武田氏のために守ったのが武川衆だった。武川衆は武田一族の支族から出た家臣の集まりで、城の守備を担ったのは青木氏と山寺氏である。白山城は鎖の一環でもあった。信濃国の諏訪・佐久方面と甲府の武田館とを結ぶ烽火台の連絡網のなかで、甲府盆地の北の縁に位置するこの城は、その枢要を占めていた。

天正9年(1581年)、勝頼は釜無川対岸の台地に新府城の築城を始める。北へ大きく開けた白山城は、新しい城の防衛線の一部に組み込まれた。その体制は長くは続かない。天正10年(1582年)に武田氏は滅び、武川衆はのちに徳川家臣団へ組み入れられ、白山城も天正末頃には城郭としての機能を失ったとみられる。正確な廃城の年は記録に残っていない。

なぜ史跡に指定されたのか

白山城が史跡となったのは、その土の遺構が武田の築城技術を明瞭に示すからである。武田氏は攻撃的で技術的にも洗練された城づくりで知られたが、この丘はその一例をよく保っている。郭の配置はまとまりがよく、防御の線も後世の改変に埋もれることなく今に伝わっている。

とりわけ注目されるのが、斜面をめぐる横堀に、放射状の竪堀を接続させた組み合わせである。車輪の輻のように竪堀が枝分かれするこの構えは、斜面を登る寄せ手を、上から狙える狭く危うい通路へと追い込んだ。武田流の城づくりの特徴であり、白山城はそれをはっきりと見せてくれる。

遺跡の意義は、その役割の上にも立っている。盆地北部における武田氏烽火台群の中枢として、また後には新府城防衛の中核として、白山城は通信と辺境統制の結節点に立っていた。指定は本城と二つの烽火台をあわせて対象とし、保護される範囲はその広い機能を反映している。

遺構を歩く

この城は地面から読み解く城である。可能なら縄張図を持っていきたい。森の地面に走るくぼみや土の高まりが、かつて何のためにあったのかを見分けるところに、この城の面白さがある。

南北にのびる尾根の上に、郭は意図された順序で並ぶ。主郭は一辺25メートル前後のほぼ方形で、土塁がめぐる。虎口は南東隅と北西隅の二か所に開き、南東隅のものは掘り込み式の枡形虎口で、入る者を見張り、足止めできる狭い折れ曲がりに導いた。主郭の南には二の郭があり、その西側には幅約10メートルの空堀が走る。

南東隅の虎口からは帯郭が北へのび、土橋によって北端の台形の馬出郭へとつながる。馬出郭の枡形虎口から麓の鍋山集落へ下る道が、明治23年の地籍図に記されている。東側の斜面には帯郭があり、それを起点として竪堀が等間隔に斜面を下っていく。

城の仕組みを完成させるのが二つの烽火台である。北烽火台は城の北方約600メートル、標高およそ601メートルの尾根上に位置する。主郭は三段に造成された約10メートル×50メートルの平坦地で、中央付近には小さな円形のくぼみがある。ムク台は南方約900メートル、標高およそ692メートルにあり、東西30メートル・南北35メートルほどの三角形の山頂をなす。南側には高さ約1メートルの低い土塁がめぐり、周囲の尾根は堀切で厳重に断ち切られている。両台はそれぞれ城への接近路を守り、いずれも城を経由して合図を中継できた。

あわせて訪ねたい

麓の武田八幡神社は、城を訪ねる際の自然な起点であり、それ自体が訪ねる価値のある場所でもある。檜皮葺の三間社の本殿は、天文10年(1541年)に武田信玄が再建したもので、室町時代らしい品のある意匠が評価され、国の重要文化財に指定されている。石段と古い門が、登りを始める前に場の雰囲気を整えてくれる。

近くには平安末期の名うての弓の使い手、源為朝をまつる小さな社があり、この丘にもう一つの伝説の層を添えている。釜無川を渡った先の新府城跡は、白山城とあわせて訪ねるとよい。二つの城を続けて見ることで、烽火の連絡網と防衛線の論理が、ひとつの城だけでは得られない実感をともなって立ち上がってくる。

韮崎の市街はJR中央本線沿いにあり、甲府方面から訪れやすく、東京方面からはやや長い乗車で到達できる。城の丘は整備された公園ではなく樹林におおわれた山で、足元は不安定、登路は不明瞭になる箇所もある。地元には熊への注意を促す掲示があり、登路の獣除けのゲートは開けたら閉めて進む。しっかりした靴、明るい時間帯、そして土地を読もうとする心構えが、現実的な必要条件になる。

Q&A

Q城の建物は見られますか。
Aいいえ。白山城は文字どおりの城跡です。天守も復元された建物もなく、石垣もありません。見どころは残された土の遺構で、削り出された郭、堀、虎口、そして二つの烽火台です。地形を読むことを楽しめる方には見ごたえがありますが、建つ城を期待すると物足りないでしょう。
Q城跡へはどう行けばよいですか。
A多くの方は丘の北麓にある武田八幡神社から登り始めます。神社には駐車場があり、境内から郭へ向かう登路がのびています。最寄り駅はJR中央本線の韮崎駅で、神社方面へは路線バスやタクシーで向かえます。
Q見学にはどのくらい時間がかかりますか。
A本城は山頂に着いてから、堀や虎口をたどってだいたい1時間ほどで見て回れます。二つの烽火台までめぐる場合は、不安定な地面の尾根歩きが半日ほど加わるため、別の行程と考えるのがよいでしょう。
Q武田信義との関わりは。
A近世の地誌は、12世紀に武田の家を興した信義がこの丘に要害を築いたと記しています。この伝えは白山城を一族の起こりに結びつけますが、残る遺構の多くは戦国時代のもので、12世紀の築造とみなすことはできません。
Q登るのは大変ですか、危険はありますか。
A気軽な散策というより、ささやかな山歩きです。登路は未舗装で、所々わかりにくく、斜面は急で、熊への注意を促す掲示もあります。明るい時間帯に、しっかりした靴で歩き、獣除けゲートは閉めて進み、悪天候の日は避けてください。

基本情報

名称白山城跡(はくさんじょうあと)
所在地山梨県韮崎市神山町
指定区分国指定史跡
指定年月日平成13年(2001年)1月29日
指定基準二(都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡)
時代戦国時代(12世紀にさかのぼる伝承を伴う)
構成標高約560メートルの丘上の本城、北烽火台、ムク台烽火台
本城の規模東西約150メートル、南北約180メートルの範囲に郭を配置
アクセス武田八幡神社から徒歩で登る。最寄り駅はJR中央本線・韮崎駅
公開状況開放された山地。施設・入場料はなし。樹林に覆われ登路は不安定

参考文献

最終更新日: 2026.05.22