雑穀問屋が建てた働く倉庫
東京の東に隣接する千葉県習志野市、その津田沼の住宅地の一角に、瓦葺の屋根を載せた木造平屋の倉庫が建っている。棟には大きな鬼瓦が据えられ、建物全体は地面から少し高いコンクリートの土台の上に置かれている。これは、かつてこの地で米や麦などを扱った雑穀問屋・廣瀬家の倉庫である。建てられたのは明治四十二年(一九〇九年)。その後、昭和十年(一九三五年)ごろに現在地へ移され、改造を受けた。屋敷の多くが今日の姿に整えられたのもこの時期にあたる。
規模は桁行五間半、梁間三間、建築面積はおよそ七十三平方メートルにとどまる。来客に見せるための建物ではない。商品を湿気から守り、安全に保管することが役目であり、その実用一点の目的が、飾り気のない外観や緊密な仕口の隅々にまで読み取れる。
この倉庫は単独で残っているわけではない。平成十五年(二〇〇三年)、廣瀬家の四棟の建物、すなわち主屋・蔵・倉庫・井戸上屋が、まとめて国の登録有形文化財となった。四棟を一組として眺めると、江戸末期から明治にかけて、地方の富裕な商家がどのように暮らし、商いを営んだかが立体的に浮かび上がってくる。
「指定」ではなく「登録」という区分
日本の建造物保護にはいくつかの段階があり、その違いがこの倉庫を理解する鍵になる。多くの人になじみのある国宝や重要文化財は、国が正式に「指定」し、現状変更や修理に厳しい規制をかける制度のもとにある。廣瀬家倉庫が持つのは、これとは別の、より新しく、より緩やかな区分である。すなわち登録有形文化財であり、平成八年(一九九六年)に、明治以降の膨大な建物を保護するために設けられた制度に基づく。
登録の対象は原則として築五十年以上の建造物で、所有者に課す負担は指定よりはるかに軽い。家人はそのまま住み続け、用途に応じて手を加え、通常の修繕も自由に行える。届出が求められるのは大きな改変に限られる。狙いは幅広さにある。再開発に消えてしまう前に、町並みに厚みを与える倉庫・店舗・住宅といった日常の建築を、数多く救い上げることを目的としている。
倉庫が登録されたのは平成十五年七月一日、登録番号は十二の〇〇五三、登録基準は「造形の規範となっているもの」であった。習志野市にとって、この登録には地域的な意味があった。市内の登録としては三件目であり、住居としては初めての登録で、地域に点在する小規模な歴史的建物が、それ自体の価値で評価される道を開いた。
角寄蔵という構法
日本の商家の倉庫の多くは土蔵である。木の骨組みに土を厚く塗り重ね、表面を白く仕上げて防火性を高める。ところが廣瀬家倉庫は、これとは異なる原理で建てられている。地域に伝わる角寄蔵と呼ばれる構法である。重い土壁に頼るのではなく、柱を密に林立させ、その外側に板を張る。質量ではなく、骨組みの密度によって強さを生み出すやり方である。
内部を思い描くと、その理屈がよく分かる。主柱と主柱のあいだに、三本の間柱がおよそ九十センチメートル間隔、すなわち三尺ピッチで立つ。こうして垂直材が密に組まれた頑丈な構造体ができあがり、壁を支え、荷重を受ける。漆喰塗りの土蔵が備える防火性を手放す代わりに、より丈夫で、より経済的な骨格を得る。手頃な費用で確実な保管場所を必要とした、現実の商人らしい選択である。
細部にも見るべき点がある。約九十センチメートル高く立ち上がるコンクリートの土台は、昭和十年の移築に際してのもので、このとき建物全体は曳家の技法によって、解体されることなく丸ごと曳いて移された。棟には大きな鬼瓦が載り、西面には一間幅の下屋が差し掛けられて下部の壁を覆う。いずれも過剰な装飾ではない。すべての要素が必要に応えており、その点こそが、この倉庫に静かな風格を与えている。
建物を遺した一族
これらの建物が今日まで残ったのは、廣瀬秋之助の働きによるところが大きい。慶応元年(一八六五年)、近代の津田沼へと発展する久々田村に生まれた人物で、屋敷一帯を現在の姿に整えた当主にあたる。雑穀問屋を営む前に、彼は二つの塾で学んでいる。一つは船橋に近い私塾で、日本独自の数学である和算を、意外なほど高度な内容まで教えていた。もう一つは東京・神田の漢学塾である。秋之助がそこで読んだ和本や漢籍は、今も廣瀬家に残されている。
秋之助はその後、津田沼町会議員、名誉助役、千葉郡会議員、そして地元の漁業組合長を歴任した。卸売業の経営に、忙しい公的生活を重ねた人であった。一族の歴史はさらに古くまで遡る。先祖の大工・廣瀬弥兵衛は、現在の市川市にある法華経寺の仁王門を手がけた名工として記憶されている。倉庫に隣り合う蔵を建てたのは、近隣の鷺沼の大工・邑山岩吉であった。つまりこの屋敷は、数代にわたる、名の知れた地元の職人たちの手による仕事の集積なのである。
津田沼を歩く
まず実務的な点を一つ。倉庫は今も廣瀬家の私邸であり、一般には公開されていない。見学ツアーも公開時間も設けられておらず、人が暮らす建物であることへの配慮が求められる。この倉庫は門前を訪ねるよりも、何であるかを知ることで味わいが深まる建物である。そして津田沼には、訪問者を受け入れてくれる場所が周囲に数多くある。
歩いてすぐの場所に菊田神社がある。旧久々田村の鎮守であり、廣瀬家にとっては産土の社にあたる。社伝では九世紀初めの創建と伝わり、片足を上げて挨拶するかのような愛嬌のある狛犬や、安産・縁結び、そして商家の町にふさわしい商売繁昌の神として、今も多くの参拝者を集めている。隣には小さな水鳥公園があり、一時間ほどの散策にちょうどよい組み合わせとなる。
古い建築をさらに見たいなら、旧大沢家住宅が寛文四年(一六六四年)建築の農家を伝えている。東日本に現存する民家のなかでも最古級に数えられる建物である。自然を求める人には谷津干潟がある。渡り鳥にとって国際的に重要な湿地として保護され、遊歩道と観察センターが整う。この地域はまた、第一次世界大戦の際にドイツ兵捕虜を収容した俘虜収容所の跡地という、思いがけない歴史の層も抱えており、彼らが収容中に奏でた音楽は記念碑を通じて地元に記憶されている。
Q&A
- 廣瀬家倉庫の内部を見学できますか。
- できません。登録有形文化財であると同時に私邸であり、一般公開・見学ツアー・公開時間のいずれもありません。ここでの楽しみは建物の歴史と構造を理解することにあります。実際に内部へ入れる古民家としては、近くの旧大沢家住宅(寛文四年建築)が公開されています。
- 「登録」と「指定」の文化財はどう違うのですか。
- 指定は国宝や重要文化財の区分で、現状変更に国が厳しく関与する強い制度です。登録は平成八年に築五十年以上の建物を対象に始まった緩やかな制度で、所有者は使い続け、手を加えることができ、届出が要るのは大きな改変に限られます。多くの近代建築を速やかに救うために設けられました。
- 角寄蔵は普通の蔵と何が違うのですか。
- 一般的な蔵は厚い漆喰の土壁で強度と防火性を得ます。角寄蔵には土壁がありません。柱を密に立て、外側に板を張り、主柱のあいだに間柱を加えます。廣瀬家倉庫では一間に三本の間柱を約九十センチメートル間隔で立てており、これが最大の特徴です。
- 津田沼へはどう行けばよいですか。
- 津田沼は都心からのアクセスが良好です。JR総武線の津田沼駅と京成津田沼駅の二つが地区を結び、いずれも都心からおよそ三十分から四十分です。菊田神社をはじめ周辺の見どころは、駅から徒歩圏内にあります。
基本情報
| 名称 | 廣瀬家住宅倉庫(ひろせけじゅうたくそうこ) |
|---|---|
| 所在地 | 千葉県習志野市津田沼6-5-11 |
| 区分 | 登録有形文化財(建造物)/登録番号 12-0053 |
| 登録年月日 | 2003年(平成15年)7月1日(告示7月17日) |
| 建築年 | 1909年(明治42年)/1935年(昭和10年)頃 移築・改造 |
| 構造 | 木造平屋建、瓦葺、建築面積約73平方メートル/角寄蔵風の構法 |
| 所有者 | 廣瀬家(個人邸) |
| 公開状況 | 非公開 |
参考文献
- 文化庁 国指定文化財等データベース
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/101/00003391
- 習志野市「新ならしの散策 No.68 登録有形文化財 廣瀬家住宅」
- https://www.city.narashino.lg.jp/citysales/shizen/walk/sansaku/h16/sansaku068.html
- 文化遺産オンライン「廣瀬家住宅主屋」
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/194389
最終更新日: 2026.06.20