伊予国分寺塔跡 — 天平の七重塔を支えた花崗岩の礎石、千二百年の歳月
愛媛県今治市国分の住宅街の一角に、一辺一七・四メートルの方形基壇が残されている。その上に並ぶのは、十三個の花崗岩の礎石。最も大きなものは径七〇〜九〇センチ、高さは五四センチから一メートルほどあり、いずれも風雨にさらされた表面が往時の重量を感じさせる。これらは天平年間に建立された伊予国分僧寺の七重塔を支えていた礎石である。塔そのものは天慶二年(九三九)以降の度重なる兵火で失われたが、礎石は焼けず、倒れず、地中に押し下げられることもなく、その場に居続けた。
大正十年(一九二一)三月三日、史蹟名勝天然紀念物保存法(大正八年制定)に基づく国の史跡に指定された。同法による指定としては比較的早い時期にあたる。
聖武天皇の詔と伊予国分寺の創建
天平十三年(七四一)、聖武天皇は国分寺建立の詔を発した。各国に僧寺と尼寺を一寺ずつ置き、僧寺には金光明最勝王経を備え、七重塔を一基建てよ、という内容である。前年の藤原広嗣の乱、それに先立つ天平七年からの天然痘の大流行、相次ぐ飢饉――こうした国家的危機の連続を背景に、仏教の力で国家を護ろうとする発想が結実したものだった。
伊予国の国分寺は、今治平野の南東隅、唐子山と亀山に挟まれた小開析谷に建てられた。塔跡の北東一・八キロには伊予国府の有力比定地である今治市上徳、南二二〇メートルには南海道に比定される県道乃万桜井線が走る。古代伊予の政庁と幹線道路に近接した立地は、国分寺造営のための条件を満たす好地だったといえる。
『続日本紀』には、天平勝宝元年(七四九)に宇和郡人凡直鎌足らが国分寺の知識として物資を献じ仏像造立に協力したこと、天平神護二年(七六六)には伊予国大直足山らが私稲・鍬・墾田一〇町を献じたことが記されている。いずれも外従五位下に叙されており、地方豪族層が造営を支えた実態がうかがえる。出土瓦の編年と合わせると、本格的な造営は奈良時代中葉から後半にかけて進み、孝謙・称徳両天皇の治世下に伽藍が完成したものとみられる。
礎石が語る塔の構造
昭和四十三年(一九六八)の愛媛県教育委員会による発掘調査により、塔跡の規模と構造が明らかになった。一七・四メートル(五八尺)四方の正方形基壇の上に、心柱を支える心礎を中心として、その周囲に四天柱の礎石四個、さらに外側四方に各四個の側柱礎石が配されていた。原位置を保つのは四個のみで、残りは後世の移動である。発掘時には合わせて十二個が確認されており、観光案内・遍路資料などでは十三個と紹介されている。
柱間寸法は脇間三・三メートル(一一尺)、中央間三・六メートル(一二尺)、脇間三・三メートルの計一〇・二メートル(三四尺)。中央間が両脇より一尺広いこの手法は、興福寺・元興寺など八世紀の南都大寺と同じ意匠であり、奈良の本格的造営技術が伊予の地まで波及していたことを示す。柱間寸法を二尺・一二尺といった完数値でとる点は、各地の国分寺塔跡に共通する特徴とされる。
礎石はいずれも花崗岩。柱座に出枘を作り出した荒打ち仕上げで、出枘式は八世紀に広く用いられた形式である。心礎の柱座径は五・四尺以下と推定され、これに塔一辺長との比率を当てはめると、ほぼ七重塔と推算される。さらに心礎柱座径の四〇倍前後という統計的目安によれば、塔の総高は約六四・八メートル(二一六尺)に達したと考えられる。
基壇の構築には版築工法が用いられた。東側のトレンチ調査で深さ約七〇センチの間に九層の積層が確認され、赤色粘土と砂質土を交互に叩き固めた工程が判明している。基壇の高さは約一・二メートル(四尺)。
四度の焼失と礎石の残存
伊予国分寺は、創建後の歴史において四度の兵火を経験した。最初の焼失は天慶二年(九三九)、藤原純友の乱による。次に元暦元年(一一八四)の源平合戦、貞治三年(一三六四)の細川頼之による南北朝期の戦火、そして天正期(一五八四)の長宗我部元親による侵攻と続いた。元禄二年(一六八九)に寂本が著した『四国徧礼霊場記』には、当時の伊予国分寺は茅葺の小堂を残すのみと記されている。
本格的な復興は江戸時代後期。現在の伊予国分寺の本堂は寛政元年(一七八九)に恵光上人が金堂として建立したもので、塔跡の西約一〇〇メートルに位置する。塔そのものは再建されないまま今日に至るが、創建期の礎石は基壇の上に留まり、千二百余年の歳月を経て古代寺院の規模と位置とを示し続けている。
現地で見るべきこと
塔跡の敷地は約一〇〇平方メートル。三方を民家に囲まれた狭い区画で、入口に「史跡伊豫国分寺塔趾」と彫られた石柱が立つ。基壇の一部は土の盛り上がりとして残り、その上と周囲に花崗岩の礎石が露出している。垂直に立つもの、わずかに傾いだもの、地面と水平に近いものと、見え方は一様ではない。
もっとも大きな礎石が、心礎にあたると考えられている。柱座の円形の彫り込みが比較的明瞭で、他の礎石にも同様の柱座が見られる。中央に小さな突起――出枘――を残す例も観察でき、これが心柱を据えるための仕口であった。
基壇の中央に立って空を仰ぐと、ここに高さ六十メートル超の塔がそびえていたという数値が一気に現実味を帯びる。当時の地域には他に大型建築がなく、平野に屹立する七重塔は、伊予国府の方角からも、南海道を行く旅人からも、遠望できたことだろう。
現在の伊予国分寺と参詣の文脈
塔跡から西へ約一〇〇メートル進むと、現在の伊予国分寺の境内に至る。真言律宗、本尊は薬師如来。四国八十八ヶ所霊場の第五十九番札所である。境内には弘法大師ゆかりの「握手修行大師」、薬師如来の真言を唱えながら撫でる「薬師のつぼ」などがあり、巡拝の遍路にとっての休息と祈りの場となっている。
寺伝によれば、創建は天平十三年、行基菩薩による開創とされ、第三世住職智法律師の代に弘法大師が長期間滞在し、五大尊明王の画像を奉納したという。寺宝として『国分寺文書』三巻、『大般若経』、古瓦などが書院に納められている。県指定有形文化財二点、市指定有形文化財一四点を所蔵する。
周辺の見どころ
塔跡の南約一・三キロには伊予国分尼寺の推定地がある。現在の桜井小学校の敷地から唐草文軒平瓦が出土しており、ここを尼寺跡とみる説が有力である。塔跡から東南方向、JR予讃線沿いの畑地には礎石六個が残るとの記録もあり、僧寺と尼寺がほぼ同時期に造営された古代伊予の宗教景観をうかがわせる。
伊予国府の比定地である上徳遺跡は塔跡の北東約一・八キロ。発掘調査による正確な国府跡の特定はなお課題として残るが、文献的にはこの地域に伊予国の政庁が置かれていたとされる。
伊予国分寺のすぐ近くには、南北朝期の武将脇屋義助の墓所もある。新田義貞の弟で南朝方の四国・中国地方総大将を務め、興国三年(一三四二)に伊予国分寺で病没したと伝えられる。今治市は脇屋発祥の地である群馬県太田市と姉妹都市の関係にある。やや遠方では、瀬戸内海を渡って大三島の大山祇神社(北西約二五キロ)、来島海峡を望むしまなみ海道のサイクリングルートなども一日の行程に組み込みやすい。
Q&A
- 塔跡は自由に見学できますか。料金や開園時間はありますか。
- 屋外史跡として開放されており、料金や開園時間の設定はありません。常時自由に見学できます。ただし三方を民家に囲まれた狭い区画にあり、近隣住民への配慮として大声や夜間訪問は避けてください。専用の駐車場はないため、隣接する伊予国分寺の駐車場(有料、二〇〇円)を利用するのが一般的です。
- 最寄り駅・最寄りバス停からのアクセスを教えてください。
- JR今治駅前からせとうちバス「桜井団地循環線」で約二二分、「国分寺」バス停下車、徒歩約三分で現在の伊予国分寺に到着。塔跡はそこからさらに東に一〇〇メートルほどの位置にあります。車利用の場合、今治ICから約二〇分。JR伊予桜井駅からは車で約五分です。
- 礎石の数が「十二個」と「十三個」で資料によって異なるのはなぜですか。
- 昭和四三年の愛媛県教育委員会発掘調査の報告では心礎を含む一二個と記されていますが、現地の観光案内や四国霊場関連の資料では一三個と紹介されることが多く、両者の間に若干の差があります。創建期の原礎石であることに変わりはなく、観察される位置の解釈や数え方の違いと考えられます。現地で目視できる花崗岩の礎石は、おおむね十数個と理解してよいでしょう。
- 塔の高さや形式はどのように推定されていますか。
- 塔そのものは現存せず、創建当初の図面も伝わりません。心礎の柱座径と基壇一辺長との比率(六・三倍)から七重塔と推定され、心礎柱座径の四〇倍前後という統計的指標を用いると、塔の総高は約六四・八メートル(二一六尺)と算出されます。聖武天皇の詔で各国の国分寺に課された「七重塔一区」の規定とも整合します。
- 塔跡と現在の伊予国分寺の関係はどうなっていますか。
- 現在の伊予国分寺(真言律宗、四国八十八ヶ所第五十九番札所)は、創建期の伊予国分寺の法灯を継ぐ寺院ですが、現在地は塔跡から西へ約一〇〇メートルの位置にあります。創建当初の伽藍域は塔跡周辺に広がっていたと考えられ、現在の本堂は寛政元年(一七八九)の再建です。
基本情報
| 名称 | 伊予国分寺塔跡(いよこくぶんじとうあと) |
|---|---|
| 所在地 | 愛媛県今治市国分 |
| 指定区分 | 国指定史跡 |
| 指定年月日 | 大正十年(一九二一年)三月三日 |
| 指定基準 | 三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡 |
| 時代 | 奈良時代(八世紀中葉) |
| 遺構 | 一辺一七・四メートルの方形基壇、花崗岩の礎石約一三個(心礎を含む) |
| 推定される塔 | 七重塔、推定総高約六四・八メートル |
| 主な発掘調査 | 昭和四十三年(一九六八年) 愛媛県教育委員会 |
| 管理団体 | 今治市(大正十一年五月二三日指定) |
| 料金・開園 | 無料・常時開放 |
| アクセス | JR今治駅前からせとうちバス「桜井団地循環線」または「唐子台循環線」で「国分寺」下車、徒歩約三分(現国分寺の東約一〇〇メートル)。車の場合、今治ICから約二〇分 |
| 周辺の見どころ | 伊予国分寺(四国八十八ヶ所第五十九番札所)、伊予国分尼寺跡、伊予国府推定地(上徳遺跡)、脇屋義助公廟堂 |
参考文献
- 国指定文化財等データベース「伊予国分寺塔跡」 文化庁
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/2536
- 文化遺産オンライン「伊予国分寺塔跡」
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/211270
- えひめの記憶『愛媛県史 原始・古代Ⅰ』「伊予国分僧寺」 愛媛県生涯学習センター
- https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/61/view/7729
- 今治市公式観光情報「国分寺(四国霊場59番札所)」
- https://www.city.imabari.ehime.jp/kanko/spot/?a=130
- 一般社団法人 四国八十八ヶ所霊場会「第59番札所 金光山 最勝院 国分寺」
- https://88shikokuhenro.jp/59kokubunji/
最終更新日: 2026.05.18