千疋のサクラ — 「四国の吉野」と称えられた名勝の桜峠を訪ねて

愛媛県の中央に位置する高縄半島。その奥深い山並みのなかに、古来より「四国の吉野」と称えられた桜の名勝があります。今治市玉川町、楢原山(ならばらさん)の中腹にひろがる「千疋のサクラ」です。瀬戸内の青い海を遠く望み、修験の山として信仰を集めた楢原山。その懐に咲く山桜(ヤマザクラ)は、南北朝の伝説をまとい、近代の歌人にも愛され、今もひっそりと春を迎えています。観光地として整備された華やかな桜名所とは趣を異にする、本物の山の桜に出会う旅をご紹介します。

昭和16年指定の国の名勝

千疋のサクラは、昭和16年(1941年)12月13日に国の名勝として指定された文化財です。翌昭和17年(1942年)2月14日には、今治市が管理団体に定められ、現在に至るまで地元によって守られています。指定の対象は単独の桜の木ではなく、楢原山一帯にひろがる桜の景観そのもの。指定当時の記録には、「許多の桜樹が奈良原山脈一帯に連亙点綴して吉野に彷彿し、規模きわめて大なる一域の景観をなす」と述べられ、千疋峠がその中心であると記されています。

「千疋(せんびき)」という名は、南北朝時代(14世紀)の伝承に由来します。南朝方の兵がこの地に集まった折、千頭の軍馬をつなぐにあまりあるほどの桜の大木が立ち並んでいたことから、こう呼ばれるようになったといわれます。さらに、長慶天皇がこの楢原山に身を隠したとの伝説も残り、千疋峠は単なる景勝地にとどまらず、南北朝動乱の記憶を今に伝える歴史の舞台でもあるのです。

楢原山と千疋峠 — 「四国の吉野」の風景

千疋のサクラがひろがるのは、標高1,041メートルの楢原山中腹、千疋峠の周辺です。楢原山は四国百名山の一つにも数えられ、山頂からは東に今治平野と瀬戸内海、西と南に愛媛中央部の山々が望めます。一帯は奥道後玉川県立自然公園に含まれ、ブナや杉の自然林が随所に残る、静寂と神域の山として知られてきました。

ここに咲くのは、日本古来の自生種であるヤマザクラ。奈良の吉野山を彩る桜と同じ種類です。現代の都市に多いソメイヨシノが花だけを先に開かせるのに対し、ヤマザクラは赤茶色の若葉と花を同時に展開し、淡紅色と銅色のグラデーションをつくり出します。一本一本に個性があり、開花の時期も少しずつずれるため、長い春のあいだ、山肌が淡い色彩でゆっくりと染まっていきます。

移ろう景観への正直なまなざし

訪れる際にひとつご留意いただきたいのは、千疋のサクラが指定された当時の壮観と、現在の姿はかなり異なるという事実です。長年にわたって老樹が枯死し、かつての「桜雲簇る」と讃えられた景観は、もはやそのままには残っていません。それでも、静かな山道を歩いて千疋峠へ立てば、杉や檜の合間に老桜が点々と春を告げ、風と鳥の声しか聞こえない深い時間が流れています。賑やかな花見ではなく、歴史と自然の余韻に身を浸す旅としての魅力が、この場所には確かにあります。

信仰の山が重なる文化的奥行き

千疋峠を語るうえで欠かせないのが、楢原山頂にまつられる奈良原神社の存在です。古くは「奈良原権現」と呼ばれ、牛馬の守護神として今治平野の農村から厚く信仰されてきました。山岳修験の場としての歴史も深く、山中には修験道に関わる蓮華寺の旧跡も残ります。

昭和9年(1934年)には、雨乞い祈祷の清掃中に奈良原神社境内から平安時代の銅製宝塔が発見されました。その内部には経典が納められており、平安末期の優れた工芸品として「伊予国奈良原山経塚出土品」の名で国宝に指定されています。現在は山麓の今治市玉川近代美術館に保管されており、千疋のサクラを訪ねる旅と組み合わせれば、自然・歴史・信仰の三層が重なる豊かな文化体験となります。

峠には、近代を代表する歌人・吉井勇が詠んだ「大君の桜吹きけりかしこみて千疋峠の花ををろがむ」の歌碑がひっそりと立ち、訪れる人を昔日の風景へといざないます。

見どころ

千疋のサクラを訪れる楽しみは、混雑した観光名所とは異なる、深い静けさのなかにある桜と歴史のたたずまいを味わうことにあります。瀬戸内海まで見渡せる千疋峠の眺望、点在する老ヤマザクラと若葉のグラデーション、4月に開花する花と葉の同時展開のうつろい、吉井勇の歌碑が伝える詩情、奥道後玉川県立自然公園の原生的な森林の深み、そして山頂奈良原神社へとつづく修験の道筋。これらが折り重なって、ほかの桜名所では味わえない、しずかで奥行きのある春の旅を生み出します。

アクセス

千疋のサクラは、今治市の山間部に位置するため、自家用車での来訪が基本となります。瀬戸内しまなみ海道の今治ICからは、国道317号を玉川方面へ南下し、玉川派出所付近から県道154号に入って鈍川温泉まで約15分。そこからさらに山道を進み、駐車スペースに車を止めたうえで、林の中の小径を徒歩で登っていきます。参考にした旅行記録によれば、道幅は狭く、駐車場も整備されておらず、最後は徒歩でのアクセスとなりますので、歩きやすい靴と十分な余裕をもって出かけましょう。

公共交通でお越しの場合は、JR予讃線今治駅からタクシーで鈍川温泉まで約20分が目安です。そこから先の山中へはバス便が乏しいため、現地で道の状況を確認するか、車で訪れることをおすすめします。

桜の見ごろは、年により異なりますがおおむね3月下旬から4月中旬頃。標高があるため、市街地より少し遅れて開花します。

周辺の見どころ

千疋のサクラを訪れる際は、ぜひ周辺の名所もあわせてお楽しみください。鈍川温泉は、道後温泉・本谷温泉と並ぶ「伊予の三湯」のひとつに数えられ、江戸時代には今治藩の湯治場として栄えた歴史ある温泉。アルカリ性の柔らかな泉質は「美人の湯」として親しまれています。隣接する鈍川渓谷は奥道後玉川県立自然公園の中心で、「二十一世紀に残したい四国の自然100選」第2位にも選ばれた清流の渓谷。今治市玉川近代美術館では、楢原山経塚から出土した国宝の銅宝塔を特別展示で拝観できる機会もあり、千疋のサクラの歴史を立体的に理解する格好の場所です。さらに健脚の方は、楢原山の山頂・奈良原神社まで足を伸ばせば、県指定天然記念物の「子持ち杉」をはじめとする神域の老杉に包まれる、忘れがたい登山体験が待っています。

Q&A

Q千疋のサクラはどのような桜ですか。
A主に日本の自生種である「ヤマザクラ(山桜)」です。都市で多く見られるソメイヨシノとは異なり、若葉と花を同時に展開させ、淡紅色と若葉の銅色が織りなす素朴で奥深い美しさが特徴です。これは奈良・吉野山の桜と同じ種類で、千疋峠が古来「四国の吉野」と称えられた所以でもあります。
Q「千疋」という名前の由来は何ですか。
A14世紀の南北朝動乱期にまつわる伝承に由来します。南朝方の兵が、千頭の軍馬を桜の大木につないでもなおあまりあるほど多くの桜があったことから、このように呼ばれるようになったと伝えられています。長慶天皇がこの楢原山中に身を隠したという伝説とともに、千疋峠は南朝の物語を伝える地として知られています。
Q指定当時のような桜の見事さは今も残っていますか。
A残念ながら、当時のような壮観はもはや見られません。多くの老樹が枯死し、現在はかなり静かで控えめな景観となっています。それでも、歴史の深みを感じる山中の春のたたずまいは独特で、賑やかな花見とは異なる、しんとした春の旅を味わいたい方には特におすすめできる場所です。
Q訪れるのに最適な時期はいつですか。
Aヤマザクラの見ごろはおおむね3月下旬から4月中旬頃ですが、標高があるため平地より少し遅れて開花することが多いです。春は鈍川渓谷や楢原山のハイキングにも適した季節で、秋には紅葉も楽しめます。事前に今治市の観光情報をご確認のうえお越しください。
Q他の観光と組み合わせられますか。
Aはい、ぜひおすすめいたします。すぐ近くには鈍川温泉、鈍川渓谷、今治市玉川近代美術館(楢原山経塚出土の国宝銅宝塔を所蔵)があり、健脚の方は奈良原神社までの登拝も可能です。自然・歴史・信仰・温泉が一日で味わえる、奥行きのある旅程を組み立てることができます。

基本情報

名称 千疋のサクラ(せんびきのさくら)
文化財種別 国指定 名勝
指定年月日 1941年(昭和16年)12月13日
管理団体 今治市(昭和17年2月14日指定)
所在地 愛媛県今治市玉川町
環境 楢原山中腹・千疋峠(奥道後玉川県立自然公園内)
標高 千疋峠付近 約600m/楢原山頂 1,041m
樹種 ヤマザクラ(自生の山桜)
見ごろ 3月下旬~4月中旬頃(年により変動)
アクセス 瀬戸内しまなみ海道・今治ICから鈍川温泉まで車で約15分、その先は山道を経て徒歩で峠へ

参考文献

千疋のサクラ - 文化遺産オンライン
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/211280
千疋のサクラ - 国指定文化財等データベース
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/401/2546
楢原山 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A2%E5%8E%9F%E5%B1%B1
楢原山へのみち - 四国のみち
https://shikoku-nature-trail.com/archives/3852
玉川近代美術館 - 今治市
https://www.city.imabari.ehime.jp/museum/tamagawa/
鈍川温泉 - 今治地方観光協会
https://www.oideya.gr.jp/nibukawaonsen/
奈良原神社 - 愛媛県神社庁
http://ehime-jinjacho.jp/jinja/?p=905

最終更新日: 2026.04.27