日向の商家に受け継がれた能楽資料
能面十九面、能装束八十点、楽器二点。あわせて百一点からなる「谷家能楽資料」は、室町時代から昭和初期までおよそ五世紀にわたって集積された一群で、現在は福岡県太宰府市の九州国立博物館に置かれている。大名家でもなく、能楽の宗家の家でもない。これは一商家に伝来した資料である。
谷家は、江戸時代末期に日向国延岡藩の豪商として頭角をあらわした家で、屋号を藤屋といった。幕末以降、廻船によって上方との交易を山海産物を中心に積極的に進め、財政の基盤を築いた。近代に入ると宮崎県下でも屈指の大地主に数えられるようになる。
もっとも、財力だけでこれだけの資料がまとまるわけではない。谷家は関西の能の名家と親しく交わり、その分家筋からは能楽師も出ている。この交わりこそが、ここに集められた面・装束・楽器をつなぐ筋道となっている。
登録美術品という位置づけ
谷家能楽資料には、やや珍しい法的な位置づけがある。重要文化財に指定された資料ではない。平成二十六年(二〇一四年)十二月十七日に、美術品の美術館における公開を促すために平成十年に制定された法律にもとづいて、登録美術品として登録されたものである。
制度の仕組みはこうである。国宝や重要文化財に相当する価値をもつと判断された個人所有の作品について、所有者は所有権をそのまま保ちながら、契約した美術館を通じて長期にわたり一般に公開する。所有者には相続税の優遇という利点があり、社会の側は、本来であれば人目に触れにくい、あるいは国外へ流出しかねない作品を鑑賞できるようになる。この資料の契約美術館が九州国立博物館にあたる。
登録に値するのは、そのまとまりのよさと、出自の性格による。能装束の一括資料は、大名家や能楽の宗家、寺社に受け継がれてきた例が多い。町方に伝来したものは、江戸時代の作品となると希少性が高く、近代の作品に限られることも少なくない。江戸期と近代の品が良好な保存状態でそろう谷家の資料は、地方の商家による近代以降の能楽の受容を一群としてたどれる、数少ない事例である。
注目したい点
まず面から見ていきたい。十九面の制作時期は三つの時代にまたがる。中世まで遡る一面、江戸時代の十五面、そして近代の三面である。
もっとも古いのは能の「山姥」で、室町時代まで遡る可能性のある優品とされる。よく見ると、角を植えていた痕跡が残っている。もとは鬼面として彫られ、のちに山姥へと改められたとみられ、一材の面が時代を経て役柄を変えた経緯がうかがえる。
江戸時代の面には、作者を示す焼き印を裏面にもつものがある。若い女面の「小面」、寺の稚児を写した「喝食」、武人の面である「平太」がそれで、いずれも印が示すとおりの作者による佳作である。盗賊熊坂を演じるための「六十三(熊坂)」も見ごたえがある。近代の三面は名のある作者の手になり、二十世紀の能面作家として知られる中村直彦、幕末から明治にかけての彫刻家で宝生流の能面を手がけた矢野啓通の作が含まれる。附属する箱や面袋にも注意したい。作者や伝来を記した墨書を備えたものが多く、資料としての価値が認められている。
八十点の能装束は、江戸時代後期から昭和初期にかけて織られ、縫われたものである。一座の装束として必要なものをほぼ網羅する。女役の唐織、刺繡と箔置きによる縫箔、力強い男役の厚板、薄手の長絹、貴人や神の狩衣、側次、幅広の大口や文様のある半切の袴、帯類、角帽子、さらには数珠まで含む。さまざまな役柄に偏りなく対応できるよう整えられた一式である。
楽器二点は見落とされがちだが、二度目の一瞥に値する。「龍虎梅竹蒔絵小鼓胴」は、金銀の高蒔絵に切金を交えて龍・虎・笹・梅樹をあらわした江戸時代の佳作で、皮と蒔絵箱を備えて残る。隣に置かれる能管は二十世紀の作だが、瀟洒な蒔絵を施した笛筒をともない、一管の笛にもふさわしい収まりが用意されている。
九州国立博物館と太宰府
九州国立博物館は、千年以上前に九州統治の府であり大陸への玄関口でもあった太宰府の、木々におおわれた丘の上に建つ。建物そのものが目を引く。緩やかに反る屋根の下に、ガラス張りの長大な空間が横たわり、波とも低い丘ともつかぬ姿をなしている。
館はエスカレーターのトンネルで太宰府天満宮の境内とじかに結ばれている。天満宮は菅原道真をまつり、試験を控えた学生の参拝でも知られる。参道には梅の紋を押した焼きたての梅ヶ枝餅を売る店が並ぶ。神社と宝物殿、博物館がいずれも徒歩圏に収まっているため、半日はあっという間に過ぎる。
同館の常設にあたる文化交流展示室は、展示替えが頻繁で、光や取り扱いによる傷みを避けるため、毎月数十点が入れ替わる。このため谷家能楽資料の個々の面や装束も、常時公開されているわけではなく、その時々に応じて展示される。特定の品を目当てに足を運ぶ場合は、出発前に同館の最新の展示一覧で確認しておきたい。
Q&A
- 谷家能楽資料は一度にすべて見られますか。
- いいえ。文化交流展示室の展示替えのなかで紹介されるため、公開されるのはその時々の一部で、まったく出ていない時期もあります。来館前に同館の展示一覧をご確認ください。
- 重要文化財ですか。
- いいえ。重要文化財ではなく登録美術品です。個人所有の価値ある作品を、契約美術館を通じて公開する制度にもとづくもので、二〇一四年十二月に登録されました。
- 何が含まれているのですか。
- 能面十九面、能装束八十点、楽器二点の計百一点です。制作時期は十五世紀から二十世紀前半までにわたります。
- 博物館へのアクセスは。
- 西鉄太宰府駅から徒歩約十分です。太宰府天満宮とはエスカレーターの通路で結ばれています。JR二日市駅からはタクシーで約十五分です。
- 観覧料はいくらですか。
- 文化交流展は一般七百円、大学生三百五十円です。十八歳未満および満七十歳以上は無料です。特別展は別料金となります。
基本情報
| 名称 | 谷家能楽資料(たにけのうがくしりょう) |
|---|---|
| 指定区分 | 登録美術品(平成26年〔2014年〕12月17日登録/登録番号066) |
| 員数 | 101点(能面19面、能装束80点、楽器2点) |
| 時代 | 室町時代~昭和時代(15世紀~20世紀前半) |
| 所在 | 九州国立博物館(公開契約館) |
| 所在地 | 福岡県太宰府市石坂4-7-2 |
| 開館時間 | 9時30分~17時(入館は16時30分まで)/月曜・年末年始休館 |
| 公開状況 | 文化交流展のなかで随時展示(常設展示ではない) |
参考文献
- 文化遺産オンライン(国立文化財機構/文化庁)
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/262632
- 国指定文化財等データベース(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/202/00000066
- 登録美術品制度(文化庁)
- https://www.bunka.go.jp/seisaku/bijutsukan_hakubutsukan/torokubijutsuseido/gaiyo/index.html
- 九州国立博物館
- https://www.kyuhaku.jp/
最終更新日: 2026.06.14