白河関跡 ― みちのくへの古代の関門

福島県白河市旗宿、栃木県境まで三キロほどの独立丘陵に、かつて白河関が置かれていた。標高は四百十メートルほど。古来この一帯は「関の森」と呼ばれ、奈良から平安にかけて、都の側と蝦夷の地とを行き交う人や物資を監視する役割を担った。

関の建物そのものは早くに失われ、いまは丘と空堀、土塁、そして古い杉に囲まれた白河神社が残る。昭和41年(1966)9月12日、国の史跡に指定された。

北辺の道を扼した関

「白河」の名が文献に最初に現れるのは、延暦18年(799)の太政官符である。そこには白河・菊多の二関に守備の人員六十人が置かれたと記される。承和2年(835)の太政官符はさらに踏み込み、律令国家に服した俘囚の出入りと、商人による官納物の買い占めを取り締まるため、通行の管理を西国の長門国並みに行うよう命じている。辺境の備えがどれほど重く見られていたかが、この一文からうかがえる。

関の起源をさらに古くにさかのぼらせる伝えもあるが、発掘の成果と現存する文献からは、おおむね八世紀から九世紀にかけて機能していたとみられる。十世紀に入り律令体制が衰えると、官の関としての役目は失われ、やがて所在さえ分からなくなっていった。

失われた関から国史跡へ

中世になると、丘陵全体が居館として使われた。敵の侵入を防ぐための土塁と空堀がめぐらされ、その内側に主郭が置かれた。いま丘の上に見える堀と土の高まりの多くは、この時期のものである。一方で関跡としての名声は実用を離れて生き続け、江戸時代には正確な位置を言える者がいなくなっていた。

この問いに決着をつけたのが、白河藩主・松平定信であった。古い絵画や記録、土地の言い伝えを照らし合わせて考証を重ね、寛政12年(1800)、この丘こそ白河関の跡であると断じて「古関蹟碑」を建てた。

定信の判断が裏づけられたのは、ずっと後のことである。昭和34年(1959)から五年をかけた発掘調査で、空堀・土塁・柵列のほか、門跡、竪穴住居跡、鍛冶工房跡、掘立柱建物跡などが次々と確認された。出土の年代は縄文から奈良・平安、中世にまで及び、この丘が長い時間にわたって人の営みを重ねた複合遺跡であることが明らかになった。これらの遺構と峠の地理、文献・絵画の検討を総合した結果、現在地が白河関の条件に多く合致すると判断され、昭和41年の指定に至った。

歌人たちが立った場所

関としての機能を失ってのち、白河は日本文学屈指の歌枕となった。その名を口にするだけで、辺境への距離と憧れがにじむ言葉になっていく。評判を決定づけたのは、僧であり歌人でもあった能因の一首だった。霞とともに都を発ったはずが、白河の関ではもう秋風が吹いていた、という時間の隔たりを詠んだものである。西行もこの地を訪れ、ほかの歌人たちも、多くは歌の中でしか知らない辺境を目指してやって来た。

もっとも名高い来訪者は、元禄2年(1689)初夏に着いた松尾芭蕉だろう。みちのくへの旅の途上で白河の関にさしかかり、ここで旅の心がようやく定まったと書き留めた。同行した曽良は、関のあたりに咲く卯の花を詠んでいる。その白い花は、三百年余りを経た今も六月のはじめに姿を見せる。

丘を歩くと、文学の重みはいたるところに感じられる。木立のあいだに歌碑が点在し、道は樹齢約八百年と推定される「従二位の杉」のかたわらを通る。新古今和歌集の撰者の一人、鎌倉初期の歌人・藤原家隆が手植えしたと伝わる巨木である。頂近くに鎮座する白河神社の社殿は、仙台藩主・伊達政宗の寄進と伝えられる。

関跡と森公園をめぐる

神社の境内と土塁・空堀は、入場料もなく自由に歩ける。丘の下には白河関の森公園が広がり、小川のほとりに水車や大型遊具、物産コーナーが並ぶ。園内には芭蕉と曽良の銅像が立ち、台座にはこの地ゆかりの句が刻まれている。

関跡には伝説も多い。そのひとつ「庄司戻しの桜」は、治承4年(1180)、信夫庄司・佐藤基治が、源義経に従って発つ二人の息子をここまで見送り、忠義を説いて桜の杖を地に突き立てたという話に由来する。やがてその杖が根づき、大きな桜に育ったと伝わる。現在は市の史跡に指定されている。

関跡はJR白河駅の南、約十二キロの山あいにある。東北新幹線の新白河駅から福島交通のバスで森公園まで四十分ほどだが、便数が少ないため、レンタカーを使うほうが回りやすい。

Q&A

Q現地で関所の門は見られますか。
Aいいえ。関の門は千年以上前に失われています。残っているのは丘そのものと、後の居館時代の土塁・空堀、白河神社、古い杉、そして寛政12年(1800)の古関蹟碑です。
Q目に見える遺構が少ないのに、なぜ国史跡なのですか。
A昭和34年(1959)からの発掘で、防御施設と長期にわたる遺構が確認され、文献の記述と合致しました。奥州三古関の一つという位置づけや、和歌・俳諧での重みも評価されています。
Q松尾芭蕉との関わりは。
A芭蕉は元禄2年(1689)、「おくのほそ道」の旅の途中でここを通り、白河の関を越えて旅の心が定まったと記しました。同行の曽良も、関のあたりの卯の花を句に詠んでいます。
Q訪れるのに良い時期は。
A曽良が詠んだ白い卯の花が咲く六月のはじめがふさわしい時期です。木立に包まれた丘は秋も気持ちよく歩けます。境内は通年、無料で見学できます。
Q車がなくても行けますか。
A新白河駅から福島交通のバスで森公園まで四十分ほどですが、本数は限られます。事前に時刻を確認するか、駅でレンタカーを借りると動きやすくなります。

基本情報

名称白河関跡(しらかわのせきあと)
所在地福島県白河市旗宿関ノ森ほか
指定区分国指定史跡
指定年月日昭和41年(1966)9月12日
主な機能年代奈良~平安時代(8~9世紀頃)
所有・管理白河神社・白河市ほか
料金無料・境内は通年見学可
アクセス新白河駅から福島交通バスで白河関の森公園まで約40分。レンタカー利用が便利

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/381
白河関跡【しらかわのせきあと】(白河市公式ホームページ)
https://www.city.shirakawa.fukushima.jp/page/page001386.html
ここからみちのく「白河関跡」(国指定史跡)(白河市公式ホームページ)
https://www.city.shirakawa.fukushima.jp/page/page001743.html
文化遺産オンライン(国立文化財機構)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/162191

最終更新日: 2026.05.28