榛名山麓に並ぶ三基の大型前方後円墳

群馬県高崎市の北西部、田畑が広がる一画に、草に覆われた三つの大きな丘が寄り添うように残っています。これが保渡田古墳群です。五世紀の終わりごろから六世紀の初めにかけて、わずか三十年ほどの間に築かれた前方後円墳で、二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳の順に造営されたと考えられています。いずれも、この一帯すなわち上毛野を治めた豪族の墓でした。

前方後円墳は、円形の後円部に台形の前方部をつないだ形をしています。真上から見ると鍵穴のような輪郭になり、この形は古墳時代の社会で最も高い身分の者にだけ許されました。小さな谷あいに三基もの前方後円墳が並ぶこと自体が、この土地に大きな富と力が集まっていた証しといえます。

古墳群が立つのは榛名山の南麓です。のちにこの火山の噴火が周囲一帯を火山灰で覆いますが、その同じ火山灰が、古墳を築いた人々の残したものを良好な状態で閉じ込めました。保渡田古墳群は、五世紀の東国の姿をうかがう数少ない手がかりとなっています。

榛名山の麓に栄えた豪族

古墳時代、榛名山の裾野に広がる平野では、水田を耕す人々が数多く暮らしていました。保渡田に葬られた一族の力は、この豊かな農地に支えられていたと考えられます。古墳群からほど近い場所では三ツ寺I遺跡が見つかっています。石を貼った濠で囲まれた豪族の居館跡で、庭園や祭祀の空間を備えていました。三ツ寺Iに住んだ人々と保渡田に眠る首長を結びつける研究者は多く、生者の館と死者の墓とが互いに見渡せる距離に並んでいたことになります。

三基の古墳は、短い期間に続けて築かれました。最初が群中で最も大きな二子山古墳、次いで八幡塚古墳、最後に薬師塚古墳です。その薬師塚古墳が完成するころ、榛名山は六世紀前半の激しい活動を始めていました。噴火による火山灰は田畑を覆い、古墳の濠にも降り積もりました。その時期は今も地中から読み取れます。薬師塚古墳では外側の濠に火山灰の層が見られるのに、内側の濠には見られません。古墳をまだ造っている最中に噴火に見舞われたことがわかります。

薬師塚古墳は、先に築かれた二基に比べて埴輪の数が少ないことも知られています。噴火によって、古墳を旧来の規模で飾るための労力や物資が、すでにこの地域から失われていたのではないかとする見方があります。だとすれば、保渡田古墳群は地方豪族の興隆だけでなく、その世界が危機に投げ込まれた瞬間までを記録していることになります。

国の史跡に指定された理由

保渡田古墳群は、昭和六十年(一九八五年)九月三日に国の史跡に指定され、平成十五年(二〇〇三年)八月二十七日には保護範囲が追加されました。古墳時代の集落跡・古墳としての価値が認められたものです。

その価値は、残されたものと掘り出されたものの両方にあります。三基の古墳はいずれも舟形石棺を納め、二重の濠をめぐらし、墳丘の斜面には葺石が葺かれていました。葺石は川原石を斜面に並べたもので、墳丘の表面を明るく際立たせます。ここから出土した形象埴輪は、甲冑姿の武人や巫女から、馬・猪・水鳥にいたるまで多彩で、日本でも早い時期の、まとまった埴輪群像として研究の対象になっています。

薬師塚古墳から出土した遺物は、別に保護されています。銅鏡、瑪瑙やガラスの玉類、金銅製の馬具などは、昭和十四年(一九三九年)に重要文化財に指定されました。その一部は、古墳のかたわらに建つ博物館で見ることができます。

三つの古墳を歩く

三基のうち最も目を引くのは八幡塚古墳です。平成八年から十一年にかけて、高崎市は本格的な復元整備を行い、墳丘を五世紀の姿に近づけました。日本の古墳の多くが静かな樹林の丘として残るなかで、八幡塚古墳は築造当時の表情を見せています。淡い色の川原石で覆われた斜面、二重にめぐる濠、そして内濠に置かれた四つの小さな円い島。島は祭祀の場であったと考えられています。

内堤には、復元された埴輪の配列が並びます。発掘で見つかったとおりに据えられた、五十四体の人物・動物埴輪の列です。墳丘や島のまわりには、およそ六千体の円筒埴輪がめぐります。後円部に登れば、石棺を展示した小さな部屋に下りることができ、古墳の埋葬の中心にこれほど近づける場所はそう多くありません。

八幡塚古墳から出土した一体の埴輪が、とりわけ注目を集めてきました。魚をくわえ、首には鈴のついた紐を巻いた鵜の姿をかたどった埴輪です。鈴と紐は飼いならされた鳥の印であり、この埴輪は、鵜飼が文献に記される何世紀も前、すでに古墳時代に営まれていた可能性を示す資料と考えられています。

最も古く大きい二子山古墳は、復元ではなく植栽を生かした修景整備が行われ、多くの人が古墳と聞いて思い描く緑のなだらかな姿をとどめています。墳丘長はおよそ百八メートル、後円部の径は七十四メートル、高さはおよそ十メートルで、三段に築かれています。石棺は保護のため、墳頂から一メートルほど下に埋め戻されています。

薬師塚古墳は西光寺の境内にあり、寺の建物や墓地によって墳丘の一部が長い年月のうちに削られてきました。寺に伝わる話では、天和三年(一六八三年)、夢のお告げによって石棺が掘り出され、内部は朱で満たされ、副葬品とともに薬師像が見つかったといいます。古墳と寺の薬師堂の名は、この発見に由来します。凝灰岩を刳り抜いた舟形石棺は、墳頂の覆屋のなかに納められています。

周辺の見どころとアクセス

復元された二基の古墳は、上毛野はにわの里公園のなかにあります。古墳群を囲んで整えられた、約十三ヘクタールの公園です。園内はいつでも自由に歩くことができ、広い芝生と榛名山の山影が、ゆっくりとした時間を過ごすのにふさわしい場所をつくっています。

公園の中心には、かみつけの里博物館が建っています。古墳群と、近くの三ツ寺遺跡から出土した品々を集めた博物館です。模型は古墳群と五世紀の周辺の風景を復元し、重要文化財を含む形象埴輪を、細部まで見られる距離で展示しています。先に博物館を訪ねておくと、古墳のあいだを歩くときの理解がいっそう深まります。

園内には、この地ゆかりの近代歌人にちなんだ土屋文明記念文学館もあります。車で訪れる場合は広い駐車場が利用できます。高崎駅から公共交通機関で向かうこともできますが、路線バスの便は限られているため、あらかじめ時刻を調べておくとよいでしょう。

Q&A

Q訪れるのに良い時期はいつですか。
A公園は一年を通して開かれ、古墳はいつでも歩けます。気候の良い春と秋が過ごしやすく、晴れた日には古墳の背後に榛名山がよく見えます。屋内の展示を見たい場合は、火曜日が休館となるかみつけの里博物館の開館日に合わせて計画してください。
Q古墳の中に入れますか。
A一部は入れます。八幡塚古墳では後円部に登り、石棺を展示した小さな部屋に入ることができます。内部の見学は博物館の開館時間中に可能です。二子山古墳と薬師塚古墳の石棺は、同じようには公開されていません。
Q入場料はかかりますか。
A公園と古墳の見学は無料です。かみつけの里博物館は入館料が必要ですが、学生・子ども・高齢の方には割引や無料の扱いがあります。
Q見学にはどのくらい時間がかかりますか。
A博物館と八幡塚古墳をしぼって見るなら、およそ二時間です。二子山古墳と園内の散策を加えると三時間ほどになります。西光寺にある薬師塚古墳は少し離れており、さらに三十分ほどを見ておくとよいでしょう。
Qここの埴輪はなぜ重要なのですか。
A保渡田古墳群からは、本来据えられた配置のまま、大きくまとまった形象埴輪が出土しました。古代の人や動物、道具が珍しいほど多彩に表されており、なかでも八幡塚古墳の鵜形埴輪は、鵜飼の存在を示す早い時期の資料です。

基本情報

名称保渡田古墳群(ほどたこふんぐん)
所在地群馬県高崎市保渡田町・井出町
指定区分国指定史跡(昭和六十年〔一九八五年〕九月三日指定、平成十五年〔二〇〇三年〕八月二十七日に範囲を追加指定)
構成三基の大型前方後円墳(二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳)
規模二子山古墳 墳丘長約百八メートル/八幡塚古墳 墳丘長約百二メートル/薬師塚古墳 推定墳丘長約百五メートル
築造時期五世紀後半~六世紀初頭
公開公園・古墳は常時無料で見学可。かみつけの里博物館は有料、火曜休館

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)「保渡田古墳群」
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/570
保渡田古墳群 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/保渡田古墳群
心にググっと観光ぐんま「保渡田古墳群/かみつけの里博物館」
https://gunma-kanko.jp/spots/39
ニッポン旅マガジン「保渡田古墳群・八幡塚古墳」
https://tabi-mag.jp/gu0217/

最終更新日: 2026.05.25