飛弾家住宅観音堂:小さな堂に籠もる一家の信仰

飛弾家の登録建物のうち最も小さいこの堂が、実は最も多くを語る。大崎下島・大長、屋敷地の東辺、蔵門の南側に並んで建つ観音堂は、道に向いた小さな仏堂である。平面は一辺約三メートル、床面積はわずか十二平方メートルほど。それでもこの堂は、大きな建物にはない重みを担う。この家が信仰を、そしてその床下に死者を置いた場所だからである。

堂の歴史には二つの年代がある。建物そのものは明治初期、一八六八年から一九一一年の間のものだが、現在地へは大正末期、一九一二年から一九二五年の間に移築された。道沿いの屋敷が最終の形をとる時期にあたる。正面には庇柱を一本立て、屋根は本瓦葺の宝形造とし、正面には庇を葺き降ろす。外壁は真壁造で簡素である。

登録の理由と価値

観音堂が国の登録有形文化財となったのは平成十五年(二〇〇三)三月十八日、告示は同年四月八日、第三十六回登録による。登録番号は34-0041。その登録は、屋敷の他の建物とは意味ある点で異なる。主屋・蔵・蔵門・離れが「造形の規範となっているもの」として認められたのに対し、この堂は別の基準、すなわち「国土の歴史的景観に寄与しているもの」として登録された。区分も住宅ではなく「その他」に置かれる。

理由は床下にある。屋敷側では、堂の床下を当家の墓所とする。自家の墓の上に建つ私的な仏堂が残る例は珍しく、文化庁はこれを、当地の信仰形態がうかがえる数少ない事例と記す。堂は小さいが、信じ方の一つの姿を記録している。

見どころ

道から見ると、堂はまず寸法として目に入る。二階建の蔵門の傍らでは、ほとんど建物の雛形のようで、宝形の屋根と一本の庇柱が、仏堂の骨格だけに切り詰められている。飾らない真壁の壁は何も誇示しない。関心は、どう装われているかより、この堂が何を意味するかにある。

次に、並びの中での位置を考えたい。観音堂と蔵門は、東の道に沿った屋敷の顔を、ともに形づくる。道行く人の目に入る部分である。私的な信仰の堂と墓とを、この公の縁にこそ据えたことは、ここで信仰と暮らしがどう織り合わされていたかを示す。働く建物を見たのち、最後にこの堂を読むことが、この屋敷が伝えてきたものを締めくくる。

Q&A

Q観音堂の床下には何がありますか。
A屋敷側の床下が、飛弾家の墓所となっています。自家の墓の真上に建つ私的な仏堂は珍しく、この建物が登録された中心的な理由でもあります。
Qなぜ年代が二つあるのですか。
A堂そのものは明治初期、一八六八年から一九一一年の間の建立ですが、大正末期の一九一二年から一九二五年の間に現在地へ移築されました。道沿いの屋敷が現在の配置に整う時期です。
Qなぜ登録基準が他の建物と違うのですか。
A他の四棟はその建築の型式の規範として登録されました。観音堂はかわりに「国土の歴史的景観に寄与しているもの」として登録され、区分も住宅ではなく「その他」に置かれています。
Q宝形造とは何ですか。
A一点に向かって立ち上がる方形の屋根で、小さな正方形の堂によく用いられます。ここでは本瓦で葺き、正面の入口に庇を葺き降ろしています。
Q見学できますか。
A飛弾家住宅は個人の住宅で非公開ですが、観音堂は東の道に建ち、そこから見られます。同じ島で公開された歴史的建築としては、近くに御手洗地区があります。

基本情報

名称飛弾家住宅観音堂(ひだけじゅうたくかんのんどう)
所在地広島県呉市豊町大長5368
区分登録有形文化財(建造物)/種別「その他」
登録平成15年(2003)3月18日登録/同年4月8日告示、登録番号34-0041
時代明治初期(1868~1911)、大正末期(1912~1925)に移築
員数・規模1棟、木造・本瓦葺宝形造、平面一辺約3メートル、建築面積約12平方メートル
公開個人住宅につき非公開(東の道から見学可)

参考文献

文化庁 ― 国指定文化財等データベース「飛弾家住宅観音堂」
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/101/00003311
呉市 ― 呉市の文化財「飛弾家住宅観音堂」
https://www.city.kure.lg.jp/site/bunkazai/kunitouyubun-8.html
呉市 ― 呉市の文化財(一覧)
https://www.city.kure.lg.jp/site/bunkazai/

最終更新日: 2026.07.11