庄内藩ハママシケ陣屋跡——日本海を見下ろす丘に残る、幕末蝦夷地警備の本陣
北海道石狩市浜益区川下、日本海に面した低い丘の上に、新しい木の香りを残す大手門が立っている。門の内側には、土塁の名残と、わずかに窪んだ堀の痕跡、そして長屋や奉行所が建っていた区画を示す木柱が静かに並ぶ。ここは、幕末の安政6年(1859年)に出羽庄内藩(鶴岡藩)が幕府から拝領した蝦夷地警備の本陣、ハママシケ陣屋の跡地である。
陣屋が建設されたのは万延元年(1860年)。だが、その役目はわずか7年あまりで終わる。慶応4年(1868年)、戊辰戦争の勃発を受けて藩士・農民の全員が引き揚げ、建物は解体されるか朽ちるに任された。日本が国を開いてから幕府が倒れるまで——あの目まぐるしい時期に、本州北端の藩が遥か北の地でどんな備えを試みていたか。指定面積約16万8千平方メートルの敷地は、その問いに地形そのものとして答えている。
なぜ、庄内の侍がここに来たのか
安政元年(1854年)の日米和親条約締結により、幕府は下田と箱館を開港した。翌安政2年(1855年)、ロシアをはじめとする外国船の蝦夷地沿岸への接近を警戒した幕府は、東西蝦夷地を直轄に編入し、松前藩のほか仙台・南部・津軽・秋田の四藩に分担警備を命じた。それでも対応が追いつかず、安政6年(1859年)には会津・庄内の両藩が加えられ、奥羽六藩による警備体制が組まれることになる。
同年9月、庄内藩主・酒井忠発に下賜された領地は、西蝦夷地のハママシケ(浜益)からテシホ(天塩)まで、さらに天売・焼尻の両島を含む広大な区域。警備範囲はヲタスツ(歌棄)からアツタ(厚田)まで及び、現代の地図で言えば寿都から天塩までの日本海沿岸全域に相当する。藩は直ちに蝦夷地総奉行や用掛、元締役などを任命し、翌万延元年(1860年)の5月から6月にかけて、現地で幕府箱館奉行から新領地の引き渡しを受けた。
本陣を置くハママシケには、副奉行を頭に物頭1人、足軽40人、平士20人、医師2人、開墾及び郷夫40人ほか、従者を含めて総勢193人が配置された。脇陣屋はルルモッペ(留萌)に57人、トママイ(苫前)に161人、テシホに29人。建築資材は領地である酒田から船で運ばれ、土台石には鶴岡から運漕した花崗岩が用いられたという。陸揚げ地点から建設地までは約435メートル離れていたため、運河を掘って資材を引き入れた。莫大な費用を要したこの水路が「千両堀」と呼ばれた由来である。
史跡指定の理由——「絵図のとおりの地形が残る」
昭和63年(1988年)5月17日、ハママシケ陣屋跡は国の史跡に指定された。指定面積は167,809.50平方メートル。すでに史跡指定されていた南部・松前・仙台各藩の蝦夷地陣屋跡と並び、幕末の国際情勢を物理的に伝える遺跡として評価された。
注目すべきは、当時残された陣屋絵図に描かれた配置が、今もそのまま地形として読み取れる点である。日本海に面する西側の尾根上には土塁が走り、中央に大手門の桝形が設けられていた。南面と東面は、丘陵部に木柵、低地部に堀を巡らせて防御の構えとした。内側には長屋・土蔵・米蔵・湯屋が立ち並び、東北の谷筋には奉行所と八幡社が、東の高所には火薬庫が置かれた——絵図が示すこれらの遺構は、土の起伏として今も明瞭に判別できる。
もう一つ、この陣屋を特異な存在にしているのが、入植と農耕の試みである。文久元年(1861年)から始まった開墾は、清水・吉岡・弥陀・柏木原・山崎・関・門田・黄金の8つの村を生んだ。元治元年(1864年)には道央で最初とされる水田耕作が行われた記録もある。蝦夷地警備に派遣された諸藩の中で、入植による農耕にひとまず成功した稀有な例として、ハママシケ本陣屋は当時の蝦夷地経営の中心拠点と位置づけられている。
敷地を歩く——大手門から千両堀まで
見学の出発点は、復元された大手門である。現在の門は、地元有志による「荘内藩陣屋研究会」が公益財団法人太陽財団の助成を受けて建て替えを行い、令和3年(2021年)7月に竣工して石狩市へ寄贈されたもの。礎石の位置は当時の桝形に従い、絵図に基づく形状を再現している。門をくぐると、視線の先に浜益川の流れと日本海が広がる。
門の内側に広がる土地は、一見すると平坦な草地に見える。しかし陣屋絵図を片手に歩くと、わずかな起伏が長屋や蔵、奉行所の輪郭を浮かび上がらせていく。建物跡には木柱が立てられ、当時の用途を示している。背後の谷筋には八幡社があり、その流れを汲む川下八幡神社が、敷地のすぐ脇で今も地域の鎮守として祭祀を続けている。
陣屋跡の北西、日本海に直接面した山陵の頂上は、見張台が置かれていた場所と推定されている。愛冠岬から雄冬岬までの海岸線が一望できる地点で、絵図には吹流しを翻す監視所の姿が描かれている。同じ山頂には、北海道の日本海側では稀少なアイヌのチャシ(川下チャシ)の遺構も良好に保存されており、二重の意味で歴史の地層が重なる場所である。
千両堀の痕跡は、今も浜益川から丘の麓まで筋となって残る。資材運搬の役目を終えた水路が、150年以上を経てなお地形として読み取れるのは、それだけの規模で掘られた証でもある。
付け加えるなら、ここに駐屯した藩士の中には、後に開拓使の判官として再び北海道に戻る松本十郎の名がある。1868年に一度引き揚げた人々の歩みが、明治の北海道開発に繋がっていたという事実は、この陣屋が単なる「失敗した北方警備の遺構」ではないことを示している。
周辺の見どころ
陣屋跡が位置する浜益区は、標高739メートルの黄金山(こがねやま)が三角錐の姿で背後に控える地形にある。江戸中期の宝永3年(1706年)に松前藩がヘロクカルシ(浜益)に鰊漁の場所請負を開いて以来、漁村として歩んできた土地で、現在も浜益はサクランボ・ブドウなど果樹栽培が盛んだ。近年は地元ワイナリーも複数立ち上がっている。
陣屋跡から国道231号線を北上すると、約30キロで雄冬岬に至る。海に直接落ち込む断崖と、駐車場のすぐ脇まで流れる白銀の滝は、北海道の海岸線でも屈指の景観。陣屋跡に近い愛冠岬には、鷲の頭に似た岩「わし岩」がある。陣屋見張台の絵図に描かれた海の展望と、現代の観光地が地続きで眺められるのも、この一帯の面白さである。
アクセスは札幌中心部から国道231号・451号を経由して車で約90分。鉄道路線はない。敷地内は通年開放されており、見学は無料だが、冬季は積雪のため徒歩での散策は難しい。
Q&A
- 「陣屋」とはどのような施設ですか。
- 陣屋は、城を持たない大名や旗本の領地支配の拠点、あるいは本拠から離れた地域に置かれた藩の出先機関を指します。ハママシケ陣屋は、庄内藩が新たに拝領した蝦夷地警備領の中心施設として設けたもので、行政・軍事・物資補給を兼ねた地域の中枢でした。
- なぜ庄内藩がこの遠隔地を任されたのですか。
- 安政6年(1859年)、幕府は蝦夷地警備の負担を奥羽六藩に分担させました。庄内藩は日本海に面する出羽国を本拠とし、酒田を擁する海運の利点があったため、西蝦夷地の警備と開拓に最も適した藩のひとつと判断されたとされます。
- 「千両堀」とは何のために掘られたのですか。
- 陣屋の建築資材は酒田から船で運ばれましたが、陸揚げ地点から建設地までは約435メートル離れていました。その間を運河で結び、舟で資材を引き入れるために掘られたのが千両堀です。多額の費用がかかったため「千両」の名がつき、現在もその水路跡が地形として残っています。
- 陣屋はどれくらいの期間使われたのですか。
- 主要な建物は万延元年(1860年)に完成し、文久元年(1861年)から本格的な入植と開墾が始まりました。しかし慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると、藩士・農民は総引き揚げとなり、運用期間は7年ほどで終わりました。
- 大手門は当時のものですか。
- いいえ、現在の大手門は復元されたものです。地元有志の「荘内藩陣屋研究会」が太陽財団の助成を受けて令和3年(2021年)7月に建て替え、石狩市に寄贈しました。土塁・堀・建物跡の造成地は江戸期のままで、絵図と地形を照らし合わせながら歩くことができます。
基本情報
| 名称 | 庄内藩ハママシケ陣屋跡(しょうないはんハママシケじんやあと)/荘内藩ハママシケ陣屋跡 |
|---|---|
| 所在地 | 北海道石狩市浜益区川下(旧 浜益郡浜益村) |
| 指定区分 | 国指定史跡(昭和63年〈1988年〉5月17日指定) |
| 指定面積 | 167,809.50平方メートル |
| 建設年 | 万延元年(1860年)主要建物完成、翌文久元年(1861年)入植開始 |
| 建設主 | 庄内藩(鶴岡藩・荘内藩、藩主:酒井忠発) |
| 引き揚げ | 慶応4年/明治元年(1868年) |
| アクセス | 札幌中心部から国道231号・451号経由で車で約90分。入口は川下八幡神社の脇。 |
| 見学 | 無料、敷地内は通年開放(冬季は積雪のため散策困難) |
参考文献
- 庄内藩ハママシケ陣屋跡 — 文化遺産オンライン(文化庁)
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/189992
- 国指定文化財等データベース — 庄内藩ハママシケ陣屋跡(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/73
- 史跡荘内藩ハママシケ陣屋跡 — 石狩市公式ホームページ
- https://www.city.ishikari.hokkaido.jp/kanko/miru/1003513.html
- 石狩ファイル0103-01 荘内藩ハママシケ陣屋跡 — いしかり砂丘の風資料館
- https://www.city.ishikari.hokkaido.jp/museum/1001801/1004573/1004676.html
最終更新日: 2026.05.17