関城跡 — 南朝の落日を見届けた常陸の城
茨城県筑西市の関舘地区に、土塁の低い稜線と数基の石塔が残る一帯がある。国指定史跡「関城跡」は、十四世紀半ばの南北朝動乱において、東国における南朝最後の拠点のひとつとして二年に及ぶ籠城戦の舞台となった場所である。指定は昭和9年(1934年)5月1日、現在は筑西市が管理する。
当地の最後の城主であった関宗祐・宗政父子は、興国4年・康永2年(1343年)11月11日、北朝方・高師冬の率いる軍勢の前に城と運命を共にした。籠城中、ここに合流していた南朝の重鎮・北畠親房は、後世の歴史観に大きな影響を与えた『神皇正統記』をこの城内で完成させたと伝えられている。
大宝沼に突き出す要害
関城は、結城氏の一族である関氏によって鎌倉時代初期に築かれた。立地は地形そのものが防御線となる場所が選ばれている。城域は南へ細長く突き出した低丘陵の先端を占め、東・南・西の三方はかつて大宝沼と呼ばれた広い水域に囲まれていた。陸続きとなる北側のみに、数重の土塁と空堀、さらに大宝沼へと通じる堀割が設けられ、陸路からの侵入を厳しく遮断する構造となっていた。最盛期には九十ヘクタールに及ぶ要害地に展開していたとされ、現在国指定の保護区域はおよそ八・五ヘクタールである。
築城後百年余り、城は地方領主の居館として静かな時間を過ごしていた。状況が一変するのは延元元年(1336年)、後醍醐天皇が三種の神器を奉じて吉野に入り、朝廷が南北に分裂してからのことである。関氏は同じく南朝方に与した近隣の結城・小田・下妻といった常陸の武家とともに、東国における南朝勢力の一翼を担うことになる。
二年に及ぶ籠城
関城が歴史の前面に出るのは、興国2年・暦応4年(1341年)11月のことである。それまで南朝方の東国経営の拠点として小田城を本拠としていた北畠親房は、小田治久の降伏により拠点を失い、わずかな手勢を率いて関城に身を寄せた。隣接する大宝城には城主・下妻政泰が籠もっており、両城は大宝沼を挟んで連携する二段の防衛線を形成した。
これに対し北朝方は、足利尊氏の重臣・高師冬を総大将とする大軍を差し向けた。籠城側の兵力は約三百と伝えられ、攻城側との戦力差は圧倒的であった。それでも沼と土塁に守られた城は容易には落ちず、攻防は二年近くに及ぶことになる。この長い籠城のあいだに、親房はかねて小田城で起筆していた『神皇正統記』に最後の筆を入れ、稿を成したとされる。南朝の正統性を歴代天皇の系譜に即して論じたこの著作は、後の水戸学や近世国学に深い影響を及ぼすことになるが、その完成の地が落城寸前の城内であったという事実は、書物そのものの性格と切り離せない重みを持つ。
正面攻撃に行き詰まった師冬は、地下からの坑道戦に活路を求めた。北朝方の兵が土塁の下を掘り抜き、櫓を倒壊させる作戦に出たのである。これを察知した城兵もまた地下に対抗坑を掘ったが、伝承によれば師冬側の坑道が落盤を起こしたため、坑道戦は中止された。この坑道の窪みは現在も城跡北端付近に残っており、日本の中世城郭における坑道戦の遺構として極めて貴重な例となっている。
落城は興国4年・康永2年(1343年)11月11日。関宗祐・宗政父子は刀折れ矢尽き、城内で自刃したと伝えられる。親房は混乱に乗じて脱出し、吉野へ落ち延びた。同月、対をなしていた大宝城も陥落し、東国における南朝の組織的抵抗は事実上終焉を迎える。
史跡指定の意義
関城跡が昭和9年に国の史跡に指定された理由は、大きく三点に整理できる。第一に、ここが『神皇正統記』完成の地であり、南北朝期の東国情勢を決定づけた籠城戦の終結地という、文献史と現地が一致する稀有な歴史現場であること。第二に、大宝沼が干拓されて田園に変わったあとも、北側の土塁・空堀、そして全国でも類例の少ない坑道遺構が地形として読み取れる状態で残っていること。第三に、関宗祐父子の墓と伝えられる宝篋印塔二基、慶應3年(1867年)に建立された「関城之碑」など、近世から近代にかけての顕彰の足跡が一体として保存されていることである。
歩いて確かめたい見どころ
城跡は住宅地と農地の中に分散しており、地図を片手に時間をかけて巡るのがよい。最も目に留まりやすいのは北辺を東西に走る大土塁で、樹木に覆われた高まりが往時の規模を伝えている。その東端付近には八幡神社が鎮座しており、社殿の背後には特に保存状態のよい土塁の一部が残る。
坑道跡は関城通り沿いに案内板が立ち、それに従って少し東へ折れた場所にある。地表に残るのは浅い窪みだが、案内図と照らし合わせながら現地に立つと、土塁の外側から内側へ向けて掘り進められた中世の攻城技術が具体的に想像できる。そこから南へ下ると、中央の顕彰区画にたどり着く。宝篋印塔二基、関城之碑、そして関城攻めで戦死した北朝方の武将・結城直朝の墓が並んで置かれており、南北両軍の戦死者を分け隔てなく祀る土地の感覚が偲ばれる。
城の南方にある大将山公園は、落城前夜に親房が皇族とともに最後の宴を開いたと伝わる地である。遺構そのものは小さな広場と標柱に過ぎないが、城跡全体を歩いたあとに立ち寄ると、伝承の重みが体感される場所でもある。なお現地の解説板はすべて日本語であり、外国人来訪者向けの案内は限定的なので、事前の予習があると見学が深まる。
周辺の見どころ
関城跡を訪れるなら、南方およそ二キロにある大宝城跡を併せて巡ることを強く勧めたい。大宝城は関城と同じく昭和9年に国の史跡に指定されており、両城がかつての大宝沼を挟んで連携していたことを地形そのものから読み取ることができる。城域内には常陸国最古級の八幡神社のひとつである大宝八幡宮が鎮座し、それ自体が見応えのある社である。
少し足を延ばせば、JR水戸線下館駅周辺には江戸期の商家建築や、地域史をまとめた市立の博物館がある。筑西市は全国有数の梨の産地としても知られており、八月下旬から十月上旬にかけて、街道沿いの直売所では「幸水」「豊水」などが旬を迎える。
Q&A
- 関城跡へのアクセスは?
- 最寄り駅は関東鉄道常総線の騰波ノ江駅で、徒歩約25分です。同線の黒子駅からは車で約5分、JR水戸線下館駅からは車で約15分の距離にあります。現地に小規模な見学者用駐車場が用意されています。
- 入場料や開園時間はありますか?
- 屋外の史跡で、いつでも自由に見学できます。料金もかかりません。ただし城域の一部は私有地や住宅地と隣接しているため、見学路から外れず、墓所や顕彰碑には敬意をもって接してください。
- 坑道の中には入れますか?
- 入ることはできません。地表に残っているのは浅い窪みで、もとの坑道は籠城戦の最中に落盤したまま再開されませんでした。傍らに立つ案内板に北側土塁との位置関係を示す図が掲示されているので、それを参照しながら現地で確認することになります。
- なぜ南朝方の城跡に北朝方の武将の墓があるのですか?
- 結城直朝は関城攻めの最中に戦死した北朝方の武将です。戦乱が遠い過去となった後世、地元では南北両軍の死者をともに古戦場の犠牲者として祀る感覚が根づき、関氏父子の墓と並べて葬られました。落城日にあたる11月11日には、現在も墓前祭が営まれています。
- 訪れるのに適した季節は?
- 落城の命日である11月11日前後の晩秋は、史跡としての気配が最も濃く感じられる時期です。春には近隣の大宝八幡宮の桜が見頃を迎え、初秋には周辺の梨園が収穫期に入ります。
基本情報
| 名称 | 関城跡(せきじょうあと) |
|---|---|
| 所在地 | 茨城県筑西市関舘字内舘一帯 |
| 指定区分 | 国指定史跡(昭和9年〔1934年〕5月1日指定) |
| 管理 | 筑西市 |
| 時代 | 鎌倉時代初期築城、14世紀半ばに落城(籠城戦1341〜1343年) |
| 主な遺構 | 土塁、空堀、坑道跡、宝篋印塔二基(伝関宗祐父子墓)、関城之碑(慶應3年〔1867年〕建立) |
| アクセス | 関東鉄道常総線・騰波ノ江駅から徒歩約25分/JR水戸線・下館駅から車で約15分 |
| 料金・開園 | 無料、見学自由(屋外史跡) |
| 施設 | 小規模駐車場あり/案内板は日本語のみ |
参考文献
- 関城跡 — 茨城県教育委員会
- https://kyoiku.pref.ibaraki.jp/bunkazai/kuni-95/
- 関城跡 — 文化遺産オンライン(文化庁)
- https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/162221
- 国指定文化財等データベース
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/435
- 関城跡 — 観光いばらき公式ホームページ
- https://www.ibarakiguide.jp/db-kanko/sekizyo-ato.html
最終更新日: 2026.05.21