能登のいしる・いしり ― 日本三大魚醤に名を連ねる発酵調味料の魅力
石川県北部に大きく突き出た能登半島の海辺の集落では、何百年も前から受け継がれてきた発酵の知恵が、今も静かに琥珀色の液体を醸し続けています。それが「いしる」「いしり」と呼ばれる魚醤です。新鮮なイワシやサバ、あるいはイカの内臓を塩とともに桶に漬け込み、素材そのものに眠る酵素の力を借りて1年以上ゆっくりと熟成させる。完成するのは、深いうま味と独特の香りを湛えた一滴です。能登の食卓では、煮物や鍋物、貝焼きなど数えきれない料理の味を底から支える「縁の下の名脇役」として、今も日々の食を彩り続けています。
2023年3月、文化庁は「能登のいしる・いしり製造技術」を国の登録無形民俗文化財に登録しました。これは石川県内で初の登録無形民俗文化財となる快挙です。本記事では、海外からのお客様にも親しんでいただけるよう、いしる・いしりの歴史、製法、味わい、そして能登の風土とのつながりについて、ゆっくりとご案内します。
「いしる」と「いしり」とは
いしる・いしりは、魚介類と塩を主原料として1年以上発酵・熟成させた液状の魚醤油(魚醤)です。地域によって呼び名が異なり、日本海に面した外浦地区(輪島港や蛸島港など)では主にイワシやサバを丸ごと使い、富山湾に面した内浦地区(小木港や宇出津港など)では主にスルメイカの内臓(消化腺)を原料とします。一般的には前者を「いしる」、後者を「いしり」と呼び分ける見解がありますが、両者は地域ごとに混在しており厳密な境界はありません。地方によっては「よしる」「よしり」とも呼ばれます。
「いしる」という名の由来には諸説ありますが、魚を意味する古語「いお」と「汁」が合わさった「いおしる」が転訛したものとされています。秋田の「しょっつる」(ハタハタが原料)、香川の「いかなご醤油」(イカナゴが原料)と並んで、日本三大魚醤の一つに数えられています。さらに2024年3月には、農林水産省の地理的表示(GI)保護制度にも登録され、その独自性が国の制度の上でも二重に守られることとなりました。
海と塩と時間が育んだ伝統
いしるの起源ははっきりとはわかっていませんが、文献や言い伝えからは、江戸時代中期(18世紀後半)にはすでに能登で生産されていたと推測されています。能登沖は暖流と寒流が交わる日本海でも有数の好漁場であり、半島には古くから揚浜式製塩という独自の塩づくりの技術も伝わっていました。豊かな魚介と地元産の塩。この二つの恵みが手の届く範囲にあったからこそ、漁村の人々は売り物にならない内臓や小魚を捨てることなく、長く保存のきく濃厚な調味料へと姿を変える知恵を磨いていったのです。
大豆を主原料とする醤油が広く普及するまでの能登において、いしるは家庭の味の中心でした。山あいの集落では、魚そのものを手に入れにくい代わりに、いしるを米と物々交換していたという記録も残っています。第二次世界大戦中、流通する醤油が不足した時期には、自家製塩の塩を使ったいしるが代用醤油としてふたたび重要な役割を果たしました。生産は戦後一時的に細りましたが、近年は和食ブームや発酵食への注目とともにふたたび脚光を浴び、現在ではおよそ20の事業者によって年間約200トンが生産されています。
いしる・いしりが生まれるまで
いしる・いしりの原料は驚くほどシンプルで、魚介類と塩だけです。しかし、その完成までには気の長い時間と、能登の気候を読み取る職人の感覚が必要となります。仕込みは漁が落ち着く晩秋から初冬にかけて行われます。生のイワシを丸ごと、あるいはイカの内臓を、原料重量のおよそ30%ほどの塩と一緒に大きな桶やタンクに重ねていきます。冬の冷たい空気が腐敗菌の繁殖を抑え、その間に魚自身の酵素がゆっくりとタンパク質を分解し始めます。
春を越え、能登の高温多湿な夏が訪れる頃から、発酵は一気に加速します。桶の底には次第に赤褐色の液体が溜まっていき、最低でも1年、多くは2年以上、上質なものでは3年以上の熟成期間を経て、桶の下部の栓を抜くと、海のうま味が凝縮された一番いしるが滴り落ちます。これを煮沸して殺菌・タンパク質の凝固を行い、ろ過・冷却を経て瓶詰めすれば完成です。能登町の蔵元の中には、よりまろやかな風味を求めてさらに1〜2年寝かせる作り手もいます。
工程そのものは素朴ですが、各蔵元の桶のクセ、置かれた場所の風通し、塩の配合のわずかな違いが、それぞれ個性ある味わいを生み出します。能登半島には作り手の数だけいしるの表情があり、それ自体が地域に根づいた発酵文化の生きた百科事典といえます。
登録無形民俗文化財に選ばれた理由
文化審議会は2023年1月の答申で、能登のいしる・いしり製造技術について「我が国における代表的な魚醤の一つであり、素材自体がもつ自然の発酵力を活かした製造技術には、地域的特色が顕著にみられる」と評価しました。また「長期熟成による伝統的な製造法も維持されており、我が国における発酵調味料の製造技術の変遷や地域差を理解する上で注目される」とも述べています。
この登録は、単に過去を顕彰するだけのものではありません。多くの伝統的食品技術がそうであるように、いしる・いしりもまた、生産者の高齢化や後継者不足、家庭での使用機会の減少といった課題と向き合っています。国による登録は、半島の小さな蔵元が代々守ってきた手仕事に、改めて光を当て、次の世代へとつないでいくための大切な一歩となっています。
能登でいしるを味わう ― 郷土料理の世界
いしるをもっとも能登らしく味わえる料理の一つが「いしるの貝焼き」です。大きなホタテの貝殻を鍋代わりにし、その上でイカや野菜、きのこ、豆腐などをいしるで煮込みながら食べる、漁師町ならではの一品です。立ち上る湯気とともに、海の香りがそのまま食卓に運ばれてくるかのような体験は、能登半島の宿や郷土料理店で味わうことができます。
もう一つの定番は「べん漬け」や「いしり漬け」と呼ばれる漬物です。水で薄めたいしるに大根やきゅうりを漬け込むだけで、ふつうの醤油漬けでは決して出せない深いコクが生まれます。刺身のつけ醤油、魚介の煮付け、いしり鍋、焼き物の隠し味と、能登の家庭ではあらゆる場面でいしるが登場します。最近ではフレンチやイタリアンのシェフが隠し味として用いる例も増えており、パスタやリゾット、ドレッシングと合わせた創作料理も人気を集めています。グリシンやグルタミン酸といった遊離アミノ酸を豊富に含むため、和食・洋食を問わず素材の旨味を引き出す万能調味料として活躍します。
能登を訪れる ― 周辺情報
いしる・いしりを訪ねる旅の拠点となるのは、輪島市と能登町です。輪島市は世界的に有名な輪島塗と朝市の町として知られていますが、イワシを原料とするいしるの主要な生産地でもあります。能登町は富山湾側に位置し、小木港は日本海側最大級のスルメイカの水揚げを誇る港町で、イカの内臓を使ったいしりの本場として知られています。
多くの蔵元では、小規模ながら直売所を併設し、訪れた方が異なる熟成年数のいしるを試飲・購入できるようになっています。地域のレストランや旅館、道の駅でも、いしるを活かしたメニューが用意されており、その奥深い味わいを存分に堪能できます。なお、能登半島は2024年1月の能登半島地震により大きな影響を受けており、現在も復興が進められています。ご訪問を計画される際は、現地の観光案内所や各蔵元の最新情報をご確認のうえ、営業されている店舗や生産者を訪ねることで、復興を応援するご旅行ができれば幸いです。
いしるの周辺には、能登ならではの文化資源が豊富に広がっています。海を見下ろす千枚田、珠洲海岸で今も塩を焚き続ける揚浜式塩田、輪島朝市、漁村に息づく多彩な祭礼など、いずれも能登の風土を肌で感じられる場所ばかりです。能登半島全体は「能登の里山里海」として国連食糧農業機関の世界農業遺産にも認定されており、人と海と山が長い時間をかけて築き上げてきた調和の景観を、随所で目にすることができます。
Q&A
- 「いしる」と「いしり」は何が違うのですか。
- 基本的にはほぼ同じものを指す呼び名で、地域によって使い分けられています。一般的な目安としては、日本海に面した外浦地区でイワシやサバを丸ごと使ったものを「いしる」、富山湾に面した内浦地区でイカの内臓を使ったものを「いしり」と呼ぶことが多いですが、厳密な区別はなく、両者とも塩漬けして1年以上発酵・熟成させるという基本工程は共通しています。
- どのような味で、香りは強いのでしょうか。
- 普通の醤油より塩分濃度が高く、海産物由来のうま味と独特の発酵香を持っています。タイのナンプラーやベトナムのニョクマムと比べる方もいますが、いしるはそれらより丸みのある深い風味と評されます。少量で大きく味が変わるため、漬けだれとして大量に使うのではなく、隠し味や仕上げの一滴として使うのが一般的です。
- いしるを作る蔵元を見学することはできますか。
- 輪島市や能登町には、見学や試飲、購入を受け付けている小規模な蔵元がいくつかあります。直売所を併設している蔵元も多く、熟成年数の異なるいしるを飲み比べることもできます。事前予約が必要な場合もありますので、各蔵元の公式サイトや地域の観光案内所で最新情報をご確認ください。とくに2024年の能登半島地震の影響により営業状況が変化している場合があるため、訪問前のご確認をお勧めします。
- 家庭ではどのように使えばよいですか。
- 煮物、鍋物、炒め物の隠し味として数滴加えると、料理にぐっと深みが出ます。シーフードパスタやリゾット、ドレッシングにも好相性で、東南アジア料理のナンプラーやニョクマムの代わりとしても使えます。独特の香りが気になる場合は、レモンやトマトなど酸味のある食材と合わせると和らぎます。塩分が強いので、量は控えめに少しずつ加えていくのがコツです。
- 保存はどのようにすればよいですか。
- 塩分が高いため比較的長持ちする調味料です。未開封のものは直射日光と高温多湿を避ければ常温で1年以上保存できることが多く、開封後は冷蔵庫で保管し、風味を楽しむためになるべく数か月以内に使い切ることをお勧めします。瓶のラベルに記載された各蔵元の指示に従うのが確実です。
基本情報
| 名称 | 能登のいしる・いしり製造技術(のとのいしる・いしりせいぞうぎじゅつ) |
|---|---|
| 指定区分 | 登録無形民俗文化財(文化庁) |
| 登録年月日 | 2023年(令和5年)3月22日 ― 石川県内初の登録無形民俗文化財 |
| 所在地域 | 石川県能登地方(輪島市・珠洲市・能登町などが中心) |
| 主な原材料 | 外浦地区:イワシ、サバ/内浦地区:スルメイカの内臓/いずれも塩を加える |
| 熟成期間 | 1年以上(蔵元によっては2〜3年以上熟成) |
| その他の認定 | 2024年3月、農林水産省の地理的表示(GI)保護制度に登録/日本三大魚醤の一つ |
| 訪問の留意点 | 蔵元や直売所は輪島市・能登町に多く点在。2024年の能登半島地震の影響により営業状況が変化している場合があるため、ご訪問前に各蔵元・地域の観光案内所で最新情報をご確認ください。 |
参考文献
- 能登のいしる・いしり製造技術 ― 文化遺産オンライン(文化庁)
- https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/559865
- 「能登のいしる・いしり製造技術」が国の登録無形民俗文化財に登録されました ― 輪島市
- https://www.city.wajima.ishikawa.jp/article/2023011600012/
- 魚醤「いしる」「いしり」が国の登録無形民俗文化財に ― 能登町ホームページ
- https://www.town.noto.lg.jp/kakuka/1012/gyomu/14/1/1577.html
- いしり / いしる ― 地理的表示産品情報発信サイト
- https://pd.jgic.jp/register/entry/146.html
- いしり、いしる ― にっぽん伝統食図鑑(農林水産省)
- https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/traditional-foods/menu/isiri_isiru.html
- いしる(いしり) ― 能登の里山里海デジタルアーカイブ
- http://noto-satoyamasatoumi.jp/detail.php?tp_no=275
- いしり ― 能登町ホームページ
- https://www.town.noto.lg.jp/kakuka/1009/gyomu/5/2/1819.html
最終更新日: 2026.05.11