本州ただ一か所、アカエゾマツが自生する場所

北海道や樺太(サハリン)南部、南千島の択捉・国後・色丹といった寒冷地に分布するアカエゾマツ(Picea glehnii)は、長らく本州には自生しないと考えられてきた。それが1960年(昭和35年)、岩手県の早池峰山(標高1,917m)北斜面の急峻な岩石地に小規模な集団が確認される。北海道渡島半島の南端から直線距離でおよそ250キロ離れた、津軽海峡を隔てた完全な飛び地としての発見だった。

1975年(昭和50年)2月18日、この自生地は「早池峰山のアカエゾマツ自生南限地」として国の天然記念物に指定された。指定基準は「(十)著しい植物分布の限界地」。指定範囲は早池峰山北斜面、アイオン沢源頭の岩石地である。本州唯一にして、種の分布の最南端という二重の意味を持つ自生地である。

氷期の名残としての存在

アカエゾマツは寒冷で痩せた立地を好む樹種で、蛇紋岩地、火山礫地、湿原、海岸砂丘など、エゾマツやトドマツの侵入が困難な場所で純林に近い群落を形成することがある。早池峰山は山体全域が超塩基性のかんらん岩・蛇紋岩で構成されており、樹木にとっては養分の乏しい厳しい立地条件が広がっている。アカエゾマツ自生地はこの蛇紋岩斜面の標高980〜1,180メートル、東西約200メートル・南北約600メートルの範囲に限られている。

森林総合研究所などの研究によれば、約2万年前の最終氷期最寒冷期、東北地方ではアカエゾマツが最も繁栄した針葉樹のひとつだった。気候の温暖化に伴って暖温帯系の広葉樹が北上し、アカエゾマツは大半の地域で姿を消したが、早池峰山では北向きの冷涼な立地と蛇紋岩の不安定な岩礫地という条件が他樹種の進入を阻み、氷期の遺存集団がそのまま生き延びたと考えられている。

つまりこの自生地は単なる植物分布の南限ではなく、氷期から間氷期へという地球規模の気候変動を生き抜いた、東北の森林史の生き証人にあたる。

1948年アイオン台風と現在の林分

「アイオン沢」という地名そのものに歴史がある。1948年(昭和23年)9月のアイオン台風は東北地方に甚大な被害をもたらしたが、早池峰山北斜面でもこの豪雨によって大規模な土石流が発生した。流れは斜面の途中で二手に分かれ下流で合流したため、その間にあった森林帯が細長い中州状に取り残された。アカエゾマツの主要群落はこの中州状の残存林の中で発見されたものである。

1960年の調査では、中州地で確認された胸高直径5cm以上のアカエゾマツは96本だった。土石流で剥き出しになった両側の流路には当初ほとんど樹木がなかったが、岩礫地という更新に適した条件を得て、その後アカエゾマツの稚樹が定着していった。2001年の調査では、中州地で5cm以上が143本、土石流跡地では小径木の若い世代が多数確認され、最大個体は直径20cmに達していた。

2007年に胸高以下の個体まで含めた全数調査が実施され、確認された個体数は約3,500本。繁殖に関わる胸高直径20cm以上の成木はおよそ60本と推定されている。皮肉なことに、土石流という大規模な攪乱がアカエゾマツの世代更新の機会を生み、結果として集団の存続を支えてきたという経緯がある。

アカエゾマツという樹

アカエゾマツの和名の「赤」は、若枝に密生する赤褐色の毛と、成木に現れる赤褐色から黒赤褐色の樹皮の色に由来する。葉の長さは5〜12ミリほどで、横断面は菱形をしており、4面すべてに気孔帯が走る。葉が長く、横断面が扁平なエゾマツとは、葉の形状でも明確に区別できる。

北海道では樹高30〜40メートルに達する大木に育つが、養分の乏しい立地では小型化し、自然と整った円錐形の樹形になる。早池峰山の個体群は土石流跡地のものでも直径20センチ程度が最大級で、ゆっくりとした成長を続けている。なお現在アカエゾマツ材は資源量が限られており、ピアノやバイオリンなど弦楽器の響板材といった高付加価値の用途に使われることが多い。

訪れる際に

はっきり書いておきたいのは、指定地そのものは一般に立ち入れる場所ではないということである。アイオン沢源頭は登山道から外れた北斜面の急峻な蛇紋岩礫地にあり、保護のため近づくこと自体が想定されていない。樹木の姿を目にしたいという気持ちは自然なものだが、現地の状況と保全の方針を考えると、自生地に分け入ることは選択肢に入らない。

そのうえで、早池峰山そのものは登る価値が十分にある山である。主要ルートは山頂南側の小田越コースで、毎年6月第二日曜日が山開き。6月下旬から7月にかけて、ハヤチネウスユキソウ、ナンブトラノオ、ナンブトウウチソウなど蛇紋岩地特有の高山植物が次々と咲く。早池峰山の高山帯と隣接する薬師岳の森林植物群落は、合わせて国の特別天然記念物に指定されている。

北側の門馬コースは握沢登山口から入る比較的マイナーなルートで、針葉樹の樹林帯を長く歩く静かな山行になる。アカエゾマツ自生地の雰囲気に近い植生を遠望できる可能性はあるが、登山道は自生地そのものには入らない。なお夏季シーズン中は南側登山口へのマイカー乗り入れが規制され、新花巻駅などからの環境保全バスでの入山となる。山頂周辺は携帯トイレ専用なので、忘れずに持参したい。

周辺の見どころ

早池峰山は宮古市・遠野市・花巻市の境界に位置しており、それぞれの方角に異なる魅力がある。南麓の遠野市は柳田國男『遠野物語』(明治43年刊)の舞台で、伝承園や遠野市立博物館、河童渕など、近代以前の北東北の精神世界を辿る素材に事欠かない。西麓の花巻市は宮沢賢治の生地で、宮沢賢治記念館やイーハトーブ世界を体感できる施設群が点在する。

北東に位置する宮古市は、2010年(平成22年)に旧川井村を編入合併したことで、結果的にアカエゾマツ自生地を市域に擁することになった。市の中心部は太平洋に面しており、浄土ヶ浜の白い岩礁や北山崎の海食崖など、三陸復興国立公園の代表的な海岸景勝地が広がる。氷期遺存の高山針葉樹林とリアス海岸を一日のうちに辿れる地域は、日本でも限られている。

Q&A

Q指定地のアカエゾマツを直接見ることはできますか。
A直接の観察はできません。アイオン沢源頭は登山道のない北斜面にあり、保全のため立ち入りが想定されていない区域です。アカエゾマツの自生する姿を見たい場合は、北海道の釧路湿原や阿寒摩周地域など、本種が広く分布する地域を訪れるのが現実的です。
Qなぜ葉が緑なのに「アカ(赤)」エゾマツと呼ぶのですか。
A和名の由来は葉ではなく、若枝に密生する赤褐色の毛と、成木の赤褐色から黒赤褐色の樹皮です。同属のエゾマツとはこの色味の違いに加え、葉の長さや横断面の形状でも区別できます。
Q早池峰のアカエゾマツはいつ発見されたのですか。
A1960年(昭和35年)に存在が確認されました。それ以前は、日本国内のアカエゾマツは北海道と南千島にのみ分布すると考えられていました。本州の山中に隔離的に残存していたことは大きな発見でした。
Qこの自生地は存続が危ぶまれているのですか。
A当面は安定しています。2007年調査での全個体数は約3,500本で、1948年アイオン台風の土石流跡地に若い世代が育っています。ただし小集団であるため遺伝的多様性の低下が懸念されており、長期的にはコメツガやヒバなど他樹種への遷移が進む可能性があると指摘されています。
Q早池峰山の登山シーズンはいつですか。
A山開きは毎年6月の第二日曜日。高山植物の見頃は6月下旬から7月いっぱいです。週末は混雑するため平日の入山が比較的快適です。夏季は南側登山口への車両乗り入れが規制されますのでご注意ください。

基本情報

名称早池峰山のアカエゾマツ自生南限地(はやちねさんのあかえぞまつじせいなんげんち)
樹種アカエゾマツ Picea glehnii (Fr. Schm.) Mast.(マツ科トウヒ属)
指定国の天然記念物 / 昭和50年(1975年)2月18日指定 / 指定基準(十)著しい植物分布の限界地
所在地岩手県宮古市(旧下閉伊郡川井村) 早池峰山北斜面アイオン沢源頭
範囲東西約200メートル×南北約600メートル、標高980〜1,180メートル
個体数約3,500本(2007年調査)。胸高直径20cm以上の繁殖可能個体は約60本
基盤地質蛇紋岩(早池峰複合岩類、約4億7,000〜4億6,000万年前)
指定地への立ち入り登山道のない保全区域のため、一般の立ち入りは行われていません
早池峰山の主要登山口小田越・河原の坊(南側、主要ルート) / 握沢(北側、門馬コース)
山開き毎年6月第二日曜日

References

早池峰山のアカエゾマツ自生南限地 — 国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/162
早池峰山のアカエゾマツ自生南限地 — 文化遺産オンライン
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/204663
早池峰のアカエゾマツ隔離小集団 — 森林総合研究所
https://www.ffpri.go.jp/labs/raretree/2_PGindex.html
早池峰山周辺森林生態系保護地域 — 林野庁東北森林管理局
https://www.rinya.maff.go.jp/tohoku/policy/business/management/hozen/hogorin_01_3.html
早池峰山 — 宮古市
https://www.city.miyako.iwate.jp/gyosei/soshiki/kanko/4/8/2/4/2093.html
早池峰山への登山に関する情報 — 岩手県
https://www.pref.iwate.jp/kennan/hoken/1065388/1065389/1013504.html

最終更新日: 2026.05.18