興正寺鐘楼 ― 明治35年の大火を免れた境内最古の建物
興正寺境内の南東の隅、低い基壇の上に、北を向いた小さな鐘楼が建つ。この真宗興正派本山で参拝者が目にするものの大半は、堂舎を焼いた明治35年(1902)の火災のあとに建てられた。鐘楼はその例外である。安永3年(1774)の建立で、大火を無傷でくぐり抜けた。境内で現存する最古の建物であり、災禍以前の姿へとつながる唯一の手がかりである。
この鐘楼には由緒がある。安永3年(1774)、皇太后恭礼門院が先帝桃園天皇の忌に際し、梵鐘とともに寄進したと伝わる。建物は桁行3間・梁間2間、本瓦葺の入母屋造で、張り出した腰組の下に四周へ傾斜する袴腰をめぐらす。
なぜ登録されたのか
令和7年(2025)8月に興正寺の建造物が国の登録有形文化財となった際、鐘楼は登録番号26-0695で登録され、「造形の規範となっているもの」として評価された。
この建物の面白さは折衷の手法にある。組物は三手先で、隅のみ四手先とし、軒は禅宗様の二軒扇垂木を用いる。一方、組物のあいだの中備には、蟇股や蓑束といった和様の古い形式が入る。二つの様式を意図して混ぜるこの手法は18世紀の寺院建築らしいもので、しかもそれが、いま隣り合う諸堂よりも一世紀以上さかのぼる建物のなかに残っている。大火を免れた唯一の18世紀の要素として、鐘楼は再建以前の寺の姿を示す資料でもある。
訪れたら見たいところ
鐘楼は下半分に目を向けると見どころが増える。張り出した腰組の下に置かれた傾斜する板張りの袴腰は、この小さな建物に根を張ったような安定した構えを与え、砂利を隔てて遠目にもはっきり読み取れる。軒を見上げれば扇垂木があり、視線を下げれば組物のあいだに古い形式の束が並んでいる。
近くの大堂と見比べれば、登録の意味がよく分かる。これは生き残りであり、20世紀初頭の再建群のなかに立つ江戸時代の寺の一片である。鐘楼は境内南東にあり、日中は境内から眺められる。直径およそ1メートルの梵鐘が、いまも内部に吊られている。
よくある質問
- 鐘楼はどのくらい古いのですか。
- 安永3年(1774)の建立で、興正寺境内で現存する最古の建物です。
- なぜこれだけが焼け残ったのですか。
- 明治35年(1902)の火災で興正寺の大半が失われましたが、鐘楼と経蔵は焼失を免れました。そのため鐘楼は、災禍以前の寺へとつながる主要な手がかりとなっています。
- 誰が寄進したのですか。
- 安永3年(1774)、皇太后恭礼門院が先帝桃園天皇の忌に際し、梵鐘とともに寄進したと伝わります。
- 「折衷様式」とは何ですか。
- 組物や扇垂木が禅宗様であるのに対し、組物のあいだの束などに和様の古い形式を残す、18世紀の寺院建築らしい混交のことです。
- どのように保護されていますか。
- 令和7年(2025)8月に国の登録有形文化財となりました(登録番号26-0695)。
基本情報
| 名称 | 興正寺鐘楼(こうしょうじしょうろう) |
|---|---|
| 所在地 | 京都府京都市下京区醒ケ井通北小路下る花園町69他 |
| 指定区分・登録 | 登録有形文化財(建造物)/令和7年(2025)8月6日登録 |
| 登録番号 | 26-0695(第110回) |
| 年代 | 安永3年(1774) |
| 構造 | 木造平屋建、瓦葺、建築面積約16㎡、桁行3間梁間2間、袴腰付 |
| 所有者 | 宗教法人興正寺 |
| アクセス | 境内南東隅/京都駅から徒歩圏 |
参考文献
- 文化庁 国指定文化財等データベース:興正寺鐘楼
- https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/101/00015480
- 本山興正寺 公式サイト:建造物
- https://www.koshoji.or.jp/about_2.html
- 真宗興正派 寺院紹介
- https://www.shin.gr.jp/member/kosho.html
- 本山興正寺 公式サイト:沿革
- https://www.koshoji.or.jp/about.html
最終更新日: 2026.07.06