泉涌寺無縫塔(その二)― 御寺の静域に立つ対の石塔
泉涌寺は「御寺(みてら)」と呼ばれる。京都・東山の山裾にあるこの寺の境内に、歴代の天皇が葬られてきたからである。その景観の静かな一隅、開山堂の北に、中世の石塔が二基並んで立つ。本稿が扱うのは、指定で棟名(二)と記される、対のうちの一基である。
いずれも無縫塔である。継ぎ目のない塔という名は、その形をよく言い表す。滑らかな卵形の石の塔身を台石にのせ、通常の塔がもつ重なる屋根や軒をもたない。この形式は禅とともに日本に入り、高僧の墓標として一般的なものとなった。泉涌寺では、無縫塔の輪郭は近くの御陵にも現れ、皇妃の墓には無縫の石塔が用いられた。この形は境内全体を静かに貫いている。
文化庁は二基の年代を、室町時代初期を下らない、1333年から1392年の間に置く。塔は、鎌倉時代に寺を宋風に再興し月輪大師と仰がれる俊芿の墓所をまつる堂のかたわらに立つ。俊芿自身の墓は堂の内にあり、この二基の石はその外に立っている。
指定の理由と価値
昭和30年(1955年)2月2日、二基の石塔は、対をまとめる一つの指定のもとに、そろって重要文化財となった。価値は対であることにある。ほぼ同形の中世石塔二基が、開山堂の北に、その場のまま保たれている。こうした一群の意味は、部分どうしの関係のうちに半ば宿るため、二基は一基ずつよりも多くを語る。
二基は形が近いが、同一ではない。解説は南の塔を装飾に富むものとして挙げており、そのわずかな違いこそ、対で残ることが保つ種類の手がかりである。並んで見れば、簡素な石とより飾られた石が互いを引き立て、一方を他方と比べて測ることができる。
立つ場所もまた意味をもつ。開山の区域の内、御陵と同じ静かな地に立つこの塔は、泉涌寺を宮廷の寺とした長い歴史に属する。天皇たちによって形づくられた景観のなかの、ささやかな石である。指定は、石とともにその環境をそのまま保っている。
見どころ
まず継ぎ目のない塔身に目をとめたい。層塔が継ぎ目のはっきりした石を積み上げて造られるのに対し、無縫塔はひと続きの曲線を見せる。その違いを念頭に置くと、目の前の二基の石の見え方が変わる。次に装飾を見て、対のどちらが深い彫りをもつかを見分ける。二基の対比が、ここまで歩いてきたことへの報いになる。
ここは泉涌寺の奥、月輪陵に近い静かな縁で、大門や仏殿のまわりの賑わいからは遠く離れている。御陵は皇室の場として管理されているため、開山の区域は厳かな地として扱いたい。参道を外れず、寺の案内に従い、その静けさを保ちたい。
無理のない参拝は、大門・仏殿・楊貴妃観音堂を中心に据え、無縫塔はそのあとに訪ねるものと位置づける。開山が眠り、皇室の御陵が始まる、境内の古い層に惹かれる旅行者のための場所である。
Q&A
- 無縫塔は普通の塔とどう違うのですか。
- 普通の塔は屋根と継ぎ目をもつ層を積み上げます。無縫塔は台石の上に、継ぎ目のない滑らかな卵形の塔身をのせ、そうした層をもちません。禅とともに伝わり、多くは高僧の墓標です。
- この一基は開山の墓ですか。
- いいえ。俊芿自身の墓は開山堂の内にまつられています。この一基を含む対の二基は、堂の外、その北に立っています。
- なぜ二基まとめて指定されたのですか。
- 開山堂の北に、もとの場のまま残る中世の対だからです。一つの指定が両方を覆い、その価値は二基の関係のうちにも半ば宿ります。
- 場所は正確にはどこですか。
- 開山堂の北、月輪陵に近い境内の静かな一角です。慎みをもって近づき、寺の案内に従ってください。多くの参拝は大門と仏殿を中心とします。
基本情報
| 名称 | 泉涌寺無縫塔(棟名〈二〉、対の一基) |
|---|---|
| 所在地 | 京都府京都市東山区泉涌寺山内町 |
| 所有者 | 泉涌寺 |
| 指定区分 | 重要文化財(昭和30年〈1955年〉2月2日指定) |
| 員数 | 1基(対で2基) |
| 年代 | 室町時代初期を下らない(1333年〜1392年) |
| 構造及び形式 | 石造無縫塔 |
| 公開 | 開山堂の北、月輪陵に近い静かな一角。主要な堂宇からは離れる |
References
- 国指定文化財等データベース — 泉涌寺無縫塔(棟名二)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/102/1803
- 御寺 泉涌寺 公式サイト — 泉涌寺と皇室
- https://mitera.org/about/story
- ウィキペディア — 泉涌寺
- https://ja.wikipedia.org/wiki/泉涌寺
最終更新日: 2026.07.03