墓塔を覆うための堂
泉福寺開山堂は、大分県国東市国東町横手の曹洞宗寺院・泉福寺にある堂で、寛永13年(1636年)の再建にあたり、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。
この建物の役割は、名前が示す以上に直接的である。堂の奥、仏壇の下に据えられているのは石造の無縫塔で、開山無著妙融禅師(1333〜1393)の墓塔にあたる。堂は、その石塔を覆うために建てられた覆堂なのだ。開山無著和尚墓塔1基は附(つけたり)として建物とともに指定されており、堂の寸法も構えも、中心にある石塔から決まっている。
無著妙融は永和元年(1375年)、大友氏一族の田原氏能に招かれて入山した。氏能は母・無伝仁公の発願に応えたと伝わる。禅師は明徳4年(1393年)に示寂し、その翌年の応永元年(1394年)に墓上へ堂が建てられた。しかしこの堂はのちに大破する。現在の建物は寛永13年に、古材を用いながら規模を縮めて建て直されたものである。つまり目の前の木部には、二つの時代の材が混在している。
この堂は寺の最大の危機も生き延びた。天正9年(1581年)、キリスト教に改宗した大友義鎮(宗麟)の兵火によって泉福寺は講堂以下の多くを焼失したが、開山堂と仏殿は焼け残った。慶長10年(1605年)、当時中津藩主だった細川忠興の寄進で伽藍が再興され、江戸時代を通じて九州曹洞宗の総本山として栄えることになる。
四メートルの本格禅宗様
正面三間の幅は4.01メートル。背後の差掛を含めた奥行でも4.87メートルにとどまる。住宅の一室ほどの規模でありながら、細部はどこも省略されていない。
屋根は切妻造、妻入、こけら葺。円柱は木造の礎盤の上に立ち、上下に粽をつける。柱頭を頭貫と台輪で固め、その上に出組の斗栱を詰組で並べる。軒は繁垂木の二軒。妻面には大瓶束と二重虹梁を組み、妻壁も側壁も板壁とする。正面中央間は桟唐戸の外開き、内部は板床張り。禅宗様の語彙が、縮尺だけを変えてそのまま置かれている。
見上げるときに探したいのが軒である。垂木は一本ずつひねりを加えて取り付けられ、その集積が軒反りをつくり出している。反りを得るための手間としては極端に迂遠なやり方で、大陸由来の禅宗様の作法を身につけた工匠でなければ選ばない手順といってよい。
寛永13年という年代は推定ではない。昭和35年(1960年)の解体修理の際、部材から寛永の墨書銘が発見され、寺伝の年代が裏づけられた。附指定の墓塔も、基礎・竿・中台などを八角に造る手の込んだ無縫塔である。
指定日については資料間に食い違いがある。文化庁のデータベースは昭和8年(1933年)1月23日とし、国東市の文化財一覧は昭和25年(1950年)8月29日と記す。後者は文化財保護法の施行日で、旧国宝保存法のもとで指定されていた物件が同法によって重要文化財に引き継がれた日にあたる。指定番号00911という若い番号も、大永4年建立の仏殿(02405)より約70年早く国の台帳に載っていた事実を示している。
覆屋の中の堂、その前に立つ昭堂
訪ねる前に知っておきたいことがある。開山堂は現在、鉄筋コンクリートの覆屋に納められて保護されている。木立を背に小さなこけら葺の屋根が建つ写真を想像して行くと、現地の光景とは印象が異なる。ただし、四メートル四方の木造建築がこの年数を持ちこたえた理由もそこにある。覆屋の屋根瓦は、平成の大修理の一環で全面葺き替えが行われた。同じ時期に仏殿の全解体修理と昭堂の解体復元も進められている。
その昭堂が、次に目を向けるべき建物である。明応6年(1497年)の建立とされる国東市指定有形文化財で、開山堂の手前に立ち、背面が開山堂に接続する。開山堂を礼拝するための堂として建てられたものだ。入母屋・妻入で背面は切妻、大虹梁の上に火打窓を設け、内部に観音像を安置する。現状は板床を張り、正面脇間に連子窓、中央間に引戸4枚を入れるが、当初は内部が土間で、正面の柱間装置は背面側に取り付いていた。
開山の姿を伝える彫刻も残る。木造無著妙融坐像は平成26年(2014年)に大分県指定有形文化財となった。桧材の寄木造で玉眼を嵌入した彩色像、像高101.6センチメートル、坐高64.8センチメートル。造立は14世紀末から15世紀初頭とみられ、最初の開山堂が建った時期に近い。痩身に頬骨が高く、視線は遠くへ向く。現在の彩色は江戸時代の後補で、黒漆を塗り重ねている。県指定の『正法眼蔵抄』31冊も、古くから開山堂に安置され堂外不出とされてきたと伝えられる。
実際に訪ねる際の情報を整理しておく。定額の拝観料は設けられておらず、参拝の心付けを納めるのが慣例。住職一人の寺のため法要などで不在のことがあり、事前連絡をしておくと確実だ(0978-72-2035、観光案内では090-2514-6864)。駐車場は約20台分、大型バスの駐車も可能。大分空港が同じ国東市内にあって車で約25分だが、この一帯はバス便が限られるため、車かタクシーが現実的である。坐禅(30分程度)と写経(1時間程度)は要予約で各1,000円。撮影の可否は公表されていないので、堂の周辺で撮る前に確認したい。泉福寺は宇佐神宮六郷満山霊場の第23番札所でもある。霊場のほとんどが天台宗のなかで、曹洞宗の禅刹が一つ混じっている。その手触りの違いを確かめに立ち寄る価値がある。
Q&A
- 泉福寺開山堂とはどのような建物ですか。
- 永和元年(1375年)に泉福寺を開いた無著妙融禅師の墓を覆うために建てられた堂です。堂の奥、仏壇の下に禅僧の墓標である石造無縫塔が納められており、この墓塔も附として建物とともに重要文化財に指定されています。
- 泉福寺開山堂は拝観できますか。拝観料は必要ですか。
- 境内は参拝でき、定額の拝観料はありません(心付けが慣例)。ただし開山堂は鉄筋コンクリートの覆屋に納められて保護されているため、外観の見え方は限られます。住職が不在のこともあるので、事前に連絡しておくと安心です。
- 泉福寺開山堂はいつ建てられたのですか。
- 現在の堂は寛永13年(1636年)の再建です。最初の開山堂は応永元年(1394年)に建てられましたが大破し、古材を用いて規模を縮めて建て直されました。昭和35年(1960年)の解体修理で寛永の墨書銘が見つかり、年代が確認されています。
- 泉福寺開山堂の指定年月日が資料によって違うのはなぜですか。
- 文化庁のデータベースは昭和8年(1933年)1月23日、国東市の一覧は昭和25年(1950年)8月29日を挙げています。後者は文化財保護法の施行日で、それ以前の制度で指定されていた物件が同法のもとで重要文化財に引き継がれた日にあたります。
- 泉福寺開山堂とあわせて見ておきたいものはありますか。
- 同じ中軸線の一段下に、大永4年(1524年)建立で重要文化財の仏殿が建ちます。慶長10年(1605年)に細川忠興が建てた県指定の山門、開山堂に接続する明応6年(1497年)の昭堂、県指定の木造無著妙融坐像も見どころです。
基本情報
| 名称 | 泉福寺開山堂 附 開山無著和尚墓塔1基 |
|---|---|
| 所在地 | 大分県国東市国東町横手(泉福寺境内) |
| 指定区分 | 重要文化財(建造物)/指定番号 00911 |
| 指定年 | 昭和8年(1933年)1月23日(国東市の一覧は昭和25年8月29日と記載) |
| 員数 | 1棟(附 墓塔1基) |
| 寸法 | 正面三間4.01メートル、背後の差掛を含めた奥行4.87メートル |
| 構造・形式 | 桁行三間、梁間三間、一重、切妻造、妻入、背面庇付、こけら葺 |
| 所有者 | 泉福寺 |
| 公開状況 | 境内は参拝可。堂は鉄筋コンクリートの覆屋内。定額の拝観料なし(心付け)。事前連絡推奨 |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)/泉福寺開山堂
- https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/102/3606
- 文化遺産オンライン/泉福寺開山堂
- https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/191443
- 国東市/横手地区(泉福寺)の文化財
- https://www.city.kunisaki.oita.jp/soshiki/bunkazai/bunkazaiyokot-senpukuji.html
- 国東市観光情報/泉福寺
- https://www.city.kunisaki.oita.jp/site/kanko/senpukuji.html
- 大分県地方自治研究センター/泉福寺の保存修理に関する報告
- https://www.jichiro.gr.jp/jichiken_kako/report/rep_aichi33/08/0815_jre/index.htm
- 国指定文化財等データベース(文化庁)/泉福寺仏殿(同一境内の指定建造物)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/102/3716
最終更新日: 2026.08.20