塩田津:有明海の潮が運んだ繁栄の記憶

佐賀県嬉野市の南西部、多良岳山系のふもとに広がる塩田津(しおたつ)は、有明海の大きな干満差を利用した川港と長崎街道の宿場町という二つの顔を持つ、稀有な歴史的町並みです。2005年(平成17年)12月に「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、12.8ヘクタールの区域内には、白漆喰の居蔵造り町家が立ち並ぶ重厚な景観が今も大切に守られています。

かつて天草陶石や米、焼き物を積んだ船が行き交い、長崎街道を旅する人々で賑わったこの町は、現在では静かな時の流れの中で江戸時代の豪商文化の面影を色濃く残しています。観光地化されすぎていない素朴な雰囲気の中で、本物の歴史に触れることができる貴重な場所です。

潮の満ち引きが生んだ川港

塩田津の歴史は、有明海の驚異的な干満差とともにあります。有明海は日本一潮の干満差が大きい海として知られ、その潮位の変動は塩田川を遡って河口から約7キロメートル上流のこの地にまで達しました。潮が満ちれば荷を積んだ船が川を遡り、潮が引けば船は海へと下る——この自然の力を利用した水運が、塩田津の繁栄を支えました。

「塩田津」の名前は、潮水(しお)が遡る港(つ)という意味を持ちます。その起源は平安時代にまで遡るとされ、京都仁和寺の末寺として常在寺が開創されたことに始まるとも伝えられています。『肥前国風土記』には古代からこの地域に宿駅が置かれていたことが記されており、古くから交通の要衝であったことがわかります。

江戸時代になると、塩田津は蓮池藩(佐賀藩の支藩)の西目の中心地として大きく発展しました。特に重要な交易品は、肥前窯業地帯の磁器生産に欠かせない天草陶石でした。熊本県の天草諸島から船で運ばれてきた陶石は塩田津で荷揚げされ、川沿いに並ぶ水車で細かく砕かれて陶土となり、陸路で有田や伊万里、波佐見の窯元へと運ばれました。帰りの船には完成した焼き物や米が積まれ、福岡の大川を経由して大阪をはじめとする各地の市場へ出荷されていったのです。

長崎街道の宿場町

塩田津のもう一つの顔は、長崎街道の宿場町としての姿です。長崎街道は、鎖国時代に日本で唯一の西洋との窓口であった長崎と北九州の小倉を結ぶ幹線道路であり、参勤交代の大名行列やオランダ商館の使節団、中国の商人たちがこの道を行き来しました。

1691年(元禄4年)、オランダ商館付きの医師として江戸参府に同行したドイツ人の博物学者エンゲルベルト・ケンペルは、著書『日本誌』(江戸参府紀行)の中で塩田の印象を「煙の街」と記しています。これは町中に点在する窯元から立ち上る薪の煙を見ての表現で、当時の窯業の盛んさを伝える貴重な記録です。

この川港と街道宿場という二つの性格が重なり合う点が、塩田津が日本の伝統的建造物群保存地区の中でも特にユニークな存在である理由です。港町だけ、あるいは宿場町だけの保存地区は他にも存在しますが、その両方が一つの町並みに凝縮されている例は極めて珍しいのです。

重要伝統的建造物群保存地区に選定された理由

2005年12月27日、塩田津は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。その選定にあたっては、いくつかの重要な要素が評価されています。

第一に、居蔵造り(いぐらづくり)と呼ばれる独特の建築様式が優れた状態で残されていることです。寛政元年(1789年)の大火と文政11年(1828年)の大風をきっかけに普及したこの建築様式は、外壁を厚い漆喰で塗り固めることで耐火性・耐風性を高めたもので、白い壁面が連なる町並みは独特の美しさを醸し出しています。この居蔵造りは佐賀県のこの地域特有の建築様式であり、他の地域ではほとんど見ることができません。

第二に、川沿いの景観が歴史的な姿を留めていることです。高く積まれた石垣、川へ降りる石段、洗い場など、川港として機能していた時代の痕跡が残され、塩田津特有の景観を作り出しています。

第三に、塩田石工(しおたいしく)が手がけた石造物が町並みの各所に見られることです。仁王像や恵比寿像などの石彫は、単なる宗教的造形物にとどまらず、町並み全体に独特の芸術的な彩りを添えています。さらに2020年6月には日本遺産にも認定され、その文化的価値がさらに広く認められました。

見どころ・魅力

西岡家住宅(国指定重要文化財)

塩田津の象徴的存在が、1974年(昭和49年)に国の重要文化財に指定された西岡家住宅です。嘉永5年(1852年)に着工し、安政2年(1855年)に完成したこの大型居蔵造り町家は、廻船問屋として財を成した豪商・西岡家の邸宅です。西岡家は文化7年(1810年)頃にこの地に移住し、天保15年(1844年)には陶器商の鑑札も取得しています。

建物は表の旧長崎街道から裏手の旧塩田川まで達する大規模なもので、間口約10.8メートル、奥行き約17.1メートルの切妻造りです。店の間の前面は「吊大戸(つりおおど)」と呼ばれる開放的な構造で、商家としての機能性が考えられています。内部には幅28センチメートルもある巨大な柱、一枚板で作られた漆塗りの縁廊下、精緻な組子細工の欄間、襖絵、ウサギや扇の形をした釘隠しなど、贅を尽くした意匠が随所に見られます。客間は格式高い書院造りとなっており、西岡家の繁栄ぶりがしのばれます。

一般公開は日曜日・祝日の10:00〜15:00で、入場無料です。2月〜3月末の「塩田津ひなまつり」期間中は土曜日も見学可能です。塩田津町並み保存会によるガイドツアーに参加すると、より深い解説を聞くことができます。

杉光陶器店(国登録有形文化財)

西岡家住宅に隣接する杉光陶器店は、同じく安政2年(1855年)築の三階建ての大型居蔵造り建築です。主屋と一の蔵から三の蔵まで国登録有形文化財に指定されており、土間の位置などが隣の西岡家と左右対称になっているのが特徴です。通りに面した三の蔵は、明治43年(1910年)から大正5年(1916年)まで「志保田銀行」として使用されていた歴史を持ち、当時のレンガ壁が今も残っています。

現在は陶磁器卸商を本業としつつ、店内にカフェを併設しています。地下100メートルから汲み上げた地下水で淹れるコーヒーは格別の味わいで、160年以上の歴史を持つ建物の中でゆったりとした時間を過ごすことができます。

石造仁王像と恵比寿像

塩田津の町並みを歩くと、各所で出会うのが塩田石工が手がけた石造物の数々です。中でも圧巻は、常在寺参道の中腹に立つ高さ2.4メートルの石造仁王像で、文政8年(1825年)に石工の筒井幸右衛門ほか5名によって制作されました。塩田産の石を用いた力強い造形は、町内の仁王像としては最大のものです。また、町角に佇む恵比寿像は商売繁盛の守り神として祀られたもので、いつも変わらない笑顔で行き交う人々を見守っています。

川沿いの石垣と荷揚げ場跡

旧塩田川沿いには、かつての川港としての面影を伝える石垣が連続して残されています。川に降りる石段や洗い場の跡、さらに昭和期に建設された荷揚げ用クレーンの土台なども見ることができ、潮の満ち引きとともに物資が行き交った時代の姿を偲ぶことができます。

周辺情報

塩田津は、嬉野市の多彩な観光スポットと組み合わせて訪れるのに最適な立地にあります。

塩田町内にある志田焼の里博物館は、大正3年(1914年)から昭和59年(1984年)まで稼働していた焼き物工場をそのまま保存した施設です。約7,500平方メートルの敷地に23棟もの木造建築が並び、国内最大級の石灰窯を見学できるほか、ろくろ体験や絵付け体験などの陶芸体験も楽しめます。日本遺産および近代化産業遺産にも認定されています。入館料は大人300円、小中学生150円で、陶芸体験は800円から。

嬉野温泉は塩田津から車で約20分の距離にあり、「日本三大美肌の湯」として名高い名湯です。ナトリウムを豊富に含むとろみのある湯は古くから湯治場として親しまれ、足湯や公衆浴場、風情ある旅館での宿泊が楽しめます。名物の「温泉湯豆腐」は、温泉水で煮込むことで豆腐がとろりと溶けるように柔らかくなる絶品料理です。

嬉野市は嬉野茶の産地としても有名で、摘みたてのお茶や抹茶ソフトクリーム、お茶を使ったスイーツを各所で味わうことができます。また、近隣の鹿島市には酒蔵通りで知られる肥前浜宿や、日本三大稲荷の一つに数えられる祐徳稲荷神社があり、バスで気軽にアクセスできます。

季節の行事

塩田津では四季折々の行事が歴史的な町並みに彩りを添えます。2月から3月にかけての「塩田津ひなまつり」では、商家の建物内にひな人形が華やかに飾られ、普段は非公開の建物の内部を見学できる貴重な機会となります。春には吉浦神社の「塩田お山さん祭り」(5月5日頃)が行われます。秋には丹生神社例祭の「塩田くんち」(11月2日〜3日)や八幡宮くんちが催され、賑やかな行列が歴史的な通りを練り歩きます。

訪問のための実用情報

塩田津は今も住民の方々が暮らす静かな地区です。町並みの散策に入場料はかからず、観光地化されすぎていない落ち着いた雰囲気の中で、本物の歴史を感じることができます。修復された歴史的建造物を活用したカフェやレストランが数軒あり、地元の食事を楽しみながら休憩できます。

NPO法人塩田津町並み保存会が情報センターを運営しており(所在地:嬉野市塩田町大字馬場下甲694、営業時間:9:00〜17:00、月曜休館)、ガイド付きの町歩きツアーも事前予約で受け付けています(電話:0954-66-3550)。ガイドの案内があると、通常は公開されていない建物の内部を見学できることもあり、より深い歴史理解につながります。

町並みはコンパクトにまとまっており、徒歩で1〜2時間で一通り回ることができますが、カフェでの休憩やガイドツアーへの参加を含めると半日程度の滞在がおすすめです。

Q&A

Q塩田津へのアクセス方法は?
Aお車の場合、鹿島市方面から国道498号を嬉野市役所塩田庁舎方面に約10分、武雄市方面から約18分、嬉野温泉方面から県道28号経由で約20分です。公共交通機関の場合、JR肥前鹿島駅前から祐徳バス嬉野線「湯の田」行きに約10分乗車し、「嬉野市役所塩田庁舎前」で下車すぐです。武雄温泉駅からもバスで約15分でアクセスできます。
Q見学料金や公開時間は?
A町並みの散策は無料で、いつでも可能です。国指定重要文化財の西岡家住宅は日曜日・祝日の10:00〜15:00に無料で一般公開されています。2月〜3月末の「塩田津ひなまつり」期間中は土曜日も見学可能です。団体や平日の見学は、塩田津町並み保存会(0954-66-3550)に事前にご相談ください。
Q駐車場はありますか?
A塩田津町並み駐車場(無料)が利用できます。満車の場合は第2・第3駐車場も用意されています。町並みの散策は徒歩が基本となりますので、駐車場に車を停めてからお歩きください。
Q嬉野温泉と一緒に楽しめますか?
Aはい、塩田津と嬉野温泉は同じ嬉野市内にあり、車やバスで約20分の距離です。午前中に塩田津の歴史的町並みを散策し、志田焼の里博物館で陶芸体験を楽しんだ後、午後から嬉野温泉でゆっくりくつろぐというコースがおすすめです。
Qおすすめの訪問時期はいつですか?
A一年を通じて楽しめますが、特におすすめの時期があります。2月〜3月の「塩田津ひなまつり」では商家の内部でひな人形を鑑賞できます。春と秋は散策に最適な気候です。11月初旬の「塩田くんち」では伝統的な祭り行列を見ることができます。夏は暑さがありますが、白壁の町並みが陽光に映えて美しい写真が撮れます。

基本情報

正式名称 嬉野市塩田津重要伝統的建造物群保存地区
指定 重要伝統的建造物群保存地区(2005年12月27日選定)、日本遺産(2020年6月認定)
地区種別 商家町
面積 約12.8ヘクタール
所在地 佐賀県嬉野市塩田町
主要建造物 西岡家住宅(国指定重要文化財・1974年指定)、杉光陶器店(国登録有形文化財)
建築様式 居蔵造り(いぐらづくり)— 白漆喰で外壁を塗り固めた耐火・耐風の大型町家建築
問い合わせ NPO法人塩田津町並み保存会 〒849-1411 佐賀県嬉野市塩田町大字馬場下甲694 TEL:0954-66-3550 営業時間:9:00〜17:00(月曜休館)
見学料 町並み散策無料、西岡家住宅:無料(日曜・祝日 10:00〜15:00)
アクセス 車:鹿島市方面から国道498号で約10分、武雄市方面から約18分、嬉野温泉方面から県道28号経由で約20分。バス:JR肥前鹿島駅から祐徳バス嬉野線で約10分「嬉野市役所塩田庁舎前」下車すぐ。

参考文献

嬉野市塩田津 — 文化遺産オンライン
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/197040
塩田津町並み保存会
https://peraichi.com/landing_pages/view/shiotatsu/
嬉野市塩田津 — 日本遺産ポータルサイト
https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/culturalproperties/result/5448/
西岡家住宅 — Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B2%A1%E5%AE%B6%E4%BD%8F%E5%AE%85
嬉野市塩田津伝統的建造物群保存地区 — ニッポン旅マガジン
https://tabi-mag.jp/sx0135/
塩田津の町並み — 「古旅」日本の古い町並み
https://www.furutabi.com/machinami/shiotatsu.html
全国伝統的建造物群保存地区協議会 — 嬉野市塩田津
https://www.denken.gr.jp/archive/ureshino-siotatsu/index.html
嬉野市観光マップ・スポット
https://www.city.ureshino.lg.jp/kanko/map.html
塩田津の町めぐり — あそぼーさが
https://www.asobo-saga.jp/articles/detail/d375140d-664c-4ffc-bc15-efe334abb6dd
西岡家住宅 — ニッポン旅マガジン
https://tabi-mag.jp/sx0180/

最終更新日: 2026.03.09