ツッカーハウス:慈愛が生んだ結核療養所

滋賀県近江八幡市の緑豊かな丘陵地に、ひっそりと佇む洋館があります。ヴォーリズ記念病院旧本館、通称「ツッカーハウス」。アメリカ生まれの建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズが1918年(大正7年)に設計した、結核療養所として誕生した木造洋館建築です。2014年(平成26年)には国の登録有形文化財(建造物)に指定され、その歴史的・建築的価値が正式に認められました。

ツッカーハウスは単なる歴史的建造物ではありません。建築、医療、そして人道的理念が見事に融合した場所であり、訪れる者に静かな感動を与えてくれます。

ツッカーハウス誕生の物語

1900年代初頭、日本では結核が猛威を振るい、多くの若い命が奪われていました。1905年にYMCAの紹介で英語教師として来日したヴォーリズは、この状況を深く憂いていました。とりわけ、自身の建築事務所で働いていた遠藤観隆が肺結核に倒れ亡くなったことが、ヴォーリズの結核撲滅への志を決定的なものにしました。

ヴォーリズは近代的なサナトリウム(療養所)の建設を目指し、アメリカの友人たちに支援を呼びかけました。その声に応えたのが、ニュージャージー州の篤志家メアリー・ツッカー女史でした。ツッカー女史自身も母アンナ・ダンフォース・ツッカーを肺結核で亡くしており、母の記念として多額の建築資金(約5,000ドル)を寄付しました。この建物は正式に「アンナ・ダンフォース・ツッカー記念館」と名付けられ、これが「ツッカーハウス」という通称の由来となっています。

1918年(大正7年)5月25日、晴れやかな五月晴れの日に近江療養院本館の献堂式(竣工式)が執り行われました。奇しくもこの年、日本の結核死亡率は史上最高を記録しており、この施設の開設は時代の要請に応えるものでもありました。

建築の特徴と設計思想

ツッカーハウスは木造2階建て(一部3階建て)の洋館建築で、瓦葺きの切妻造の屋根を載せています。中央の切妻造3階建て部分の左右に翼部を伸ばし、その両端を半八角形の平面としたデザインが特徴的です。玄関ポーチは優美な半円アーチで構成され、その上部にはベイウィンドウ(出窓)が設けられています。

この建物の真の価値は、すべての設計要素が患者の療養という医療上の目的に基づいていることにあります。ヴォーリズは、日光・新鮮な空気・自然との触れ合いが結核患者の回復に不可欠であると考えました。そのため、病室が置かれた2階の開口部は特に広く設計され、通風と採光に最大限の配慮がなされています。建物の向きや丘の斜面での配置も、冬至の日でさえ室内に陽光が差し込むよう綿密に計算されていました。

内部意匠にもヴォーリズの作風が色濃く現れています。病院にありがちな冷たく無機質な雰囲気ではなく、温かみのある居心地の良い空間が追求されました。ヴォーリズは患者のことを「病友」「病客」と呼んでおり、このおもてなしの精神が建物全体に息づいています。

また、ヴォーリズは寄付金で建てる建物に過度な装飾を施すべきではないという信念を持っており、ツッカーハウスは簡素ながらも品格のある仕上がりとなっています。実用性を重んじ、簡潔でありながら豊かなデザインと包容力のある空間を実現するという、ヴォーリズ建築の真髄がここに表現されています。

文化財としての価値

ツッカーハウスが2014年に国の登録有形文化財に指定された背景には、いくつかの重要な価値が認められています。第一に、大正期における木造洋館建築の優れた実例であること。アメリカの建築原理を日本の気候風土に巧みに適応させた設計は高く評価されています。第二に、採光・通風・患者の快適性に徹底的に配慮した結核療養所としての設計が、日本の医療建築史において重要な位置を占めること。第三に、国内に約150件が現存するヴォーリズ建築の中でも、代表的な作品の一つであることです。

この建物はかつて解体してホスピスを建設する計画がありましたが、地元市民による熱心な保存運動によって計画は撤回されました。その後、NPO法人「ヴォーリズ遺産を守る市民の会」と建物を所有する公益財団法人近江兄弟社が協力し、約10年にわたる大規模な改修工事を実施。屋根瓦の葺き替え、耐震補強、内部仕上げなどが行われ、2023年にほぼ完成を迎えました。

見どころ

ツッカーハウスの敷地内には、ヴォーリズが設計した3つの建物群があり、それぞれがサナトリウムの歴史を物語っています。

本館であるツッカーハウスでは、広々とした窓、計算された部屋の比率、光と影の穏やかな交錯など、先駆的な医療施設としての設計の妙を間近に体感できます。2023年の大規模改修完了後は内部の一般公開が始まり、かつて患者が療養していた空間を実際に歩くことができます。

ツッカーハウスに併設された「五葉館」も1918年に建てられた小病棟です。5つの独立した病室が中央の共用ラウンジから5方向に突き出す独特の設計で、上から見ると楓の葉のような形状をしています。退院間近の患者が入る施設であったため、他の患者にとって希望の象徴でした。高床式で床下の換気に優れ、各部屋の入口には紫水晶のドアノブが使われている繊細な美しさも見どころです。

1937年(昭和12年)に建てられた「礼拝堂」は、療養中に亡くなった方々の霊を慰めるために建設されました。3つの建物の中で唯一現在も使用されており、毎週日曜日に礼拝が行われています。

周辺情報

ツッカーハウスはヴォーリズ記念病院の敷地内(近江八幡市北之庄町)に位置しており、すぐ近くには藤森照信設計で知られる「ラ コリーナ近江八幡」があります。たねやグループのフラッグシップショップであるラ コリーナは、草屋根の建築と田園風景が融合した人気スポットで、クラブハリエの焼き立てバームクーヘンを楽しむことができます。

バスで近江八幡市街地に出れば、20件以上のヴォーリズ建築が残る街並みを散策できます。ヴォーリズ記念館(旧ヴォーリズ邸)、旧八幡郵便局、アンドリュース記念館、池田町の洋風住宅街など見どころが豊富です。また、近江商人の屋敷が並ぶ八幡堀の水郷巡りも風情ある体験としておすすめです。

時間に余裕があれば、織田信長が築いた安土城跡も近く、琵琶湖を見渡す雄大な眺望を楽しむことができます。

Q&A

Qツッカーハウスの内部は見学できますか?
Aはい。2023年の大規模改修完了後、ツッカーハウス・五葉館・礼拝堂の3施設がガイドツアー形式で公開されています。木曜・金曜・土曜(冬季を除く)に1日2回(10:00、13:30)、所要約90分のツアーが実施されています。事前予約が推奨されますので、近江八幡観光物産協会やヴォーリズ遺産を守る市民の会にお問い合わせください。
QJR近江八幡駅からのアクセスを教えてください。
AJR近江八幡駅北口から近江鉄道バス「長命寺行き」に乗車し、「ヴォーリズ記念病院前」バス停で下車(約10分)。バス停からツッカーハウスまでは徒歩約10分です。お車の場合は駅から約10分です。
Q見学料金はいくらですか?
Aガイドツアーの見学料金は1人1,000円(記念品付き)です。お釣りのないようご用意いただくことをおすすめします。
Qおすすめの訪問時期はいつですか?
A春(4〜5月)と秋(10〜11月)が最適です。周囲の新緑や紅葉が建物を美しく彩ります。冬季は休館となりますのでご注意ください。特別見学会やイベントが開催されることもあります。
Q写真撮影は可能ですか?
A外観の撮影は自由にできます。内部の撮影についてはガイドツアーの際にスタッフの指示に従ってください。動画撮影や録音については制限がある場合がありますので、事前にご確認ください。

基本情報

名称 ヴォーリズ記念病院旧本館(ツッカーハウス)
正式名称 アンナ・ダンフォース・ツッカー記念館
設計 ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880〜1964年)
竣工 1918年(大正7年)、1934年(昭和9年)改修
構造 木造2階建て(一部3階建て)、瓦葺き切妻造
文化財指定 国登録有形文化財(建造物)、2014年登録
所有 公益財団法人近江兄弟社
所在地 〒523-0806 滋賀県近江八幡市北之庄町492
アクセス JR近江八幡駅 → 近江鉄道バス「長命寺行き」→「ヴォーリズ記念病院前」下車 → 徒歩約10分
見学時間 ガイドツアー:木・金・土曜(冬季休館)、10:00/13:30、約90分、要予約推奨
見学料金 1,000円(1人、記念品付き)

参考文献

ヴォーリズ記念病院旧本館(ツッカーハウス) — 文化遺産オンライン
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/262332
ヴォーリズと病院の歴史 – 公益財団法人近江兄弟社 ヴォーリズ記念病院
https://www.vories.or.jp/about/history
ヴォーリズ建築「ツッカーハウス」の改修費用支援を求めるクラファンプロジェクト — CONFORT
https://confortmag.net/20210920projects-vories/
ツッカーハウス見学会 参加レポート — 40代から挑戦中 趣味する時間
https://hajimeruyamanobori.com/tookerhouse/
ヴォーリズの建築 — 近江八幡観光物産協会
https://www.omi8.com/omihachiman/local-history/vories/buildings/
めぐるり近江八幡 — ヴォーリズが繋いだご縁を大切に守っていく
https://megururi.jp/infinity/111/
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ — Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/ウィリアム・メレル・ヴォーリズ
資金難克服、よみがえるヴォーリズ建築 近江八幡「ツッカーハウス」改修完了 — 中日新聞
https://www.chunichi.co.jp/article/691407

最終更新日: 2026.03.27