一人の教師が見つけた、奇妙な石
1940年(昭和15年)12月、相良の小学校に勤めていた教師、栗林澤一は、白羽村の庚申塚の土盛りのなかから見慣れない石を拾い上げた。平らに磨かれた面が鋭い角で接していて、人の手で削り出した石器のように見える。栗林は3個を持ち帰り、石斧ではないかと考えた。
違った。それは風蝕礫、つまり風によって表面を削られた礫だった。どの石にも加工の跡はなく、同僚で郷土の地理・歴史をともに調べていた坂口健に相談しても答えは出ない。二人は石のたどってきた道を追い、庚申塚の南にあたる尾高地区へ入った。松林の地表には、同じように角ばった礫が数えきれないほど散らばっていた。
白羽の風蝕礫産地は、現在の御前崎市白羽、御前崎の西方約3キロメートルの海岸段丘の上にある。指定範囲は南北約300メートル、東西約100メートル。標高およそ30メートルの古い砂丘の地表面で、県道沿いに天然記念物指定の石碑が立つ。
風が石を削るということ
風蝕礫は岩石の種類ではなく、形を指す言葉である。一定の方向から強い風が吹き続け、その風が細かい砂を運ぶと、砂粒は通り道の礫を少しずつ削っていく。風上を向いた面は平らに磨かれる。突風などで礫が転がって別の面が風上を向くと、その面も削られ、先にできた平らな面との境に鋭い稜角が生まれる。向きが二度変われば稜角は二本、三本そろったものを三稜石(ドライカンター、ドイツ語で「三つの稜」)と呼ぶ。
こうした条件は本来、砂漠のような乾燥地帯のものだ。湿潤な日本では珍しく、白羽が見つかる前は伊豆大島・三原山の旧火口周辺と、小笠原・硫黄島で知られていたにすぎない。御前崎一帯が例外となったのは、いくつもの条件が重なったためである。冬になると「遠州の空っ風」と呼ばれる乾いた西風が海岸を吹き抜ける。風上には長い砂浜と砂丘が続き、天竜川が運ぶ土砂や沿岸流に乗った砂が絶えず供給される。そして段丘の地表には、かつての海進期に波で丸く磨かれ、その後の隆起で取り残された硬い礫が散らばっていた。風と、砂と、待ち受ける礫が、ひとつの場所でそろった。
栗林が採集した石を東京帝国大学の地理学者・辻村太郎のもとへ持参すると、まぎれもない風蝕礫だと鑑定された。白羽の地は1943年(昭和18年)8月24日、「風化及び侵蝕に関する現象」を基準として国の天然記念物に指定された。当初は旧村名を冠した「白羽村の風蝕礫産地」で、現在の名称になったのは1957年(昭和32年)である。その後、太平洋岸の各地や北海道北部でも小規模な産地が報告されたが、礫の数の多さと形の完全さで白羽に並ぶものはない。国の天然記念物に指定された風蝕礫産地は、いまも白羽のみである。
いま、産地に残るもの
劇的な景観を期待して訪れると、肩すかしを食う。指定地は静かなクロマツ林で、かつて地表に群れていた風蝕礫はほとんど残っていない。長い年月のあいだに、大学の研究者や採集者、訪れた人々が一個ずつ持ち去ってしまったからだ。1991年に亡くなった栗林は生前、指定されたのが礫ではなく産地でよかった、産地は持ち去れないから、とよく口にしていたという。風上の砂丘で砂防事業が進んだ影響で飛砂は収まり、いまでは新たな風蝕礫がつくられることもほとんどない。
だから石そのものは、屋内で見るのがよい。御前崎市の海鮮なぶら市場にある観光物産会館「なぶら館」、浜岡原子力館の郷土展示ホール、牧之原市史料館が白羽産の風蝕礫を所蔵し、時期に応じて展示している。なかでも牧之原市史料館の50点は来歴がはっきりしている。坂口健が二つの木箱に自ら整理し、添え書きを付して1990年に寄贈したもので、指定以前に坂口と栗林が採集した石を含む。
近くで見ると、石はその来歴を形で示す。磨かれた平らな面と、それらが接する稜線に目を凝らしたい。なかには石斧や鏃の輪郭をそのまま写し取ったような礫もあり、発見者が石器と取り違えたのも無理はないと分かる。仕上がりには岩質が表れる。砂岩の礫はなめらかに均一に磨かれ、硬さにむらのある珪質細粒砂岩の礫は表面にわずかな皺を残した。大きいものは直径15センチほど、多くは数センチ、小さなものは米粒ほどしかない。
周辺の見どころとアクセス
静岡県最南端の御前崎は、産地から車で東へわずかな距離にある。明治期からこの海域を照らしてきた白い御前埼灯台は内部をのぼることができ、この地方の風を生む海をひと目で見渡せる。産地のある白羽地区には白羽神社が鎮座し、曹洞宗の増船寺・紅雲寺も歩いて回れる範囲にある。
風蝕礫を生んだ海岸の力は、近くの砂丘で直に感じられる。飛砂を供給してきた砂丘群のひとつ浜岡砂丘に立てば、白羽の礫が削られていた頃の景色がいくらか想像できるだろう。
産地に鉄道は通っていない。東海道本線の菊川駅から浜岡方面のバスに乗り、御前崎市の自主運行バスに乗り継ぐ。中原バス停から徒歩約20分である。車なら遠州灘沿いの県道を使うのが分かりやすい。指定地は係員のいる観光施設ではなく、石碑の立つクロマツ林にすぎない。史料館の見学とあわせて立ち寄る短い行程として考えるとよい。
Q&A
- 産地の地面で風蝕礫を拾えますか。
- ほぼ拾えません。長年のあいだに持ち去られ、地表にはほとんど残っていません。また天然記念物の指定地内では採集が禁じられています。石を見たい場合は、本文で挙げた史料館や展示施設を訪ねてください。
- 「三稜石」とは何ですか。
- 三本の鋭い稜角をもつ風蝕礫のことで、ドイツ語の「三つの稜」に由来する呼び名です。風が一つの面を削ったあと礫が向きを変えるたびに、稜が一本ずつ増えていきます。稜が一本のものは単稜石と呼ばれます。
- なぜ発見者は石器と勘違いしたのですか。
- 風による侵食で、礫が石斧や鏃の輪郭にまで削られることがあるためです。その形は十分に紛らわしく、栗林は当初3個を石器と思って持ち帰りました。加工の跡がまったくないことから、のちに疑問が生じたのです。
- 風蝕礫ができるのにどれくらいの時間がかかりますか。
- 白羽については、年代を測る手がかりとなる噴火史などがないため確かなことは言えません。百数十年ほどかけて形成されたとみられる伊豆大島の三稜石と比べ、白羽もそれに近い年月を要したと考えられています。
- 産地そのものに見るべきものはありますか。
- 石碑と、クロマツに覆われた砂丘があります。訪問の意義は景観よりも歴史と科学にあります。ここに短く立ち寄り、史料館の展示で実物の風蝕礫をじっくり見るという組み合わせが、最も得るものが多いでしょう。
基本データ
| 名称 | 白羽の風蝕礫産地(しろわのふうしょくれきさんち) |
|---|---|
| 所在地 | 静岡県御前崎市白羽字尾高 |
| 指定区分 | 国指定天然記念物(文部省告示第727号) |
| 指定年月日 | 1943年(昭和18年)8月24日/1957年(昭和32年)7月31日に現名称へ変更 |
| 指定基準 | 風化及び侵蝕に関する現象 |
| 指定範囲 | 南北約300メートル、東西約100メートル。標高約30メートルの海岸段丘上 |
| 管理 | 御前崎市 |
| 現地の状況 | クロマツ林に石碑が立つのみ。施設はなく、礫の採集は禁止 |
| 風蝕礫を見られる場所 | なぶら館(御前崎市)、浜岡原子力館郷土展示ホール、牧之原市史料館 |
参考文献
- 白羽の風蝕礫産地(国指定文化財等データベース、文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/1347
- 白羽の風蝕礫産地(文化遺産オンライン)
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/216569
- 国指定記念物 白羽の風蝕礫産地(御前崎市公式ホームページ)
- https://www.city.omaezaki.shizuoka.jp/kurashi/sports_bunka/bunka_gejutsu/bunkazai/kinenbutsu/kunishiteikinenbutu.html
- 白羽の風蝕礫産地(御前崎市社会教育課、PDF)
- https://www.city.omaezaki.shizuoka.jp/material/files/group/26/sirowanofushokurekisanchi.pdf
- 三稜石・日本の典型地形(国土地理院)
- https://www.gsi.go.jp/kikaku/tenkei_umi.html
- 白羽の風蝕礫産地(ふじのくに文化資源データベース、静岡県文化財団)
- https://artscouncil-shizuoka.jp/culture-resource-db/detail.php?id=2174
最終更新日: 2026.05.25