酒田に残る、もっとも短い『伊勢物語』

山形県酒田市の本間美術館に、一帖の写本がある。『伊勢物語』の写しでありながら、現存する諸本のなかで収める段数がもっとも少ない。半葉に十行、無界の斐紙へ書写され、収録は一一五段、歌数は一九八首。昭和五十二年(一九七七年)に重要文化財へ指定された。

『伊勢物語』は平安時代前期に成った歌物語で、作者も成立時期もわかっていない。一人の男の元服から晩年までを、和歌を核とした短い章段の連なりとしてつづる。在原業平の歌が数多く採られているため、業平をその主人公と見る読み方が古くから定着してきた。原本は伝わらず、本文は後世の写本を通じてしか知り得ない。そして写本ごとに本文は一様ではなく、段数の多少、章段の順序や分合の違いによって、いくつもの系統に分かれていった。

本書はそのなかでもっとも簡略な系統、いわゆる塗籠本に属する。巻末の奥書に、もとの本が平安京・朱雀院の塗籠、すなわち書物を納める塗り込めの室に収められていたと記されることに由来する名である。その本が平安中期の公卿・高階成忠(二位に叙され「高二位」と称された)の所持本であったことから、高二位本の名でも呼ばれる。

段数が少ないことの意味

段数の少ない写本がなぜ貴重とされるのか。鍵はそこにある。鎌倉期、藤原定家が校訂した本文が広く流布し、以後の標準となった。本書はその主流の外に立つ。章段の順序、結合と分離、どの段を残すかという取捨が、いずれも定家本と異なっている。研究者はこれらの差異を、後世の整序を経る前の古い姿の名残と読む。

筆者については、寛文四年(一六六四年)の冬に冷泉家の冷泉為清が加えた識語が、民部卿局という女房の手になると記し、その人を藤原定家の息女としている。ただしこれは確証のある事実というより、伝えられてきた鑑定である。国の文化財記録は、ほぼ同時代における作者未詳の書写と扱う。確かなのは、本書が古く、丁寧で、数の限られた写本であることだ。この高二位本の系統に属する写本は数えるほどしか確認されておらず、本書のほか、国文学研究資料館の所蔵本にその例がある。

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これは、古い紙を扱う者の目で読みたい一帖である。装訂は綴葉装。料紙を折り、数枚ずつ重ねて折り目で綴じる方式で、和歌集や物語の書写に好まれた仕立てである。料紙は斐紙。なめらかでわずかに透ける肌が珍重された紙で、界線を引かないため、十行の文字が半葉いっぱいに伸びやかに走る。

後から書き加えられた二層の書き入れも見どころとなる。早い時期の読み手は他本と引き合わせ、墨で校合の跡を残した。さらに後には朱で、段数や、和歌の出典となる歌集の巻次が注記された。これらの痕跡は、書写されてのちも長く学者たちがこの本文を読み、論じ続けたことの記録となっている。

斐紙の写本は光に弱いため、本書は常時公開されているわけではない。館の企画展で折にふれて出品されるので、原本を目当てにするなら、事前に展示の予定を確かめてから足を運びたい。出品されていない時期でも、美術館そのものが訪問に値する。

美術館とその周辺

本間美術館は昭和二十二年(一九四七年)、戦後の日本で最初の私立美術館として開館した。酒田の豪商から日本有数の大地主へと成長した本間家が母体である。収蔵は絵画・書跡・陶磁・武具・茶道具と幅広く、その多くは庄内藩酒井家や米沢藩上杉家からの拝領品に由来する。

展示室と同じだけ、敷地そのものが見どころである。文化十年(一八一三年)に建てられた京風の木造別荘・清遠閣は、要人をもてなす迎賓の場として用いられ、のちの昭和天皇が宿泊したこともある。傍らに広がる鶴舞園は、池を中心に据え、遠く鳥海山を借景に取り込んだ池泉回遊式庭園で、その造営は港で働く人々の冬季の失業対策をも兼ねていた。美術館からは、欅並木の立ち並ぶ酒田の象徴・山居倉庫まで歩いて行ける。

Q&A

Q訪問すれば実物の写本を見られますか。
Aいつでも見られるわけではありません。光に弱い紙の写本のため、常設ではなく企画展の折にのみ公開されます。来館前に展示予定を確認し、庭園と清遠閣を確実な見どころと考えておくとよいでしょう。
Q重要文化財と国宝はどう違うのですか。
Aいずれも日本の文化財保護制度上の指定です。重要文化財は歴史的・芸術的価値の高いものを広く指定する区分で、国宝はそのなかから選ばれる最上位の区分です。本書は重要文化財にあたります。
Q段数の少ない本がなぜ価値を持つのですか。
A藤原定家が整えた標準的な本文と異なる点が多く、より古い形を残すと見られているためです。本書のような異本は、『伊勢物語』が書写を重ねるなかでどう変化したかを跡づける手がかりになります。
Q民部卿局とはどのような人物ですか。
A寛文四年(一六六四年)の識語に筆者として記された女房で、そこでは藤原定家の息女とされています。これは確定した事実ではなく伝承であり、書写そのものはおおむね鎌倉時代と見られます。
Q美術館へはどう行けばよいですか。
AJR酒田駅から徒歩約五分、駐車場もあります。庭園と清遠閣は入館料に含まれ、展示替えの時期でも開いていることがほとんどです。

基本情報

名称伊勢物語(伝民部卿局筆本)
指定区分重要文化財(昭和五十二年六月十一日指定)
種別書跡・典籍
時代鎌倉時代
形状一帖、綴葉装、無界斐紙、半葉十行。一一五段・一九八首を収める
所有・保管公益財団法人本間美術館
所在地山形県酒田市御成町7-7
アクセスJR酒田駅より徒歩約五分
公開状況企画展での随時公開。常設展示ではない。庭園・清遠閣は入館料で通年見学可

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/8818
文化遺産オンライン(文化庁)
https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/205800
公益財団法人本間美術館 コレクション
https://www.homma-museum.or.jp/collection/
公益財団法人本間美術館 《伊勢物語 塗籠本 伝民部卿局筆》補足解説
https://www.homma-museum.or.jp/column/column-1629/
公益財団法人本間美術館 ご利用案内
https://www.homma-museum.or.jp/use/

最終更新日: 2026.06.18