神岡の山あいに残る、石を積み上げただけの壁

飛騨市神岡町の市街地から見上げる山の中に、六郎谷と呼ばれる谷がある。その流れを横切るように、堤長四十三メートル、堤高五・五メートルの石積みの壁が築かれている。大正十年(一九二一)に造られた砂防堰堤である。モルタルもセメントも使われていない。手で割り出した石を、職人が一つずつ嚙み合わせるように積み上げ、石の自重と摩擦だけで百年以上立ち続けている。

これが六郎谷第一号砂防堰堤。同じ谷にはもう一基、約一一〇メートル上流に第二号堰堤があり、二基あわせて平成三十一年三月二十九日に国の登録有形文化財に登録された。第一号堰堤は最下流に位置し、谷から麓へ落ちようとする土砂を最初に受け止める役目を担う。麓には、明治以降日本の重工業を支えた神岡鉱山の中核部があった。この堰堤は、その鉱山と山下の集落を守るための土木遺産である。

大正九年の災害が生んだ堰堤

そもそも、なぜここに石の壁が必要だったのか。きっかけは技術論ではなく、災害である。大正九年(一九二〇)六月二十六日から二十八日にかけて、飛騨地方は猛烈な雨に見舞われた。二十八日朝には外ヶ谷・足洗谷で土石流が発生し、上宝町蒲田(現在の高山市奥飛騨温泉郷蒲田)では建物十三棟と田畑がすべて流失、蒲田温泉は集落ごと消滅した。神岡町船津でも、高原川の土石流によって死者十七名、家屋倒壊三戸、半壊七十七戸、流失四十七戸、浸水二百九十戸という大きな被害が出た。

この惨事を受けて、内務省は高原川流域での直轄砂防事業の着手を決める。六郎谷もその対象に含まれた。第一号堰堤の竣工は、災害の翌年、大正十年である。被災からわずか一年で工事を始めた背景には、もうひとつ理由があった。麓の神岡鉱山が、当時すでに国家規模の意味を持っていたからである。

神岡鉱山の採掘は奈良時代まで遡るとされるが、近代化が始まるのは明治七年に三井組が経営権を取得して以降のことだった。亜鉛・鉛・銀を産出するこの鉱山は、海軍の建艦、鉄道網の敷設、都市の電化を支える金属を供給し、大正期には東洋一とまで称される規模に成長していた。一度の土石流で精錬所や選鉱所が埋没すれば、地域の被害にとどまらず、国の産業計画そのものに影響が及ぶ。六郎谷の堰堤は、表向きは砂防施設だが、その実、国策の延長線上にあった。

モルタルを使わぬ仕事

近づいて石組みを見ると、まずその抑制された姿に気づく。技法は空石積。モルタルもセメントも、鉄筋の補強もない。石工が一つずつ手で形を整え、互いの面が嚙み合うように据えた。重量と摩擦が、結合材の役割をすべて引き受けている。勾配は一割六分。垂直に対してわずかに後ろへ傾き、一メートル上がるごとに約十六センチ控える。この控え分が、流下する礫や土砂の衝撃を逃がす働きをする。

砂防堰堤がコンクリートで造られるようになるのは、昭和初期以降のことだ。それ以前、つまり明治末から大正にかけての堰堤は、ほぼ例外なく石積構造である。同じ六郎谷の第二号堰堤は、堤体の大半がすでに土砂に埋没し、頂部の一~二メートル程度しか地上に現れていない。一見すると痛んだ構造物に見えるが、これは堰堤が本来の役目を果たしてきたことの証左でもある。上流から流れてくる土砂を確実に受け止めてきたからこそ、堤体が砂に呑まれているのだ。

なぜ砂防堰堤が文化財になるのか

六郎谷第一号砂防堰堤は、平成三十一年三月二十九日付で登録有形文化財(建造物)に登録された。登録番号は21‐278。登録基準は「国土の歴史的景観に寄与しているもの」である。同じ日に登録されたのは、宮川流域の小豆沢で三基、桑谷で五基、そして高原川流域の六郎谷で二基。合計十基の砂防堰堤群が、まとめて文化財制度のなかに位置づけられた。

この登録の意味は、単に古いから残す、ということではない。空石積による砂防堰堤の建設技術が、現代の土木現場からほぼ失われてしまった、という事実が背景にある。コンクリートと重機による工法が普及して以降、人力で石を積み上げる堰堤は、新たに造られることがほとんどなくなった。岐阜県下には登録砂防施設が二十基あるが、飛騨に集中する大正期の堰堤群は、その施工技術を実物の形で伝える数少ない資料である。

もう一点、見落とせない事情がある。日本の砂防が、農地や集落だけでなく重工業地帯を守る目的で動き始めた段階の姿を、六郎谷の堰堤群は具体的に示している。山の不安定な斜面と、その下にあった鉱山町。両者のあいだに据えられた石の壁を見ることは、近代日本がどのように成り立ってきたかを、谷の地形ごしに読み解く作業に近い。

神岡を歩くということ

堰堤そのものは急峻な谷の奥にあり、観光地として整備されているわけではない。岐阜県が平成三十一年に解説看板を設置したが、堰堤までの安全な見学路は確保されていない。実地に見たい場合は、事前に飛騨市役所や神岡振興事務所、地元砂防担当部署に状況を確認することをお勧めしたい。残雪期や降雨後は特に注意が要る。

一方、神岡の町そのものは、ゆっくり歩くだけの値打ちがある。道の駅「宙ドーム・神岡」に併設された「ひだ宇宙科学館カミオカラボ」では、神岡鉱山の坑道跡に設置されたスーパーカミオカンデの研究内容を紹介している。一九八七年の超新星爆発由来のニュートリノ検出、そしてニュートリノ振動の発見——二度のノーベル物理学賞は、いずれもこの地下空間で行われた観測から生まれた。砂防堰堤が守ってきた鉱山が、いまは宇宙の素粒子を観測する場所になっている。

高原川沿いの河岸段丘には、戦国期の城跡に昭和四十五年に再建された神岡城が立つ。城のある高台からは、堰堤が守ってきた谷の地形と、麓の町並みが見渡せる。城下の旧市街は、昭和期の木造商家や狭い路地、川を渡す小さな橋が残るエリアで、高山や飛騨古川の観光地化された町並みとはまた異なる、静かな表情を見せてくれる。

Q&A

Q砂防堰堤とは、いわゆるダムとどう違うのですか。
A水を貯める目的で造られるダムと異なり、砂防堰堤は流下する土砂・礫・流木を受け止めるために設けられる施設です。水はそのまま堤体を越えて下流に流れ、礫や石は堤体の上流側に堆積していきます。日本の急峻な地形と多雨気候のもとで独自に発達した土木技術で、土石流被害から下流域を守る基幹的な役割を担ってきました。
Q六郎谷第一号砂防堰堤は見学できますか。
A急峻な渓谷の中にあり、観光施設としての整備はなされていません。安全に近づける見学路もなく、降雨後や残雪期は接近そのものが危険を伴います。実地で見たい場合は、事前に飛騨市役所または地元砂防担当部署に問い合わせ、現在の状況を確認したうえで判断してください。
Qなぜ大正十年というタイミングで建設されたのですか。
A前年の大正九年(一九二〇)六月、高原川流域を襲った土石流災害がきっかけです。神岡町船津だけで死者十七名、流失家屋四十七戸という被害が出たことで、国は高原川流域での直轄砂防事業に着手しました。神岡鉱山の中核域に近い六郎谷は早い時期に対策が進められ、翌大正十年に第一号堰堤が竣工しています。
Q空石積とはどのような構造ですか。
Aモルタルやセメントを一切使わず、加工した石材だけを積み上げる構造です。石の自重と互いの面の摩擦だけで形を保ちます。熟練した石工の技術を要する工法で、大正期までは砂防堰堤の標準的な築き方でしたが、コンクリートが普及した昭和初期以降は急速に姿を消しました。六郎谷の堰堤群は、その技術が実物として残る貴重な事例です。
Q飛騨地方には他に同時期の砂防堰堤はありますか。
A同じ平成三十一年の登録で、宮川流域の小豆沢に三基、桑谷に五基、そして六郎谷にもう一基(第二号堰堤)が文化財に加わりました。いずれも大正から昭和初期にかけて、宮川と高原川の流域で発生した一連の災害を受けて建設されたもので、岐阜県内に二十基ある登録砂防施設の中でも、飛騨に集中する一群として知られています。

基本情報

名称六郎谷第一号砂防堰堤(ろくろうたにだいいちごうさぼうえんてい)
所在地岐阜県飛騨市神岡町東町字六郎
指定区分登録有形文化財(建造物)/治山治水・土木構造物
登録年月日平成三十一年(二〇一九)三月二十九日
登録番号21–278
構造及び形式石造堰堤(空石積)、堤長四十三メートル、堤高五・五メートル、勾配一割六分
築造年大正十年(一九二一)
員数一基
所有者岐阜県
登録基準国土の歴史的景観に寄与しているもの
公開状況観光施設としての公開はなし。実地見学を希望する場合は事前確認を推奨

参考文献

六郎谷第一号砂防堰堤|文化遺産オンライン(文化庁)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/379737
国指定文化財等データベース|六郎谷第一号砂防堰堤
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/101/00012744
降雨・降雪による災害|神通川水系砂防事務所(国土交通省 北陸地方整備局)
https://www.hrr.mlit.go.jp/jintsu/outline/saigai/rain.html
登録有形文化財|岐阜県古川土木事務所
https://www.pref.gifu.lg.jp/page/26367.html
登録有形文化財|岐阜県砂防課
https://www.pref.gifu.lg.jp/page/2279.html

最終更新日: 2026.05.16