葉山の丘に佇むプレーリースタイルの傑作:旧加地邸

神奈川県葉山町の一色海岸を見下ろす小高い丘の上に、日本に現存するプレーリースタイル住宅建築の最高傑作のひとつ、旧加地邸が静かに佇んでいます。近代建築の巨匠フランク・ロイド・ライトの愛弟子として知られる建築家・遠藤新が設計し、1928年(昭和3年)に竣工したこの邸宅は、大谷石をふんだんに用いた重厚な意匠と、水平に大きく伸びる軒が織りなす美しい佇まいから「小さな帝国ホテル」とも称されてきました。2017年(平成29年)に国の登録有形文化財に登録され、2020年(令和2年)からは一棟貸しの宿泊施設「葉山加地邸」として、この名建築に実際に泊まるという特別な体験を提供しています。

歴史的背景

旧加地邸は、三井物産の初代ロンドン支店長を務めた加地利夫(1870〜1956)の別邸として建てられました。加地は東京高等商業学校を卒業後、大阪市立商業学校の教諭を経て三井物産に入社。1918年(大正7年)にロンドン支店長に就任し、その後重役・監査役を歴任、大正海上火災保険の重役も務めた実業家です。

設計を手がけた遠藤新(1889〜1951)は、フランク・ロイド・ライトが東京帝国ホテル建設のために来日した際にスタッフとして参加し、竣工に至るまで主要な役割を果たしました。その後も自由学園明日館、旧山邑家住宅(現・淀川製鋼所迎賓館、国の重要文化財)など、ライトが日本で関わったすべての建築において設計から竣工までを実質的に支えた人物です。

加地邸が竣工した1928年は、遠藤が39歳のとき。自由学園目白講堂(1927年)や甲子園ホテル(1930年、現・武庫川女子大学甲子園会館)など、質の高い建築を多数設計した充実期の作品にあたります。加地の妻・壽は建築に深い関心を持ち、遠藤と打ち合わせを重ねながら設計変更を行ったため、建築費は当初予算の二倍に達したと伝えられています。大谷石などの資材運搬には近隣の人々が率先して協力し、完成後も加地家はたびたび近隣住民を招いて親交を深めていたといいます。

文化財としての価値

旧加地邸は、2017年(平成29年)10月27日に「造形の規範となっているもの」として国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。大谷石を多用し、水平に大きく伸びる軒などプレーリースタイルでまとめたライト風住宅の秀作として、その造形的価値が高く評価されています。

現存する遠藤新の住宅作品の中でも最も貴重な作品とされる本邸は、遠藤が掲げた設計理念「全一」を体現した建築です。「全一」とは、建築そのものから家具、照明器具に至るまで、すべてをひとつの統一された芸術作品として設計するという考え方であり、旧加地邸はこの理念をきわめて高い密度で実現した住宅作品として、近代建築史上においても重要な位置を占めています。

建築の見どころ

旧加地邸は、木造一部鉄筋コンクリート造の地下1階・地上2階建てで、銅板葺きの屋根を持ち、建築面積は297平方メートル、延床面積は約364平方メートルです。約1,000平方メートルの敷地には四季折々の景観が広がります。

プレーリースタイルの外観

最も印象的な外観の特徴は、水平方向に大きく伸びる深い軒です。ライトが提唱したプレーリースタイル(草原様式)の精神を忠実に受け継ぎ、建物を大地に溶け込ませるような水平線の強調が、周囲の自然と見事な調和を生み出しています。鮮やかなエメラルドグリーンの銅板屋根は、海上からも目に留まるほど印象的です。

大谷石の意匠

ライトが帝国ホテルで大量に使用したことで知られる栃木県産の大谷石を、遠藤もこの邸宅にふんだんに取り入れています。幾何学模様のように複雑で美しい重なりを見せるアプローチから、室内の壁面や装飾に至るまで、大谷石の温かみのある質感が建物全体を貫いています。

室内空間

大谷石敷きのアプローチから玄関を入ると、巧みに構成された空間が広がります。南にテラスとサンルームを有する居間を中心に、東に寝室、西に食堂を配置。暖炉の背面側には撞球室(ビリヤード室)があり、二つの暖炉が背中合わせで一本の煙突に集約される独創的な設計が見られます。2階の展望室からは相模湾を一望でき、葉山の自然を存分に楽しむことができます。

「全一」の設計思想

遠藤の「全一」の理念に基づき、建築から造り付けの家具、照明器具、装飾的なディテールに至るまで、すべてが同じ幾何学的な言語で統一されています。2020年の改修では、カミヤアーキテクツの神谷修平氏が「クリエイティブ・プリザベーション(創造的保存)」という手法を開発し、オリジナルの要素を丁寧に修復しながら、宿泊施設としての現代的な快適さを加えることに成功しています。

宿泊・見学情報

2020年11月より、旧加地邸は一棟貸しの宿泊施設「葉山加地邸」として運営されています。延床面積約364平方メートル(110坪)の邸宅全体を貸し切りで利用でき、登録有形文化財の空間の中で特別な滞在を体験することができます。改修は2021年度グッドデザイン賞、日本空間デザイン賞、AACA賞、iF Design Award 2022など数々の賞を受賞しています。

宿泊者以外への一般公開は限定的ですが、文化体験プラットフォームを通じた館内ツアーが開催されることがあります。支配人による解説付きの見学ツアーでは、建築の細部にわたる意匠や歴史的背景について深く学ぶことができ、地元のコーヒーショップによるオリジナルブレンドや人気パティシエの焼菓子を楽しむティータイムも用意されています。

なお、旧加地邸はNHKドラマ「岸辺露伴は動かない」、松竹映画「人間失格 太宰治と3人の女たち」、TBS日曜劇場「ラストマン-全盲の捜査官-」など、多数の映像作品のロケ地としても知られています。

周辺情報

葉山町は三浦半島に位置する美しい海辺の町で、豊かな自然と洗練された文化が調和する人気のリゾート地です。旧加地邸の周辺には多彩な観光スポットが点在しています。

  • 一色海岸:CNNの「世界のベストビーチ100選」にも選ばれた美しい海岸。美しい夕陽で有名
  • 葉山しおさい公園・葉山しおさい博物館:葉山御用邸付属邸跡地に整備された日本庭園と博物館。相模湾を望む絶景
  • 森戸神社:800年以上の歴史を持つ海辺の神社。相模湾と富士山の眺望が素晴らしい
  • 森戸海岸:葉山で最も広い海水浴場。夕陽の美しさでも知られる
  • 葉山のカフェ・レストラン:おしゃれなカフェやレストランが多数点在し、地元食材を活かした料理を楽しめる
  • 鎌倉(車で約30分):鎌倉大仏、鶴岡八幡宮、小町通りなど歴史と文化の街へも気軽にアクセス可能

Q&A

Q旧加地邸は宿泊しなくても見学できますか?
A旧加地邸は原則として一棟貸しの宿泊施設として運営されており、館内の見学は宿泊者に限られています。ただし、文化体験プラットフォームを通じた解説付き見学ツアーが不定期で開催されることがあります。最新の情報は葉山加地邸の公式サイトをご確認ください。
Q東京から旧加地邸へのアクセス方法を教えてください。
A東京方面からはJR横須賀線で逗子駅まで約60分。逗子駅東口バスロータリーから京急バス(山手回り葉山行きなど)に乗車し「旧役場前」バス停で下車、徒歩約1分です。バスの所要時間は約15〜20分です。お車の場合は、横浜横須賀道路の逗子インターから逗葉新道経由で約15分です。
Q旧加地邸と帝国ホテルにはどのような関係がありますか?
A旧加地邸を設計した遠藤新は、フランク・ロイド・ライトが設計した東京帝国ホテル(1923年竣工)の建設において主要スタッフとして深く関わりました。帝国ホテル完成からわずか5年後に設計された旧加地邸には、大谷石の多用、幾何学的な装飾パターン、プレーリースタイルの意匠など、帝国ホテルとの共通点が随所に見られます。このことから「小さな帝国ホテル」という愛称で親しまれています。
Q旧加地邸はバリアフリーに対応していますか?
A登録有形文化財としての建物の価値を保存するため、スロープの設置などバリアフリー化の工事はあえて行われていません。建物の構造上、階段や段差がございますので、車椅子をご利用の方や足の不自由な方のご利用は難しい場合がございます。ご了承ください。
Q遠藤新が設計した他の建築にはどのようなものがありますか?
A遠藤新の代表作としては、フランク・ロイド・ライトと共に手がけた自由学園明日館(東京都豊島区、重要文化財)や旧山邑家住宅(兵庫県芦屋市、現ヨドコウ迎賓館、重要文化財)、自ら設計した甲子園ホテル(現・武庫川女子大学甲子園会館)、自由学園目白講堂などがあります。旧加地邸は、これらの充実期の作品群の中でも特に重要な住宅作品と位置づけられています。

基本情報

名称 旧加地邸(きゅうかちてい)/ 葉山加地邸
文化財指定 国登録有形文化財(建造物) 登録年月日:2017年(平成29年)10月27日
登録基準 造形の規範となっているもの
設計者 遠藤新(えんどう あらた、1889〜1951)
竣工 1928年(昭和3年)
構造 木造一部鉄筋コンクリート造2階一部地下1階建、銅板葺、建築面積297㎡、延床面積約364㎡
所在地 〒240-0111 神奈川県三浦郡葉山町一色字菖蒲沢1706
所有者 株式会社ヨネヤマ
改修設計 神谷修平 / 株式会社カミヤアーキテクツ
アクセス JR逗子駅東口より京急バス「旧役場前」下車徒歩約1分(バス約15〜20分)。車:逗子ICより逗葉新道経由約15分
公式サイト https://kachitei.link/

参考文献

旧加地邸 - 文化遺産オンライン
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/389698
登録文化財 旧加地邸 - 葉山町
https://www.town.hayama.lg.jp/soshiki/shougaigakushuu/7/1/8408.html
住宅遺産トラスト:加地邸
https://hhtrust.jp/hh/kaji.html
葉山加地邸 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%89%E5%B1%B1%E5%8A%A0%E5%9C%B0%E9%82%B8
葉山加地邸【公式サイト】
https://kachitei.link/
葉山加地邸 | KAMIYA ARCHITECTS
https://kamiya-architects.com/projects/hayama-kachitei/
歴史的建造物の継承 葉山加地邸 | NENGO
https://nengo.jp/works/2020/10/kachitei/
「葉山加地邸」フランク・ロイド・ライトの高弟・遠藤新が設計した名建築を解説付きで巡る館内ツアー - Otonami
https://otonami.jp/experiences/kachitei/

最終更新日: 2026.03.27