海辺に佇む旧皇族別邸:旧東伏見宮葉山別邸の物語

神奈川県三浦郡葉山町の静かな海辺に、日本の皇室建築の貴重な遺産が今もなお残されています。イエズス孝女会修道院旧館として知られるこの建物は、大正3年(1914年)に東伏見宮依仁親王の別邸として建てられた洋館です。葉山に現存する唯一の皇族別荘であり、湘南地域全体を見渡しても関東大震災以前に建てられた皇族別荘はこの一棟のみという、極めて貴重な存在です。白い端正な外壁と特徴的な塔屋が、100年以上の時を経てなお気品ある佇まいを見せています。

歴史的背景

この別邸は、大正3年(1914年)に東伏見宮依仁親王(1867〜1922年)の海浜別荘として竣工しました。依仁親王は伏見宮邦家親王の子として生まれ、明治36年(1903年)に東伏見宮家を創立しました。イギリス・フランスへの留学経験を持ち、海軍軍人として活躍。横須賀鎮守府の長官も務め、三浦半島との縁が深い方でした。

竣工当時の敷地は、宅地のみで2,602坪、畑山林を含めると8,566坪(約28,300平方メートル)という広大なものでした。2階建洋館1棟、2階建和館1棟、平屋建和館1棟のほか、数棟の付属家、温室、四阿(あずまや)なども建てられていました。依仁親王の薨去後も別邸として存続しましたが、昭和26年(1951年)頃に天主公教横浜教区(カトリック横浜司教区)が引退聖職者の施設として取得し、翌年イエズス孝女会に譲渡されました。

昭和29年(1954年)には残存していた平屋和館に「あけの星幼稚園」が開設され、昭和46年(1971年)には新しい幼稚園等の建築資金を捻出するために敷地の一部が売却されました。昭和51年(1976年)に現在の修道院が完成したことに伴い洋館の改修工事が行われ、昭和62年(1987年)の改修時には煙突が撤去されました。現在の敷地は竣工当時の約30分の1ほどとなり、当初の建物群のうち洋館のみが現存しています。

文化財指定の理由

この建物は、平成29年(2017年)5月2日に「造形の規範となっているもの」という基準により、国登録有形文化財(建造物)に登録されました。登録の背景には、いくつかの重要な要素があります。

第一に、葉山に現存する唯一の皇族別荘であることです。葉山は明治27年(1894年)の御用邸設置以前から有栖川宮、北白川宮が別邸を置いたことが知られており、その後も東伏見宮、高松宮、秩父宮が別邸を構えました。しかし今日、それらのほとんどが失われ、現存するのはこの東伏見宮葉山別邸のみです。

第二に、湘南地域における関東大震災以前の皇族別荘として唯一の存在であることです。明治以降、鎌倉や大磯など湘南一帯に多数の皇族別荘が設けられましたが、大正12年(1923年)の関東大震災でその多くが失われました。震災以前に遡る皇族別荘は、この建物だけとなっています。

第三に、内外ともに気品を備えた優れた意匠を持ち、大正初期の皇室建築の高い水準を今に伝えていることが高く評価されています。

建築の見どころ

設計を手がけたのは木子幸三郎(きご こうざぶろう、1874〜1941年)です。宮内省内匠寮の技師であった父・木子清敬の次男として生まれ、東京帝国大学工科大学建築学科を修了後、宮内省内匠寮の嘱託として皇室関連の建築を数多く手がけました。東宮御所や竹田宮洋館(現高輪プリンスホテル洋館)などの設計でも知られています。

この建物の最も印象的な特徴は、住宅建築としては際立つ背の高さです。2階棟高は13.4メートル、3階塔屋の頂頂部まで15メートルに達します。白色のドイツ下見板張りの外壁は端正で美しく、石積みの基礎、平滑な壁面、鎧戸付きの上げ下げ窓、寄棟の大屋根が相まって、堂々とした風格ある外観を生み出しています。

南面に設けられた車寄せは、幅約3メートル、奥行き約5.4メートル、高さ約4メートルと極めて大きな規模を持ちながらも、欄間や軒飾りに施された軽快な幾何学装飾と、吹き寄せの格天井によって繊細で優雅な意匠を実現しています。建築の細部にはセセッション様式(ウィーン分離派)の要素が取り入れられており、この時代のヨーロッパの前衛的な建築思潮が日本の皇室建築にも影響を及ぼしていたことがうかがえます。

1階・2階の西側には広いサンルームが設けられ、海辺の別邸らしい開放的な構成となっています。2階には宮家特有の天井高のある和室も備えており、格式ある雰囲気を醸し出しています。構造は木造2階建、銅板葺で、建築面積は280平方メートル。経年により緑青に変化した銅板屋根と白い外壁のコントラストが、100年以上の歳月を経た建物にさらなる風格を与えています。

奇跡的に残された建物

この建物が現在まで残されていることは、まさに奇跡的といえます。大正12年(1923年)の関東大震災では、湘南沿岸の多くの洋館が倒壊・焼失しましたが、この別邸は無事に耐え抜きました。さらに第二次世界大戦後、多くの皇族・華族の邸宅がGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に接収され、損傷や荒廃を余儀なくされました。しかし、この建物はすでにカトリックの修道会に譲渡されていたため、接収を免れることができたのです。

修道院として継続的に使用されてきたことも、保存に大きく貢献しました。イエズス孝女会による丁寧な管理のもと、数十年にわたって維持されてきました。現在では、文化イベントやアートの展覧会に活用されるほか、結婚式場や宿泊施設としても利用されており、大正初期の皇室建築の洗練された雰囲気を直接体験することができます。

見学について

この建物は常時公開されているものではありません。隣接地にあけの星幼稚園が運営されているため、安全上の理由から許可なく敷地内に立ち入ることはできません。ただし、年間を通じて特別なイベントや展覧会が開催されることがあり、葉山芸術祭の期間中にはプログラムが組まれることもあります。内部の見学を希望される方は、葉山町のウェブサイトや地元のイベント情報をご確認ください。

建物の外観は周辺の道路から部分的に望むことができます。特徴的な白い外壁と塔屋は、堀内地区のいくつかの地点から見ることができます。

周辺の見どころ

旧東伏見宮葉山別邸は、葉山の風光明媚な海岸エリアの中心に位置しており、周辺の観光スポットと合わせて楽しむことができます。

  • 葉山しおさい公園 — 葉山御用邸付属邸の跡地に開設された公園。鯉が泳ぐ池のある日本庭園、噴井の滝、茶室「一景庵」があり、園内には昭和天皇が御下賜された標本を展示する「葉山しおさい博物館」も併設されています。
  • 一色海岸 — CNNの「世界の厳選ビーチ100」や環境省の「日本の水浴場88選」に選出された美しい海岸。葉山御用邸の目の前に広がり、「ロイヤルビーチ」とも呼ばれます。透明度の高い水質と落ち着いた雰囲気が魅力です。
  • 神奈川県立近代美術館 葉山館 — 一色海岸に面して建つ美術館。イサム・ノグチの作品をはじめとする野外彫刻が、美しい庭園の中に展示されています。
  • 山口蓬春記念館 — 日本画家・山口蓬春の邸宅を改装した記念館。建築家・吉田五十八設計の建物と、四季を通じて花が絶えない美しい庭園が公開されています。
  • 森戸大明神(森戸神社) — 源頼朝の創建と伝わる神社。海を望む境内からは、名島の鳥居越しに相模湾の絶景を楽しむことができます。

アクセス

JR横須賀線「逗子駅」または京急逗子線「逗子・葉山駅」より、京急バス「海岸回り葉山(一色)」行きに乗車し「向原」バス停下車、徒歩約2分。お車の場合は、横浜横須賀道路「逗子IC」より約30分です。

Q&A

Q旧東伏見宮葉山別邸はいつでも見学できますか?
A常時公開はされていません。隣接地に幼稚園があるため、許可なく敷地内に立ち入ることはできません。ただし、特別なイベントや展覧会の際に公開されることがありますので、葉山町のウェブサイトや地元のイベント情報をご確認ください。
Qこの建物を設計したのは誰ですか?
A宮内省内匠寮の嘱託として活躍した建築家・木子幸三郎(1874〜1941年)の設計です。東宮御所や竹田宮洋館(現高輪プリンスホテル洋館)などの皇室建築を数多く手がけたことで知られています。
Qなぜこの建物は文化財として重要なのですか?
A葉山に現存する唯一の皇族別荘であり、関東大震災(1923年)以前に建てられた皇族別荘としては湘南地域で唯一残る建物です。大正初期の洗練された皇室建築の意匠を今に伝える、極めて貴重な存在です。
Qイエズス孝女会とはどのような団体ですか?
A1834年にフランスで創立されたカトリックの女子修道会です。日本にも拠点を持ち、1953年頃にこの旧皇族別邸を譲り受けて修道院として使用してきました。敷地内では「あけの星幼稚園」も運営しています。
Q最寄りの駅からのアクセス方法を教えてください。
AJR横須賀線「逗子駅」または京急逗子線「逗子・葉山駅」から、京急バス「海岸回り葉山(一色)」行きに乗車し「向原」バス停で下車してください。バス停から徒歩約2分で到着します。

基本情報

名称 イエズス孝女会修道院旧館(旧東伏見宮葉山別邸)
種別 国登録有形文化財(建造物)
登録年月日 平成29年(2017年)5月2日
登録基準 造形の規範となっているもの
所在地 神奈川県三浦郡葉山町堀内字牛ケ谷1968
所有者 宗教法人イエズス孝女会
設計者 木子幸三郎(宮内省内匠寮嘱託)
竣工 大正3年(1914年)/昭和51年(1976年)・昭和62年(1987年)改修
構造 木造2階建、銅板葺、建築面積280㎡、塔屋付
アクセス 京急バス「向原」バス停下車 徒歩約2分(JR逗子駅または京急逗子・葉山駅よりバス)
備考 幼稚園併設のため、許可なく立ち入り・見学はできません。特別公開時のみ見学可能。

参考文献

登録文化財 イエズス孝女会修道院旧館(旧東伏見宮葉山別邸)|葉山町
https://www.town.hayama.lg.jp/soshiki/shougaigakushuu/7/1/8389.html
イエズス孝女会修道院旧館(旧東伏見宮葉山別邸) — 文化遺産オンライン
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/274702
国指定文化財等データベース — 文化庁
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/101/00011487
葉山町に残る唯一の皇族別荘「旧東伏見宮葉山別邸」 — ENJOYWORKS
https://enjoyworks.jp/times/092/
わが心の近代建築Vol.94 旧東伏見宮葉山別邸 — note
https://note.com/780210/n/n7d3d81b14139
木子幸三郎 — Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E5%AD%90%E5%B9%B8%E4%B8%89%E9%83%8E

最終更新日: 2026.03.27