御用邸に土地を譲り、山手へ移った別邸

旧金子堅太郎葉山別邸恩賜松荘は、神奈川県三浦郡葉山町一色にある大正11年(1922年)頃建築の木造平家建住宅で、令和3年(2021年)2月4日に国の登録有形文化財(建造物)に登録された。三ヶ岡の山裾を背負い、正面に一色の海を見下ろす斜面地に建つ。葉山御用邸までは徒歩数分の距離である。

建築面積199平方メートル。建物は南北二棟に分かれる。南棟は切妻造桟瓦葺の平家建で、玄関から居間、食堂へと続く。北棟は寄棟造桟瓦葺で、表側に座敷と食堂、背面に洋室などを配する。屋根の高さを抑え、斜面の傾きに沿わせているため、下の県道からその姿を認めるのは難しい。

建てたのは大日本帝国憲法の起草に加わった金子堅太郎(1853〜1942)。ただし、この場所は最初の別荘地ではない。大正8年(1919年)、海に近い旧地が宮内省に買い上げられ、金子は山側へ退いた。この一度の移転が、建物の性格をほぼ決めている。

金子堅太郎という人

福岡藩士の家に生まれ、藩校修猷館に学んだ。明治4年(1871年)、岩倉使節団に旧藩主の随行として加わり、私費留学生として渡米。ハーバード大学で法律学を修めている。

帰国後は伊藤博文のもとで井上毅・伊東巳代治とともに憲法草案の起草に参画し、明治22年(1889年)の発布に至る作業を担った。のちに農商務大臣、司法大臣を歴任し、枢密顧問官を務めた。

明治37年(1904年)2月、日露開戦に際して伊藤の要請で渡米する。ハーバード時代からの面識があったセオドア・ルーズベルト大統領との接触が期待された人選だった。金子は約1年半にわたり各地で講演と新聞への働きかけを重ね、当初ロシアに傾いていた米国世論の転換に努めた。ポーツマス講和会議が償金と樺太の帰属で行き詰まった局面では、全権小村寿太郎の依頼を受けて大統領と会見し、講和成立への援助を求めている。帰国は明治38年(1905年)10月。

昭和17年(1942年)5月没、89歳。晩年の住所は葉山だった。

御用邸が組み替えた土地

葉山が保養地として知られるきっかけは、明治20年前後に侍医ベルツと駐日イタリア公使マルティーノがこの海岸の気候を推奨したことにあるとされる。翌年には町内最初の別荘が建ち、明治22年(1889年)の横須賀線逗子駅開設で東京からの日帰りが可能になった。御用邸の完成は明治27年(1894年)である。

金子が最初に別荘を構えたのは明治20年代、現在の葉山一色公園付近。岩倉具定、井上毅の別荘が隣り合っていた。大正8年(1919年)、この三邸の敷地を宮内省が買い上げ、御用邸付属邸が設けられる。三人はそれぞれ移転した。

金子が現在地に移ったのは大正11年頃。移転に伴って旧宅の一部が移築されたと伝わるが、明治期創建の部材が実際にどれだけ持ち込まれたかとなると、限定的なものだったとみられている。葉山町の解説は、その移築部分にあたるのが皇太后の訪れた「松の間」であるとする。

大正12年(1923年)の関東大震災の後、この別邸はほぼ常住の住宅として使われた記録が残る。戦後に所有者が替わり、昭和30年(1955年)頃に増改築、平成19年(2007年)に改修が行われた。現在も個人の住まいである。

「松の間」の意匠

登録の評価が「上質な別邸」の語を用いるのは、主として座敷の造作による。

床の間には変木を床柱に立て、床脇に琵琶棚を設ける。部屋境の欄間は木彫ではなく銅板で、梅花のすかし模様に竹をあしらう。銅板の欄間は数が少ない。木は彫りやすく、安く、目にも柔らかい。あえて金属を選んだ判断には、この一室を他の部屋よりわずかに格の高いものとして扱う意図が読み取れる。

昭和30年頃の改修は、こうした造作を失わせかねない規模のものだった。実際にはそうならなかった。皇太后を迎えた部屋の記憶を継ごうとして、大正期の意匠を強く意識した手が入っている。平成19年の改修にも同じ姿勢が引き継がれている。

座敷まわりには銘木が用いられ、部屋ごとに造作の表情を変えている。同じ納まりを繰り返さないというのは、工期と予算に余裕のあった仕事の徴候である。

登録の理由

国の登録有形文化財は、重要文化財の指定とは制度上の性格が異なる。平成8年(1996年)に発足した登録制度は、築後おおむね50年を経た建造物を対象に、外観の変更などの際に届出を求める緩やかな保護を行う。所有者はそのまま住み続けることができる。恩賜松荘は「指定」ではなく「登録」の物件である。

登録番号は14-0289、第97回登録。登録告示・登録は令和3年2月4日。適用された基準は「造形の規範となっているもの」である。

葉山町の評価はもうひとつの論点を加える。海岸沿いの別荘が御用邸付属邸の建設によって山手へ移るという経緯そのものを、この建物が保持している点である。御用邸とともに歩んだ町の歴史が、一軒の家の位置に刻まれている。同じ日に、金子が米寿の年に建てた木造2階建の米寿荘も登録された。二棟は一体として理解するのが自然である。

訪れる場合に

一般公開はしていない。拝観時間も拝観料も設定されておらず、内部はもちろん敷地にも立ち入れない。個人の住宅であり、周囲の道は住宅地の生活道路である。建物へのカメラの向け方にも配慮が要る。

一方、周辺は公共の空間が多い。葉山しおさい公園は旧御用邸付属邸の跡地、つまり金子の最初の別荘があった一帯にあたる。付属邸の車寄せがしおさい博物館の玄関として残されている。近接する一色公園も同じ明治期別荘群にゆかりの土地である。

神奈川県立近代美術館葉山館は一色2208-1、屋外彫刻は無料で見られる。山口蓬春記念館は一色2320で、金子邸の区画とほとんど隣り合う。この三箇所をつなげば、一色の別荘地帯を1時間ほどで歩ける。

交通はバスによる。JR横須賀線逗子駅東口3番のりば、または京急逗子・葉山駅南口2番のりばから京浜急行バス逗11・逗12系統(海岸回り)に乗り、「三ヶ丘・神奈川県立近代美術館前」下車。所要は15〜20分ほどで、夏季の休日は海岸道路の渋滞で延びる。なお葉山御用邸そのものは撮影禁止で、門前でカメラを構えるだけでも制止される。

Q&A

Q旧金子堅太郎葉山別邸恩賜松荘は見学できますか?
Aできません。葉山町は一般公開していない旨を明記しています。個人の住宅で、拝観時間・拝観料の設定はなく、内部にも敷地にも立ち入れません。周辺は住宅地ですので、通行の際はご配慮ください。
Q旧金子堅太郎葉山別邸恩賜松荘はいつ、誰が建てた建物ですか?
A大正11年(1922年)頃、大日本帝国憲法の起草に加わり農商務大臣・司法大臣を務めた金子堅太郎(1853〜1942)の別邸として建てられました。金子は明治20年代から海寄りに別荘を構えていましたが、大正8年に御用邸付属邸の用地として買い上げられ、現在地へ移っています。昭和30年頃に増改築、平成19年に改修されました。
Q旧金子堅太郎葉山別邸恩賜松荘の「恩賜」という名の由来は何ですか?
A「恩賜」は天皇・皇后から賜ることを指す語、「松」は主室である「松の間」に通じます。ただし命名の経緯を直接示す資料は確認できていません。皇太后が松の間を訪れたという伝えとの関係は推測にとどまります。
Q旧金子堅太郎葉山別邸恩賜松荘の最寄り駅とアクセスは?
AJR横須賀線逗子駅、または京急逗子・葉山駅から京浜急行バス逗11・逗12系統(海岸回り)で15〜20分、「三ヶ丘・神奈川県立近代美術館前」下車です。一色2311の各番地は県道より一段高い斜面にあり、神奈川県立近代美術館葉山館と山口蓬春記念館の間に位置します。
Q旧金子堅太郎葉山別邸恩賜松荘は重要文化財ですか、登録有形文化財ですか?
A国の登録有形文化財(建造物)です。登録制度は平成8年に始まった緩やかな保護の仕組みで、築後おおむね50年を経た建造物を対象とし、現に使われている建物を届出制で守ります。規制の強い重要文化財の「指定」とは制度が異なります。登録番号は14-0289です。

基本情報

名称旧金子堅太郎葉山別邸恩賜松荘(きゅうかねこけんたろうはやまべっていおんしまつそう)
所在地神奈川県三浦郡葉山町一色字三ケ岡2311-1
指定区分国登録有形文化財(建造物)/登録番号 14-0289/登録基準「造形の規範となっているもの」
指定年令和3年(2021年)2月4日登録(第97回登録)
員数1棟
寸法木造平家建、瓦葺、建築面積199平方メートル/大正11年頃建築、昭和30年増改築、平成19年改修
所有者個人(文化庁データベースに所有者名の記載なし)
公開状況非公開(一般公開なし、内部・敷地とも立入不可)

参考文献

文化庁 国指定文化財等データベース — 旧金子堅太郎葉山別邸恩賜松荘
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/101/00013516
葉山町 — 登録文化財 旧金子堅太郎葉山別邸恩賜松荘
https://www.town.hayama.lg.jp/soshiki/shougaigakushuu/7/1/11855.html
文化遺産オンライン — 旧金子堅太郎葉山別邸恩賜松荘
https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/588620
逗子葉山経済新聞 — 葉山町の旧金子堅太郎葉山別邸、国登録有形文化財に
https://zushi-hayama.keizai.biz/headline/359/
葉山町 — 文化財一覧
https://www.town.hayama.lg.jp/soshiki/shougaigakushuu/7/1/index.html

最終更新日: 2026.08.13