月華殿 ― 徳川家康ゆかりの伏見城遺構が三溪園に伝える桃山の風雅

横浜・本牧の三溪園内苑にひっそりと佇む月華殿(げっかでん)は、慶長8年(1603年)、徳川家康が京都・伏見城内に建てたと伝えられる由緒ある建物です。家康が征夷大将軍に任じられたまさにその年、諸大名が登城の際に控えの間として用いた格式ある一室が、四世紀の時を超え、今は横浜の日本庭園に移されて静かに往時の面影を伝えています。重要文化財に指定されたこの建物は、桃山時代の華やぎと江戸初期の品格を併せ持ち、訪れる人を遥かな歴史へと誘います。

緑に包まれた静謐な佇まい

三溪園内苑の小径を辿ると、檜皮葺の入母屋屋根がしっとりと木々の緑に溶け込む月華殿が現れます。入口に掲げられた扁額は、三溪園を造営した原三溪自身の筆によるもの。三方を縁が囲み、控えめながら端正なその姿は、武家の格式と数寄の美学を併せ持つ独特の雰囲気を漂わせています。簡素に見える外観の内側には、桃山絵画と精緻な彫刻が秘められており、近くで見るほどに奥深い魅力を見せてくれます。

歴史的背景:伏見城から宇治を経て横浜へ

月華殿の歩みは、京都・宇治・横浜の三都市にまたがる稀有な軌跡を描いています。伝承によれば、慶長8年(1603年)、徳川家康によって京都・伏見城内に建てられ、諸大名が登城の際に休息するための控えの間として使われたといわれています。家康が江戸幕府を開いたまさにその年に建てられた建物として、江戸時代の幕開けを静かに見つめてきた由緒ある一棟です。

京都・宇治の三室戸寺金蔵院へ

伏見城が解体された後、月華殿は京都府宇治市の三室戸寺の塔頭・金蔵院に移されました。ここでは長く客殿として用いられ、付属する小さな茶室とともに大切に伝えられてきました。城郭建築としての出自を保ちながら、寺院建築の一翼を担うという第二の人生を送ったわけです。

大正7年、三溪園への移築

大正7年(1918年)、生糸貿易で財を成した実業家にして茶人でもあった原三溪(原富太郎、1868–1939)は、京都・宇治の三室戸寺金蔵院から月華殿と付属の茶室を譲り受け、横浜の三溪園内苑へ移築しました。この移築の際、運搬のために解体した部材を一本ずつ丁寧に新しい晒し布で巻いて運んだと伝えられており、原三溪が古建築をいかに大切に扱ったかを物語る逸話として知られています。再建にあたっては、付属していた茶室を月華殿から切り離して独立させ、現在の春草廬(しゅんそうろ)として整備しました。春草廬もまた、現在は重要文化財に指定されています。

重要文化財に指定された理由

月華殿は昭和6年(1931年)に旧国宝に指定され、戦後の文化財保護法施行に伴って重要文化財として再指定されました。その価値は、いくつもの稀有な要素が一棟の建物に凝縮されている点にあります。

失われた伏見城の面影を伝える遺構

伏見城そのものは江戸時代初期に廃城となり、現存していません。そのため、伏見城内に建てられたと伝わる月華殿は、徳川家康が政権を握った時代の城郭建築の様式や雰囲気を今に伝える、きわめて貴重な建物といえます。

海北友松筆と伝わる障壁画

月華殿の内部は、竹の間(たけのま)と檜扇の間(ひおうぎのま)の二室を主体とし、その名のとおり、襖や壁面には竹と檜扇(折りたたみ式の扇)を主題とした絵が描かれています。これらの障壁画は、桃山時代を代表する絵師・海北友松(1533–1615)の筆によるものと伝えられています。竹を勢いよく描いた襖、檜扇を散らしたように描いた屏風絵は、力強い筆線と省略の美を特色とする友松様式の魅力を伝え、桃山絵画の華やぎと、ある種の古拙な趣を兼ね備えています。

菊の透かし彫りの欄間

襖の上部には、菊の意匠を透かし彫りにした欄間が設えられています。皇室や秋の風雅と結びついて古来詠われてきた菊の花は、ここでは抽象化された文様として表現され、過剰な装飾を避けつつ室内に格式を添えています。

魅力・見どころ

内部が通常非公開であっても、月華殿は外側からその魅力を十分に味わうことができます。建物そのものに刻まれた歴史の層を、ゆっくり眺めてみてください。

檜皮葺と杮葺の屋根

月華殿の屋根は、伝統建築のなかでも最も手間のかかる工法のひとつである檜皮葺(ひわだぶき)で葺かれ、縁に張り出す庇は薄板を用いた杮葺(こけらぶき)で仕上げられています。この組み合わせは、桃山から江戸初期にかけての高い格式を備えた建物に特有のものです。2024年には保存修理事業が完了し、屋根の葺替や耐震補強が施され、姿は端正に整えられています。

アプローチと周辺の景観

かつて月華殿は、内苑の中心をなす臨春閣の第三屋裏手から続く登楼によってつながっていたといいます。現在は独立して建っていますが、苔むした石、季節の花、せせらぎを眺めながら歩く小径そのものが、原三溪の構想した日本庭園の魅力を体現しています。入口の扁額が原三溪自身の筆によるものという点も、訪れた人にこの庭園が一人の数寄者の美意識から生まれたことを実感させてくれます。

特別公開の機会

月華殿の内部は通常非公開ですが、保存修理の完了などにあわせて特別公開がおこなわれることがあります。海北友松筆と伝わる障壁画や菊の欄間を間近に鑑賞できる貴重な機会となりますので、訪問前に三溪園公式サイトの案内を確認されることをおすすめします。

三溪園の周辺情報:17棟の歴史的建造物が織りなす日本庭園

月華殿は、三溪園に集められた17棟の歴史的建造物のうちの一棟です。三溪園そのものも平成19年(2007年)に国の名勝に指定されています。月華殿から徒歩圏内で、以下のような名建築をあわせて巡ることができます。

  • 臨春閣(重要文化財)― 紀州徳川家ゆかりの江戸初期の数寄屋風書院造
  • 春草廬(重要文化財)― かつて月華殿に付属していた茶室
  • 天授院(重要文化財)― 鎌倉・心平寺跡から移築された江戸初期の禅宗様地蔵堂
  • 旧燈明寺三重塔(重要文化財)― 室町時代の塔で、三溪園のランドマーク
  • 旧矢箆原家住宅(重要文化財)― 飛騨白川郷から移築された豪壮な合掌造民家
  • 鶴翔閣(横浜市指定有形文化財)― 原三溪が私邸として用いた建物

約17.5ヘクタールの広大な敷地には、大池や蓮池、起伏に富んだ丘陵が配置され、梅、桜、花菖蒲、蓮、紅葉と、四季折々の表情を楽しむことができます。

来園案内・アクセス

三溪園は、横浜市中区本牧の海沿いに広がる日本庭園で、市街中心部からほど近いながら、別世界のような静けさを感じられる場所です。年末を除き通年で開園しています。

おすすめの行き方

横浜市内中心部からはJR根岸線の根岸駅で下車し、市営バスで「本牧」停留所まで約10分、そこから徒歩約10分が一般的なルートです。また、横浜駅東口から直行のバス便も運行されています。お車でお越しの場合は、首都高速湾岸線の本牧埠頭ICまたは新山下IC(下り車線)を利用するのが分かりやすいでしょう。駐車場は台数に限りがあり、梅や桜、紅葉のシーズンは混雑するため、公共交通機関のご利用をおすすめします。

Q&A

Q月華殿の内部に入って見学することはできますか。
A通常は内部非公開で、外苑から外観をご覧いただく形となります。ただし、保存修理事業の完了を記念した特別公開などが折々に開催されています。また、有料貸出施設として、お茶会や句会などの文化行事の会場としても利用可能です。最新の公開情報は、三溪園公式サイトをご確認ください。
Q徳川家康との関わりは確かなのでしょうか。
A三溪園や文化財関連資料には、慶長8年(1603年)に徳川家康が伏見城内に建てた諸大名の控えの間であったと「伝えられている」と記されています。文書記録によって厳密に確認されているわけではありませんが、江戸初期という建築年代と高い格式の意匠は、その伝承と矛盾しないものです。
Q障壁画は誰の作品とされていますか。
A竹の間と檜扇の間に描かれた襖絵・障壁画は、桃山時代を代表する絵師・海北友松(かいほうゆうしょう、1533–1615)の筆と伝えられています。武家の出身ながら絵師として大成した友松は、京都の寺院や公家の障壁画など多くの大作を残した名匠です。
Q三溪園の見学にはどのくらい時間がかかりますか。
A外苑と内苑をひと通り散策し、古建築を巡って茶屋でひと休みする場合、おおむね2〜3時間ほどを目安にお考えいただくとゆとりを持って楽しめます。
Qいつ訪れるのがおすすめですか。
A2月の梅、3月下旬から4月上旬の桜、初夏の花菖蒲や蓮、11月から12月初旬の紅葉と、四季を通じて見どころがあります。特に桜と紅葉のシーズンには夜間特別開園が実施されることもあり、いつもとは異なる幻想的な景色をお楽しみいただけます。

基本情報

名称 月華殿(げっかでん)
指定区分 重要文化財(建造物)― 昭和6年(1931年)旧国宝指定、戦後に重要文化財として再指定
建築年代 慶長8年(1603年)/江戸時代初期
創建地(伝承) 京都・伏見城内
移築の経緯 京都・宇治の三室戸寺金蔵院に移築の後、大正7年(1918年)に三溪園へ移築
建築様式 一重、入母屋造、檜皮葺、庇杮葺
構成 竹の間、檜扇の間および三面の縁
主な内部意匠 伝・海北友松筆の障壁画(竹・檜扇)、菊の透かし彫りの欄間
所有 公益財団法人三溪園保勝会
所在地 神奈川県横浜市中区本牧三之谷58番1号(三溪園内)
三溪園 開園時間 9:00〜17:00(最終入園16:30)/12月29日〜31日休園
三溪園 入園料 大人900円、小・中学生200円(最新情報は公式サイトをご確認ください)
アクセス JR根岸駅から市営バス約10分「本牧」停留所下車、徒歩約10分

参考文献

月華殿|横浜 三溪園
https://www.sankeien.or.jp/learn/facilities/gekkaden/
古建築|横浜 三溪園
https://www.sankeien.or.jp/learn/facilities/
月華殿 - 文化遺産オンライン
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/199509
三溪園 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%BA%AA%E5%9C%92
【横浜三溪園】重要文化財「旧東慶寺仏殿」「月華殿」内部を特別公開(横浜市プレスリリース)
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000001362.000013670.html
重要文化財|月華殿(横浜・三溪園)|文化遺産見学案内所
https://bunkaisan.exblog.jp/29668147/
交通アクセス|横浜 三溪園
https://www.sankeien.or.jp/access/

最終更新日: 2026.05.06