英虞湾を見下ろす昭和九年の隠居所
旧猪子家住宅主屋は、三重県志摩市阿児町神明にある木造平屋建の住宅で、昭和9年(1934年)に建てられ、平成30年(2018年)3月27日に国の登録有形文化財に登録された。賢島の対岸、南に傾く高台に南面して建ち、英虞湾の入り組んだ入江を眼下に置く。
建てたのは猪子彌平。明治13年(1880年)に四国で生まれ、保険会社で各地の支店長などを歴任したのち、退職後の住まいとしてこの斜面地を選んだ。建築面積は登録原簿で95平方メートル、志摩市の発表では95.2平方メートルとされる。
その95平方メートルに、設計者は驚くほど多くの起伏を仕込んでいる。玄関部と台所部がそれぞれ主屋から前方へ張り出し、双方に入母屋造の屋根が架かる。近づいていくと、屋根面が三枚重なり合って見え、単一の棟が伸びる平屋という印象にはならない。農家住宅よりも小規模な別荘建築に近い性格である。
同じ日に、敷地内の土蔵(19.8平方メートル)と門柱(間口3.0メートル)も登録された。いずれも昭和9年の建築で、屋敷構えが一式そろって残る点に価値がある。
座敷飾りと漆塗りの格天井
内部は、昭和初期の住宅が広く共有していた和洋二本立ての構成をとる。ただし、これほど手を抜かずに両方をつくり込み、しかも両方が残った例はそう多くない。
和室には床と付書院を含む座敷飾りが備わる。欄間には彫刻が入るが、その主題については資料に食い違いがある。文化庁の国指定文化財等データベースは松と鶴とし、志摩市の登録発表は松竹梅などとする。いずれも吉祥文様として定型のある組み合わせで、本稿では両説を併記するにとどめた。
玄関脇の一室は性格が異なる。旧書斎にあたる洋間で、壁は漆喰塗、建具はガラス戸、天井は格天井を漆塗りで仕上げる。格天井は本来、仏堂や格式の高い座敷に用いる形式である。それを私邸の書斎に持ち込み、さらに漆を塗らせたところに、施主の懐具合と好みの両方が出ている。
登録基準は「造形の規範となっているもの」。登録有形文化財の三基準のうち最も適用の狭いもので、歴史的景観への寄与や再現の困難さではなく、意匠そのものが規範たりうると判断された場合に用いられる。
荒廃から修復へ、そして「いのこ野」
建物は二〇一〇年代に入る頃には傷みが進んでいた。平成25年(2013年)、竹内和彦・千鶴夫妻がインターネットでこの2800坪の土地を見つけて購入し、竹の伐採、樹木の整理、排水の土木工事から着手する。主屋と蔵の修復を経て、登録に至った。文化審議会の答申は平成29年11月、告示は翌年3月で、資料によって登録年が2017年と記されることがあるのはこのためである。
現在、敷地は「いのこ野」の名で運営されている。命名は現代美術家の村井啓乘による。猪子家にちなむ「いのこ」をかな書きとし、既成の枠組みを感じさせない一字として「野」を残す、という説明が運営者のサイトに掲載されている。
主屋の東側には、平成30年から令和3年(2021年)にかけて延べ80人の手を借りて建てられた木造小住宅「いかだ丸太の家」が並ぶ。気候風土適応住宅の認定を受け、中部建築賞、三重県建築賞会長賞、第1回みえの木建築コンクール最優秀賞などを受けた。桜や楠、ウバメガシの林を背に、昭和9年の大工仕事と現代の木造がひとつの敷地で並ぶ状態は、比較の材料としてかなり贅沢である。
訪問にあたって押さえておくべき点がある。いのこ野は開館時間を定めた公開施設ではなく、私有地を創造と交流の場として運営しているものである。利用は運営者への申込制で、利用規程・利用案内・申込用紙がいずれも公式サイトに掲出されている。格天井を見たい向きは、門前に立つ前に書面で連絡を入れる必要がある。
行き方と周辺
最寄りは近鉄志摩線の終点・賢島駅で、敷地はその対岸にあたる。賢島は名古屋から特急でおよそ2時間30分、大阪難波からおよそ2時間20分。駅からは入江を回り込む形で車を使うのが早い。
英虞湾は、この一帯を訪れる理由そのものといってよい。真珠養殖の筏が浮かぶリアス海岸で、平成28年(2016年)のG7伊勢志摩サミットは賢島で開かれた。志摩市の登録有形文化財(建造物)は全部で8件あり、そのうち賢島港に面する松井真珠店店舗(昭和4年/2021年登録)は、二階手摺に松の図柄を彫り抜いた木造二階建の店舗建築で、旧猪子家住宅と併せて見ると、真珠産業が地域を潤していた時期の空気が二方向から見えてくる。
公道からの外観撮影に制限はない。敷地内での撮影については、申込が受理された際に運営者が示す条件に従うことになる。
Q&A
- 旧猪子家住宅主屋の内部は見学できますか。予約は必要ですか。
- 自由見学はできません。敷地は私有地で、「いのこ野」として申込制で運営されています。利用規程と申込用紙が運営者の公式サイトに掲載されており、内部を見たい場合は事前に申し込む必要があります。
- 旧猪子家住宅主屋はいつ、誰のために建てられたのですか。
- 昭和9年(1934年)の建築で、施主は明治13年に四国で生まれた猪子彌平です。保険会社で各地の支店長などを務めたのち、退職後の住居として建てました。昭和中期と平成27年から29年にかけて改修が行われています。
- 旧猪子家住宅主屋の文化財としての区分と登録年を教えてください。
- 国の登録有形文化財(建造物)で、平成30年(2018年)3月27日の登録、登録番号は24-245、第89回登録分です。登録基準は「造形の規範となっているもの」が適用されています。
- 旧猪子家住宅主屋へは賢島駅からどう行けばよいですか。
- 近鉄志摩線の終点・賢島駅の対岸にあたり、入江を回り込む形で車を使うと早く着きます。賢島駅までは名古屋から特急で約2時間30分、大阪難波から約2時間20分です。
- 旧猪子家住宅の主屋以外に登録されている建物はありますか。
- 土蔵(19.8平方メートル)と門柱(間口3.0メートル)が主屋と同日に登録されており、いずれも昭和9年の建築です。ほかに、同じ敷地には令和3年に完成した現代の木造住宅「いかだ丸太の家」が建っています。
基本データ
| 名称 | 旧猪子家住宅主屋(きゅういのこけじゅうたくしゅおく) |
|---|---|
| 所在地 | 三重県志摩市阿児町神明前方693-8 |
| 指定区分 | 国登録有形文化財(建造物) 登録番号24-245 |
| 指定年 | 平成30年(2018年)3月27日登録 第89回登録 |
| 員数 | 1棟 |
| 寸法 | 木造平屋建、瓦葺、建築面積95平方メートル(志摩市発表は95.2平方メートル) |
| 所有者 | 個人(「いのこ野/志摩クリエイターズオフィス」として運営) |
| 公開状況 | 自由見学不可。運営者への申込制 |
参考文献
- 文化庁 国指定文化財等データベース 旧猪子家住宅主屋
- https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/101/00012163
- 文化遺産オンライン 旧猪子家住宅主屋
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/417282
- 志摩市 志摩市阿児町にある「旧猪子家住宅」が登録有形文化財(建造物)に登録されました
- https://www.city.shima.mie.jp/kakuka/kyouiku/syogaigakusyusportska/bunkazaimaizobunkazai/1510912884740.html
- いのこ野 inocono 公式サイト
- https://www.inocono-shima.com/
最終更新日: 2026.08.10