諏訪湖を見下ろす丘に並ぶ、7代の藩主墓
諏訪市湯の脇、臨済宗の禅寺・温泉寺の裏山を150メートルほど登ると、参道の正面に7基の石造墓標が並ぶ場所に出る。一基あたり高さおよそ3メートル、幅は約3.2メートル。方形3段の基壇の上に、頂部が丸い舟形の標身を載せた独特の形である。慶長6年(1601年)から明治維新まで信濃高島藩を治めた諏訪家の、2代忠恒(ただつね)から8代忠恕(ただみち)までの7人の藩主が眠る。
初代藩主・諏訪頼水(よりみず)は、ここから車で15分ほどの茅野市ちのの頼岳寺に、父頼忠・母理昌院とともに祀られている。両墓所をあわせた「高島藩主諏訪家墓所」は、平成29年(2017年)2月9日に国の史跡に指定された。指定基準は「七.墳墓及び碑」、面積は両墓所あわせて1,495.13平方メートルになる。
同一家による270年近い藩政、すべて領内に営まれた歴代藩主の墓、形を揃えた巨大な石造墓標、そして100基を超える献納石灯籠──地方大名の墓所がこれほど良好な状態で残っている例は全国的にもまれだ。
諏訪氏──大祝家から大名家へ
諏訪氏は古代以来、信濃国一宮諏訪大社上社の大祝(おおほうり)を代々務めた家柄である。鎌倉時代には北条得宗家の被官、室町時代には幕府奉行人として記録に現れる。武士というよりは神職としての性格の方が長く、戦国期に入って惣領と大祝を兼ねた諏訪頼重が天文11年(1542年)に武田晴信(信玄)の侵攻によって自害させられたとき、家は一度断絶しかける。
従弟の頼忠が天文16年(1547年)に上社大祝に就き、家を立て直した。天正11年(1583年)、徳川家康が頼忠に旧領を安堵。天正18年(1590年)の小田原征伐ののち、家康の関東移封に従って武蔵国奈良梨、ついで上野国惣社へと所領を移した。
復領の契機は関ヶ原だった。頼忠の子・頼水は徳川秀忠軍に従って信濃上田城を攻め、その功で慶長6年10月(1601年)、諏訪に2万7千石で戻る。以後、諏訪家は明治維新まで一度の転封もなく高島藩主であり続けた。江戸時代を通じて転封のなかった大名家は決して多くない。
国史跡に指定された理由
指定理由を要約すれば、近世大名の墓所のあり方を知る上で重要な事例である、ということになる。具体的に挙げられた特徴はいくつかある。
第一に、墓標の形式そのものの特異さ。標身は禅僧の無縫塔(むほうとう)を半截した「舟形」とよばれる形をとり、それを方形3段の安山岩製基壇の上に載せる。同形式の墓標が、2代から8代まで7基揃って残るのは珍しい。形の統一は、ひとつの家系が代を継いで眠っているということを、視覚として伝える。
第二に、2代忠恒の墓標に施された装飾。戒名の刻字部分には金泥が充填され、標身の継ぎ目には漆喰が詰められている。風雨に晒される野外の石造墓でこれほど残るのは稀である。
第三に、献納石灯籠の規模。参道の両側に100基を超える石灯籠が、各藩主墓の正面に列をなす。一基一基が家臣による奉納で、藩政期の主従関係を石の名簿として残している。中央参道脇のエリアは現在、保護のため立ち入り禁止になっている。
そして第四に、頼岳寺の御霊屋(おたまや)の存在。初代頼水の祀られる安政6年(1859年)再建の建物が良好に残り、宝篋印塔・五輪塔・石廟といった異なる石造形式が一棟のなかに収まる。江戸初期の藩祖をどう祀ったかを物的に確認できる、貴重な現存例である。
温泉寺──2代から8代までの7基
臨江山温泉寺は、慶安2年(1649年)に2代藩主・諏訪忠恒が高島城下に建てた菩提寺で、宗派は臨済宗妙心寺派。城跡から北東へ約1.3キロ、諏訪湖を望む丘陵の縁辺にある。本堂は明治3年(1870年)の火災後、高島城内にあった能舞台を移築して再建されたもので、丸みのある屋根の輪郭はそうした出自による。山門も高島城の薬医門の遺構である。
墓所は寺の裏山、参道を150メートルほど登った先にある。3段の平場に造成され、最上段が藩主墓7基、中段に側室や子供たちの墓、下段は現在も使われている一般墓地という構成になる。藩主墓は基壇を含めて高さ約3メートル、幅約3.2メートル。すべて共通形式である。
例外は2代忠恒の墓で、3代忠晴が寛文13年(1673年)に建立した木造宝形造の御霊屋があった。建物は経年劣化のため平成19年(2007年)に解体され、部材は保存されている。現在は仮覆屋が墓標を守っている形だ。創設者を他の藩主から一段区別する意識は、御霊屋の有無として今も読みとれる。
諏訪市教育委員会の発掘調査により、8代忠恕墓の前面に石畳の参道が検出されている。墓所全体は当初、現在見えるよりもさらに整備された形だった可能性が指摘されている。
頼岳寺──初代と両親の御霊屋
初代頼水の墓は、温泉寺墓所から15キロほど離れた茅野市ちのの少林山頼岳寺にある。宗派は曹洞宗、本山は永平寺と總持寺。寛永8年(1631年)、頼水自身が群馬・雙林寺十三世大通関徹を招いて開基した。中世以来の諏訪氏の本拠だった上原城跡の西麓に位置し、家の起源と直結する立地である。
頼水は本来、新たな菩提寺を高島城下に建立する予定だったが、寛永18年(1641年)に72歳で没し、計画を果たさないまま父頼忠のそばに葬られた。子の忠恒が父の遺志を継ぎ、後年に温泉寺を建てて新たな菩提寺としたことになる。
本堂左脇の石階段の参道を上がると、入母屋造瓦葺、軸部と外壁を朱塗りにした御霊屋が建つ。桁行約8.2メートル、梁行約3.6メートルの木造平屋。現在の建物は安政6年(1859年)に頼岳寺の火災後に再建されたもので、内部は3室に区分される。中央が父頼忠の部屋で宝篋印塔と五輪塔の対、右が母理昌院の部屋で同じく宝篋印塔と五輪塔の対、左が頼水の部屋で、安山岩製の石廟が収められている。同じ建物の中に石造遺物の三つの形式が並列するのは、ほかにあまり例がない。
境内には大祝家・二之丸家老など重臣たちの墓地も多く残る。藩主のすぐ脇に、藩を支えた家臣団が同時代から眠っているわけで、江戸初期の藩主と家臣の関係をうかがう資料としても貴重である。
見学にあたって
両墓所とも自由に見学できる。拝観料は不要、予約も要らない。ただし石造物には絶対に触れないこと──石灯籠も墓標も、必ずしも固定されているわけではなく、倒壊の危険がある。温泉寺の中央参道脇に並ぶ石灯籠群のエリアは保護のため立ち入り禁止になっている。
温泉寺へはJR上諏訪駅から徒歩約15分。住宅街を抜けて寺の右手の参道を150メートルほど登る。専用駐車場のほか、近接する湯の脇ふれあい広場児童遊園の駐車場が利用できる。境内の散策には30分ほどみておきたい。
頼岳寺へはJR茅野駅から諏訪バス岡谷線で約10分、頼岳寺下バス停下車徒歩5分。中央道諏訪ICからは車で約7分。現役の修行寺なので、本堂周辺では静粛を心がけたい。
10月末から11月初めには「お殿様が愛した諏訪三山紅葉巡り」が催され、温泉寺・長円寺・仏法紹隆寺の三寺で夜間ライトアップと特別御朱印が用意される。温泉寺の境内には樹齢約370年と伝わる枝垂れ桜「忠恒桜」もあり、春の参拝にもふさわしい。
あわせて訪ねたい周辺
諏訪は温泉と諏訪湖で知られる土地で、温泉寺の足元、湯の脇地区は古くからの湯治場でもある。徒歩圏に共同浴場がいくつかあり、墓参のあと一息つくには向いている。藩主たちが日々眺めていた高島城(復元天守)も南西へ1.3キロほど。湖水を引き込んだ堀越しの天守は、温泉寺墓所と合わせて訪れたい。
茅野側からは諏訪大社上社本宮・前宮へ車で10分ほど。諏訪家のルーツである大祝家が代々奉仕した社で、墓所と諏訪大社をあわせて巡ると、神職の家がどのように大名家へと姿を変えていったかが見えやすくなる。
歴史好きには、頼岳寺の背後に控える金比羅山頂上の上原城跡もおすすめできる。標高976メートル、登山道で約40分の道のりで、戦国期の諏訪氏が拠点とした山城跡からは諏訪盆地が一望できる。一族がなぜここを長く本拠としたかが、視覚的に納得できる場所である。
Q&A
- なぜ墓所が2か所に分かれているのですか?
- 初代頼水は新たな菩提寺を高島城下に建てようとしましたが、果たせないまま寛永18年(1641年)に没し、すでに開基していた頼岳寺に父頼忠の隣に葬られました。2代忠恒が父の構想を継いで慶安2年(1649年)に温泉寺を建立し、以降の歴代藩主はすべて温泉寺に葬られています。
- 頼岳寺の御霊屋の中に入れますか?
- 朱塗りの御霊屋は外観のみの拝観となり、頼忠・理昌院・頼水を祀る3室の内部に一般の参拝者が立ち入ることはできません。ただし建物全体は参道から間近に見ることができます。
- 温泉寺の墓標はなぜあのような独特の形をしているのですか?
- 禅僧の墓塔である無縫塔を半截した「舟形」の標身を、方形3段の基壇に載せた形です。大名家の墓標としては珍しい形式で、2代から8代まで7基すべて同形に統一されていることが、ひとつの家系が代々眠っていることを示しています。
- 拝観料はかかりますか?
- いずれの墓所も拝観料は不要で、日中であれば自由に見学できます。ただし石灯籠・墓標とも経年で固定が弱くなっているため、絶対に触れないでください。中央参道脇の石灯籠エリアは立ち入り禁止です。撮影は可能です。
- いつ訪れるのが良いでしょうか?
- 10月末から11月初めは紅葉が美しく、「お殿様が愛した諏訪三山紅葉巡り」で温泉寺がライトアップされます。春は樹齢約370年と伝わる「忠恒桜」が見ごろを迎えます。夏は標高が高いので朝夕は涼しく、墓所参拝には穏やかな季節です。
基本情報
| 名称 | 高島藩主諏訪家墓所(たかしまはんしゅすわけぼしょ) |
|---|---|
| 指定区分・年月日 | 国史跡(平成29年2月9日/2017年)。指定基準「七.墳墓及び碑」 |
| 面積 | 1,495.13㎡(温泉寺墓所1,283.77㎡+頼岳寺墓所211.36㎡) |
| 時代 | 江戸時代(17〜19世紀) |
| 温泉寺墓所所在地 | 長野県諏訪市湯の脇1-21-1(臨江山温泉寺)/〒392-0002 |
| 頼岳寺墓所所在地 | 長野県茅野市ちの1753(少林山頼岳寺)/〒391-0001 |
| 温泉寺アクセス | JR上諏訪駅から徒歩約15分 |
| 頼岳寺アクセス | JR茅野駅から諏訪バス岡谷線で約10分、頼岳寺下バス停下車徒歩5分/中央道諏訪ICから車で約7分 |
| 拝観 | 無料、日中自由(事前予約不要) |
| 温泉寺電話 | 0266-52-2052 |
| 頼岳寺電話 | 0266-72-3027 |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)「高島藩主諏訪家墓所」
- https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/401/00003966
- 文化遺産オンライン(国立情報学研究所)「高島藩主諏訪家墓所」
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/377264
- 諏訪市公式ホームページ「国史跡 高島藩主諏訪家墓所」
- https://www.city.suwa.lg.jp/site/bunkazai/2158.html
- 茅野市公式ホームページ「高島藩主諏訪家墓所が国の史跡に指定されました」
- https://www.city.chino.lg.jp/site/jomon/1850.html
- 少林山賴岳寺 公式ホームページ
- http://www.raigakuji.or.jp/guide.html
- 諏訪観光協会公式サイト「温泉寺」
- https://www.suwakanko.jp/attraction/温泉寺/
最終更新日: 2026.05.18