長島のハンセン病療養所、邑久光明園に残る五件の登録有形文化財
瀬戸内海の東部、岡山県瀬戸内市の沖に長島という小島がある。二十世紀の大半を通じて、この島には国立のハンセン病療養所が二つ置かれ、昭和六十三年に橋が架かるまで、島へ渡る手段は船だけだった。その一方が邑久光明園である。平成三十一年三月、文化庁はこの園内の五件を登録有形文化財に加えた。恩賜会館、旧裳掛小・中学校第三分校、奉安殿、物資運搬斜路、そして石造の瀬溝桟橋である。
これらは記念碑的な建造物ではない。法によって入所を強いられ、退所を許されなかった人々の共同体が、日々を営むために用いた施設そのものである。五件を通して読むと、海で本土から隔てられた集落がどのように機能したかが見えてくる。隔離政策のもとに置かれた療養所の姿が、そのまま物質として残されている。
長島への移転
この療養所は島で始まったわけではない。前身の外島保養院は明治四十二年、現在の大阪市西淀川区に開設され、西日本の複数府県を区域とした。昭和九年九月、室戸台風がこれを壊滅させ、多数の入所者と職員が犠牲になった。再建にあたって昭和十三年に長島へ移り、光明園と名を改め、昭和十六年に国へ移管された。同じ島には、昭和五年に開設された国内初の国立らい療養所である長島愛生園が既にあった。
五件の建設年は、この集落が形を整えていく過程をそのまま示す。最初に昭和十三年の物資運搬斜路、続いて昭和十四年の分校、昭和十六年の恩賜会館、昭和十八年の奉安殿、そして昭和二十四年の瀬溝桟橋。島という閉じた世界の中に生活の基盤を築いていった時期に、これらは順に建てられている。
恩賜会館
敷地の中央部近くに建つ恩賜会館は、集会や共同の行事に使われた、施設を象徴する建物である。昭和十六年の竣工で、平成十五年に改修された。木造、瓦葺、建築面積は約百八十一平方メートル。
正面は立ち止まって見る価値がある。中央車寄せの上部で壁面を前へ突き出し、そこに三連のアーチ窓を配する。両側の下屋の破風を延ばして、妻を二重に見せる構えとする。ここで文化庁の記録に小さな不整合がある。構造欄は木造二階建としているのに対し、解説文は木造平屋建で半切妻造妻入とする。公開されている資料はこの食い違いを解消していないため、外観そのものを最も確かな手がかりとするほかない。この意匠が評価され、五件のうち唯一「造形の規範となっているもの」の基準で登録された。
分校
敷地東部で木尾湾を望み、北面して建つのが旧裳掛小・中学校第三分校である。園内では光明学園と呼ばれた。療養所で暮らす子どもたちは、本土の学校から切り離され、ここで学んだ。昭和十四年の木造平屋建で、切妻造セメント瓦葺、外壁は下見板張とし、正面中央に切妻造の玄関を出す。正背面には欄間付の硝子窓を並べて採光を確保し、トラス小屋組と軸部を方杖で緊結して補強している。平成十四年に改修された。療養施設に附属して設けられた学校建築が現存する例は少なく、その希少さが登録の主たる理由となった。
奉安殿
敷地北部の高台に南面して建つのは、建築面積わずか約二・一平方メートルの鉄筋コンクリート造の小建築である。昭和十八年の建設で、平成二十一年に改修された。奉安殿は御真影と教育勅語を奉安するための建物で、戦時下の学校や公的機関が奉拝の対象とした。その多くは戦後に取り壊された。この一棟は残り、隔離された療養所にこうした建物が置かれていた事実は、国家が求めた奉拝が、社会から切り離された人々の場にまで及んでいたことを示す。
高欄付の基壇に建ち、切妻造銅板葺の屋根の下、正面に鉄扉を備える。棟上には千木と鰹木を載せ、外壁の四隅に円柱形を表す。内部は一室で、床を板敷、壁を板張、天井を格天井とする。療養施設に附属する奉安殿は類例が少なく、その点でも際立っている。
斜路と桟橋
群を締めくくる二件の土木構造物は、いずれも島の生活に直結する。昭和十三年の物資運搬斜路は、敷地南部の波止場の西斜面を下る。コンクリート造で長さ約四十五メートル、幅約二・七メートル、高低差二十三メートルを昇り、北側に軌道、南側に階段を設けた鋼索式のトロッコ軌道である。道路橋が存在しなかった時代、船で島に届いた物資はこの斜路で高台へ引き上げられた。
昭和二十四年の瀬溝桟橋は、西部の官舎区の下、対岸の本土を望む位置にある。花崗岩を谷積とし、長さ約十メートル、幅約二・八メートル、高さ約一・五メートルで、石積の頂部にコンクリートを打設する。島と本土を結んだ職員用の船着場であった。職員用の桟橋が別に設けられていたこと自体が、この場所の記録する歴史の一部である。状況が一変したのは昭和六十三年五月、邑久長島大橋が長島と本土をようやくつないだときだった。入所者が長く望んだこの橋は、人間回復の橋と呼ばれた。
五件が登録された理由
四件は「国土の歴史的景観に寄与しているもの」として、恩賜会館は意匠の質によって登録された。区分の背後には、より大きな問題がある。日本はハンセン病の患者を、二十世紀初頭の諸法令から昭和二十八年のらい予防法に至る一連の法によって隔離し、その法は平成八年まで廃止されなかった。平成十三年、熊本地方裁判所は隔離政策を違憲と判断し、国は控訴しなかった。これらの建物を登録することは、その歴史の物質的な記録を現地に留め、忘却ではなく理解の対象として残すことを意味する。
Q&A
- 邑久光明園は見学できますか。
- 配慮を払えば可能です。園内は今も入所者が暮らす生活の場であり、一般の観光地とは性格が異なります。社会交流会館には療養所とハンセン病の歴史に関する資料展示室があり、平日を中心に公開されています。居住区域内に建つものを含む個々の登録建造物の見学は、事前に園へ相談して調整するのが望ましいです。
- 島へはどう行きますか。
- 車では岡山ブルーラインの虫明インターチェンジから邑久長島大橋を渡って短時間で着きます。鉄道の場合はJR赤穂線の邑久駅から愛生園方面のバスに乗り光明園で下車するか、タクシーを利用します。
- 奉安殿とは何ですか。
- 御真影と教育勅語を奉安するための小建築で、戦前の学校や公的機関で奉拝の対象とされました。多くは戦後に撤去されたため現存例は珍しく、療養所に建つ例はさらに少数です。
- なぜ園内に学校や桟橋があるのですか。
- 入所者が島に閉じ込められていたためです。子どもは本土ではなく園内で教育を受け、人も物資も昭和六十三年の架橋まで船だけで往来しました。分校、桟橋、物資運搬斜路は、その隔離の物質的な痕跡です。
基本情報
| 施設 | 国立療養所邑久光明園(長島) |
|---|---|
| 所在地 | 岡山県瀬戸内市邑久町虫明6253 |
| 所有者 | 国立療養所邑久光明園 |
| 指定区分 | 登録有形文化財(建造物) 平成31年3月29日登録 |
| 恩賜会館 | 登録番号33-317/昭和16年・平成15年改修/木造、瓦葺、建築面積約181㎡/1棟 |
| 旧裳掛小・中学校第三分校 | 登録番号33-318/昭和14年・平成14年改修/木造平屋建、セメント瓦葺、建築面積約213㎡/1棟 |
| 奉安殿 | 登録番号33-319/昭和18年・平成21年改修/鉄筋コンクリート造、銅板葺、建築面積約2.1㎡/1棟 |
| 物資運搬斜路 | 登録番号33-320/昭和13年/コンクリート造、延長約45m/1基 |
| 瀬溝桟橋 | 登録番号33-321/昭和24年・昭和46年・平成16年改修/石造、延長約11m/1基 |
| 交通 | 虫明ICから邑久長島大橋経由、またはJR邑久駅からバスで光明園下車 |
| 公開状況 | 入所者が生活する療養所。資料展示室は平日を中心に公開。建造物の見学は事前相談が望ましい |
References
- 国指定文化財等データベース(文化庁) — 邑久光明園恩賜会館
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/101/00012816
- 文化遺産オンライン — 邑久光明園恩賜会館
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/457729
- 国立療養所邑久光明園(厚生労働省) — 社会交流会館 資料展示室
- https://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/iryou/hansen/komyo/exhibition_rooms/index.html
最終更新日: 2026.07.02