筒井家住宅 ― 新田の管理所から始まった屋敷
筒井家住宅は、大阪府堺市北区中百舌鳥町にある江戸時代の屋敷で、百舌鳥古墳群の広がる台地に開かれた新田「夕雲開(せきうんびらき)」の管理所を起点とし、主屋・座敷棟・茶室・門長屋・土蔵・土塀の6件が令和2年(2020年)4月3日に登録有形文化財(建造物)となった。
屋敷を開いたのは、江戸時代の初めに堺の町に住んでいた商人、木地屋庄右衛門である。筒井家は戦国大名筒井順慶の係累と伝えており、享保6年(1721年)に代官へ出した由緒書には、庄右衛門が信長の時代に浪人となり、大坂、堺と移り住んで商いを始めたと記されているという。
土塀と堀、竹藪で外周を固めた構えは、農家というより在地の土豪の屋敷を思わせる。建物がどう建ち、どう変わってきたかは、所有者と京都工芸繊維大学の研究室が平成30年度(2018年度)に行った建造物調査で初めて詳しく分かった。
夕雲開の開発と筒井家
日本建築学会の論文(清水重敦、2025年)によると、元和末年から寛永初年(1623〜1624年)ころ、幕府直轄地だった堺の代官・高西夕雲の主導で百舌鳥一帯の開墾が始まり、庄右衛門がその実務を担った。代官が見立て、商人が実際に切り開く「代官見立新田」と呼ばれる形である。
開かれた土地は、いまの屋敷のあたりを東の端として、JR百舌鳥駅や履中天皇陵古墳、仁徳天皇陵古墳の近くにまで及んだ。はじめは地名から「万代新田」とも呼ばれ、やがて代官の名を取って夕雲開と呼ばれるようになる。この名が確かめられる最古の史料は承応3年(1654年)のものだ。
屋敷の場所には延宝7年(1679年)までに建物が建っていたが、そのころの筒井家の本拠はまだ堺にあり、ここは新田を見回るための出先にすぎなかった。一家が堺から移り住んだのは天和元年(1681年)から正徳2年(1712年)の間と論文は見ている。正徳2年の記録に見える夕雲開の家数はわずか5軒で、そのうち田畑を持つ1軒が庄右衛門の屋敷とみられる。
筒井家住宅の建物はいつ建ったか
文化庁の登録では、6件はいずれも江戸時代の建物とされ、主屋が江戸前期、座敷棟・門長屋・土塀が江戸中期、茶室と土蔵が江戸後期にあたる。堺市は主屋を屋敷で最も古い建物と説明している。
その後の研究で、年代の見方は一部変わってきた。令和4年(2022年)に主屋の部材で放射性炭素年代の測定が行われ、先の論文はその結果と改造の痕跡を突き合わせて、屋敷の歩みを次のように整理している。1700年ころ、新田の管理所として茅葺の主屋が建て替えられ、同じころかその少し後に、東隣へ家族の住む棟(のちの座敷棟)が建った。19世紀の前半にはこの住まいの棟に式台を付けて座敷棟へ改め、主屋も東へ延ばして両棟をつないだ。茶室が加わったのは19世紀の中ごろという。
つまり筒井家住宅は、管理所に住まいを足し、さらに客を迎える座敷を整えて、江戸時代後期には庄屋の屋敷としての格式を備えるに至った。文化庁の年代区分と論文の推定がずれる棟については、それぞれのページで両方を示している。
屋敷の配置 ― 外門から門長屋、そして主屋へ
筒井家住宅の北側を、東西に西高野街道が通る。街道と平行に引き込み路があり、その先に外門が開く。外門を入ると広い通路が南へ折れ、通路の東側が土塀で囲まれた屋敷の中心部、西側が御廟表塚古墳である。中心部は東西約60メートル、南北約40メートルの広さで、外側にはかつて堀がめぐっていた。南側には今もその一部が残る。
通路を南へ進み、鍵の手に曲がる土塀の南西隅で東へ折れると門長屋がある。門を入ると、敷地のほぼ中央に主屋が南を向いて建ち、その南東に座敷棟が鉤形に延びる。茶室は座敷棟の北東に、土蔵は主屋の北側に付く。何度も折れる通路と塀は、侵入者を簡単には奥へ通さない城の構えにも似ており、武家に連なる家柄を屋敷の形で示そうとしたのではないかと堺市は述べている。
明治16年(1883年)に描かれた「居宅全図」は、屋敷の範囲がほぼ今と同じだったことを伝える。図にある建物のうち、敷地の西部にあった2棟の土蔵と納屋、南東の隅にあった3社の祠は失われたが、そのほかは現存している。
外門は登録された6件には含まれないが、かつての筒井家住宅の正式な表門で、江戸時代末の建築とされる。屋根瓦には「堺丹治利右衛門」など、瓦をつくった職人の名を示す刻印が見られる。門長屋の前には、大阪府の天然記念物「百舌鳥のくす」が枝を広げている。この地が開墾されたころから雨乞いに効く木として祀られてきたクスである。
明治以降の筒井家
明治時代に陵墓の管理が宮内省へ移ると、実務には地元の人々があたった。明治28年(1895年)、当主の筒井幸四郎が守長に採用され、陵墓守長、陵墓監と職を進めて、大正11年(1922年)に亡くなるまで仁徳天皇陵などの管理に携わった。
筒井家には、宮内省からの辞令や賞状のほか、百舌鳥古墳群の古墳配置図としては最も古い図面や、仁徳天皇陵古墳の副葬品を描いた絵図が伝わる。屋敷の西隣にある御廟表塚古墳も、筒井家の畑や子どもの遊び場の「山」として守られてきたと堺市は紹介している。
筒井家住宅の見学とアクセス
筒井家住宅は現在も個人の住まいで、建物の内部も庭も一般には公開されていない。大阪府建築士会などが運営する大阪文化財ナビも見学欄を「非公開」としている。敷地には立ち入らず、見学の可否について尋ねたいときは堺市文化観光局の文化財課(電話072-228-7198)に問い合わせてほしい。
屋敷の西隣の御廟表塚古墳は、整備工事を終えて令和7年(2025年)4月26日から一般に公開されている。堺市はこの古墳を百舌鳥古墳群の東側をめぐる拠点に位置づけ、周辺の見どころとして筒井家住宅と百舌鳥のくすを挙げている。
最寄りは南海高野線の中百舌鳥駅と大阪メトロ御堂筋線のなかもず駅で、どちらからも西へ約400メートル歩く。南海バスなら「中もず町」停留所から北へ約300メートル。古墳にも屋敷の周辺にも専用の駐車場はないので、公共交通機関で訪れたい。
写真を撮るなら、公道と公開区域の中にとどめ、住まいの人や敷地の中にカメラを向けない配慮がいる。屋敷の建物の外観写真は、文化庁の国指定文化財等データベースと堺市のページで見ることができる。
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)筒井家住宅主屋
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/101/00013279
- 国指定文化財等データベース(文化庁)筒井家住宅座敷棟
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/101/00013280
- 国指定文化財等データベース(文化庁)筒井家住宅茶室
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/101/00013281
- 国指定文化財等データベース(文化庁)筒井家住宅門長屋
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/101/00013282
- 国指定文化財等データベース(文化庁)筒井家住宅土蔵
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/101/00013283
- 国指定文化財等データベース(文化庁)筒井家住宅土塀
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/101/00013284
- 堺市 筒井家住宅主屋、座敷棟、茶室、門長屋、土蔵、土塀
- https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/torokuseido/tsutsuikejyuutaku.html
- 堺市 史跡百舌鳥古墳群の整備 ― 御廟表塚古墳
- https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/gobyoomotezuka_koukai.html
- 堺市 史跡百舌鳥古墳群 御廟表塚古墳(パンフレット)
- https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/gobyoomotezuka_koukai.files/gobyouomoteduka_pamp_kokai.pdf
- 堺市 百舌鳥のくす
- https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/shokai/bunya/tennen/mozukusu.html
- 清水重敦「夕雲開の新田開発と筒井家住宅」日本建築学会計画系論文集 第90巻第835号(2025年)
- https://doi.org/10.3130/aija.90.2032
- 大阪文化財ナビ 筒井家住宅
- https://osaka-bunkazainavi.org/bunkazai/%E7%AD%92%E4%BA%95%E5%AE%B6%E4%BD%8F%E5%AE%85
最終更新日: 2026.09.26
基本情報
| 名称 | 筒井家住宅 |
|---|---|
| 所在地 | 大阪府堺市北区中百舌鳥町4丁535 |
| 所有者 | 個人 |
| 指定 | 登録有形文化財 6件 |
| 座標 | 34.55582, 135.50072 |