加登屋旅館本館 ― 板室温泉の最奥に佇む大正の湯治宿

那須連山の西端、深い山あいに開けた板室温泉。その温泉街の最も奥まった場所に、大正八年(1919年)築と伝わる木造三階建ての建物が静かに佇んでいます。それが加登屋旅館本館です。昭和五十三年(1978年)の大火で多くの木造旅館が失われた板室にあって、この建物は当時の湯治場の風情を今に伝える数少ない貴重な遺産です。深い軒、欄干付きの出窓、湯川沿いの落ち着いた佇まいは、訪れる人を百年前のひっそりとした山の湯治場へと誘います。

派手さはありません。けれども、二十世紀初頭の日本の温泉文化、ことに庶民が長逗留して湯に癒された「湯治」という暮らし方を、建物そのものが語り続けている場所として、加登屋旅館本館は栃木県でも特に趣ある近代和風建築のひとつといえるでしょう。

建物の背景と歩み

板室温泉の歴史は古く、平安時代の康平二年(1059年)、後冷泉天皇の御代に那須三郎宗重が狩りの折に発見したと伝えられています。中世以降、板室は「下野の薬湯」と呼ばれ、那須七湯の一つに数えられる湯治場として広く知られるようになりました。加登屋旅館を継承する髙根沢家は、五百年ほど前に板室に最初に入植したとされる五氏族の直系で、江戸時代から令和の今日まで、代々この地で温泉宿を営んできました。

湯治のための建物として

本館は大正八年(1919年)頃、湯治場として建てられました。湯治とは、十日二十日と長期間滞在しながら泉質豊かな湯に浸かり、神経痛・リウマチ・関節痛などを癒す古くからの療養文化です。本館の質素な六畳間、廊下に開く部屋の連なり、共用の構成は、まさにその湯治の暮らしのために整えられたものでした。写真資料によれば、当初は道路に面した吹き放し廊下でしたが、昭和二十七年(1952年)から三十六年(1961年)の間に、欄干付きの建具を備えた出窓へと改装されています。

大火を生き延びた木造建築

昭和五十三年(1978年)の板室温泉の大火では、多くの木造旅館が焼失しました。加登屋旅館はその中で焼失を免れた数少ない建物のひとつであり、戦前の板室の姿を物理的に伝える貴重な存在です。この奇跡的な残存こそが、後年の文化財登録の大きな根拠ともなりました。

なぜ文化財に指定されたのか

平成二十八年(2016年)二月二十五日、加登屋旅館の本館・別館・悠仙閣の三棟が、国の登録有形文化財(建造物)として登録されました。本館はとりわけ、大正期の木造湯治宿の姿を色濃く残している点が高く評価されています。

そのまま残る三階の客室

本館の最大の見どころのひとつ、そして文化財登録の重要な理由のひとつが、三階部分です。ここには当時の状態がそのまま保存されており、間口一間半・奥行き二間の六畳客室が、襖のみの間仕切りで五室、廊下に沿って連なっています。西側には階段と廊下、東側にも廊下が走り、各部屋には専用の風呂もトイレもありません。これは、長期滞在で湯治をする庶民の暮らし方そのものを建築として残しているということに他なりません。日本全国を見渡しても、大正期の湯治客室の姿をこれほど明瞭に伝える建物は多くありません。

三棟がつくる歴史的景観

本館は単独で価値を持つだけではありません。大正後半から昭和初期にかけて建てられ、上げ下げ窓やドイツ壁といった当時流行の洋館意匠を取り入れた別館、そして昭和二十七年(1952年)築で軒破風や入母屋破風など意匠性に富んだ悠仙閣。この三棟が連続して残されていることにより、板室温泉の最奥部にかつての湯治場の歴史的景観が一体として保たれている、その総体が文化財としての重みを支えています。

細部に宿る時代の記憶

本館の旧玄関には、貴重な本業タイルが残されているほか、かつての電話室の扉も場所を移して保存されています。本業タイルは大正期の旅館建築において格式を示す装飾の一つであり、電話室は通信が貴重だった時代の名残です。こうした見落としそうな細部こそが、文化財登録によって守ろうとされている記憶の核心です。

魅力と見どころ

東面に張り出す木製の欄干

道路から本館を見上げたとき、最も印象的なのが東正面に張り出す木製の手摺り欄干です。当初の吹き放し廊下を改装したこの意匠が、加登屋旅館本館の象徴的なシルエットを生み出しています。冬の深い雪、春の新緑、秋の紅葉――どの季節にあっても、黒ずんだ木肌の建物に欄干が映える姿は、板室の景観を代表する一枚となります。

二本の自家源泉

本館自体には現在宿泊できませんが、加登屋旅館は「下野の薬湯」「霊泉」と呼ばれる二本の自家源泉を所有しています。pH9.6のアルカリ性単純温泉は、無色透明・無味無臭。古来よりリウマチ・神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・うちみ・くじき・冷え性・病後回復・疲労回復などに効くとされ、加水も加温もせず、源泉そのままの湯が浴槽に注がれています。

「綱の湯」と「杖いらず」の伝統

板室温泉は、独特の入浴方法「綱の湯」でも知られています。浴室の梁から太い綱を垂らし、湯治客は綱を握って腰以上の深さの湯に立ったまま浸かるというもので、水圧によって血行が促されると伝わります。湯治を終えると杖を必要としなくなるほど回復したという言い伝えから、板室は「杖いらずの湯」とも呼ばれてきました。回復した湯治客は、不要となった杖を板室温泉神社に奉納していくのが慣わしであったと言われています。

アクセスと訪問にあたって

板室温泉までの行き方

東京方面からは、東北新幹線で東京駅から那須塩原駅まで約一時間十分。那須塩原駅西口より関東自動車のバスで「板室温泉」行きに乗車し、約五十分の終点下車となります。JR黒磯駅からのバス利用なら約三十五分です。お車の場合は、東北自動車道の黒磯板室インターチェンジまたは那須インターチェンジから板室街道を北上し、約二十分です。本館は温泉街の最も奥、別館をさらに進んだ先に建っています。

本館の見学について

大切なご案内として、本館は現在、宿泊施設としては営業しておりません。建物全体に冷暖房が備えられていないことや、客室に風呂・トイレを備えていないこと、そして百年を経た木造建築としての保全のため、通年のご宿泊は別館にてお引き受けしているためです。本館の外観はいつでも温泉街の通りから眺めることができますが、内部の見学や日帰り入浴の可否などは時期により異なる場合がございますので、訪問前に必ず宿に直接ご確認ください。

板室の周辺で訪ねたい場所

乙女の滝

板室温泉から約二・三キロメートル、白笹山から流れ出る沢名川にかかる落差約十メートルの滝が乙女の滝です。名の由来には諸説あり、上流の沼ッ原湿原の主である盲目の蛇の化身として滝上に乙女が現れたという伝承や、流れの優美さを乙女の髪に喩えたという説があります。新緑と紅葉の頃が特に美しく、夏には涼を求める人々で賑わいます。

沼ッ原湿原

標高約一二三〇メートル、東西二五〇メートル・南北五〇〇メートルの亜高山湿原です。木道が整備されており、初夏にはニッコウキスゲやアカバナシモツケが咲き誇ります。那須岳方面や三斗小屋温泉へのトレッキング起点としても知られ、登山やハイキングを楽しむ方々に人気です。アクセス道は概ね五月から十月中旬までの開通となるため、計画にあたってはご注意ください。

木の俣渓谷と深山ダム

お車での移動が可能な方には、ラムネ色とも称される清冽な水流の木の俣渓谷と、巨岩を渡す吊橋がおすすめです。さらに上流には深山ダムがあり、那須連山を背景にした湖の眺めが広がります。いずれも観光地化されすぎていない静かなスポットで、湯治の合間の散策に好適です。

Q&A

Q本館に宿泊することはできますか。
Aいいえ、本館は文化財として保存されており、現在は宿泊施設としては使用されておりません。加登屋旅館にご宿泊の際は、本館に隣接する別館にてお部屋をご用意しております。同じ自家源泉の湯にお入りいただくことができます。
Q本館はいつ建てられ、いつ文化財に指定されたのですか。
A本館は大正八年(1919年)頃に建てられました。平成二十八年(2016年)二月二十五日、別館および悠仙閣とともに国の登録有形文化財(建造物)に登録されています。
Q板室温泉はどのような泉質ですか。
A板室温泉はpH9.6前後のアルカリ性単純温泉です。無色透明・無味無臭で、古くからリウマチや神経痛、関節痛などに効くとされ、「下野の薬湯」と呼ばれてきました。
Q訪れるのに最適な季節はいつですか。
A四季それぞれに魅力があります。新緑が美しい晩春、避暑に好適な夏、紅葉に染まる秋、深い雪に包まれる冬――どの季節も板室らしい景色が楽しめます。沼ッ原湿原の散策も合わせたい方は、アクセス道が開通する五月から十月頃を目安にされるとよいでしょう。
Q海外からの旅行者にも訪れやすい場所ですか。
A板室温泉は国際的なリゾートではなく、昔ながらの素朴な湯治場です。英語の案内表記は限られておりますが、簡単な日本語と翻訳アプリ、そして地域の慣習を尊重する姿勢があれば、深く印象に残る旅となるでしょう。ご予約や見学のご希望は事前に宿へご確認いただくことをおすすめいたします。

基本情報

名称 加登屋旅館本館(かどやりょかんほんかん)
指定区分 登録有形文化財(建造物)
登録年月日 平成二十八年(2016年)二月二十五日
築造年 大正八年(1919年)頃
構造 木造三階建、鉄板葺、建築面積約一一四平方メートル
員数 一棟
所在地 栃木県那須塩原市板室字塩沢854他
運営 加登屋旅館
アクセス JR那須塩原駅西口より関東自動車バス「板室温泉」行きで約五十分、終点下車徒歩約一分。お車の場合、東北自動車道黒磯板室ICまたは那須ICより約二十分。

参考文献

加登屋旅館/那須塩原市公式ホームページ
https://www.city.nasushiobara.tochigi.jp/soshikikarasagasu/shogaigakushuka/bunkazai/2/6/2615.html
加登屋旅館本館/文化遺産オンライン
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/254505
国登録有形文化財旅館 加登屋/公式サイト
https://bunkazai-kadoya.com/
登録有形文化財 加登屋旅館について/公式サイト
https://nasu-kadoya.jp/about/
板室温泉/日本温泉協会
https://www.spa.or.jp/kokumin/927/
板室温泉/Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/板室温泉
板室エリア/なすしおばら観光NAVI
https://nasushiobara-kanko.jp/areas/itamuro/

最終更新日: 2026.05.07