黒沢ビル:日本初のステンドグラス作家の遺作が息づく昭和モダン建築
上野・不忍池のほど近く、湯島の街並みの中にひっそりと佇む黒沢ビル。昭和5年(1930年)に小川眼科病院として建設されたこの鉄筋コンクリート造の建物は、平成17年(2005年)に国の登録有形文化財に登録されました。表現派風の意匠を取り入れた外観と、日本初のステンドグラス作家と称される小川三知の最晩年の作品群を随所に残す、東京でも貴重な近代建築です。
建設から約1世紀を経た現在もテナントビルとして現役で使われ続けており、月に一度の一般公開日には、小川三知の芸術作品を間近に鑑賞することができます。
歴史的背景:小川家の物語と関東大震災からの再建
黒沢ビルの歴史は、静岡藩医・小川清齊の家系に遡ります。三男の小川剣三郎(1871年〜1933年)は、東京帝国大学医学部を卒業後、眼科医としての道を歩みました。岐阜県立病院やドイツ・ベルリンへの留学を経て、明治45年(1912年)に上京し、大正2年(1913年)に下谷池之端仲町に木造の小川眼科病院を開業しました。
しかし、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災により、病院は全焼してしまいます。剣三郎は神田に仮設のバラック診療所を構えてすぐに診療を再開し、昭和3年(1928年)5月に耐震性の高い鉄筋コンクリート造の新病院の建設に着手。翌昭和4年(1929年)5月に竣工しました。
昭和8年(1933年)に剣三郎が亡くなった後、建物は親族によって受け継がれ、黒沢潤三が院長となりました。その後、黒沢ビルと改称され、テナントビルとして今日に至っています。現在のオーナーは前院長の幼なじみの家系の方で、文化財としての価値を守り続けようと、修繕・維持に尽力されています。
登録有形文化財としての価値
黒沢ビルは、平成17年(2005年)11月10日に「造形の規範となっているもの」として登録有形文化財(建造物)に登録されました。その登録理由には、以下のような建築的特徴が挙げられています。
1階正面の外壁に張られた鉄平石(てっぺいせき)は、黒みを帯びた火山岩で、建物に重厚な風格を与えています。一部の窓には尖頭アーチが施され、ゴシック建築を想起させます。さらに、コンクリート製の幌状(ほろじょう)の庇は、1920年代に日本でも注目を集めていたドイツ表現主義建築の影響を色濃く反映しています。
屋上には温室風の紫外線療法室が当時のまま残されており、昭和初期の眼科医療の歴史を物語る貴重な遺構です。そして何より、建物内部の随所に残る小川三知のステンドグラス作品群は、原位置で鑑賞できる稀有な芸術遺産として高く評価されています。
見どころ:ステンドグラスと建築意匠
玄関外側欄間「鶏鳴告暁」
正面玄関の外側扉の欄間には、朝日の中で鳴く二羽の鶏を描いた「鶏鳴告暁(けいめいこくぎょう)」が嵌め込まれています。すべてにオパールセントグラスが用いられ、外からの光が色硝子に美しく映し出されます。鶏の胴体には茶色のオパールセントグラス、朝日の光には淡い赤のオパールセントグラスが使われ、鉛線も鳥の部分には細いカマボコ型、その他には幅広のフラット型と使い分けるなど、細部にまで三知の繊細な感性が行き届いています。
玄関内側欄間「立葵」
玄関内側の欄間は、緑を基調とした落ち着いた色合いでバラのモチーフが描かれており、外側の華やかな「鶏鳴告暁」とは対照的な静謐な雰囲気を醸し出しています。
応接室の照明とステンドグラス
応接室には小川三知作の電気傘(照明器具)があり、よく観察すると動物のモチーフが隠されています。この応接室が月一回の一般公開の主な鑑賞スペースとなっています。
地下の書棚エッチングガラス
地下には4枚の硝子扉が付いた書棚があり、中央部には小川剣三郎と思われる肖像のエッチングが施されています。サンドブラストによる立体的な彫刻は高度な技術を示すもので、玄関に置かれた彫刻家・吉田三郎作の剣三郎胸像と酷似しています。
表現派風の外観
鉄平石張りの1階外壁、尖頭アーチ窓、コンクリート製幌状庇など、ドイツ表現主義の影響を受けた外観は、上野の街並みの中でひときわ個性的な存在感を放っています。
小川三知:日本ステンドグラスの先駆者
小川三知(おがわ さんち、1867年〜1928年)は、静岡藩医・小川清齊の次男として生まれました。家業を継ぐため第一高等中学校(現・東京大学の前身)に入学しましたが、絵画への情熱を捨てきれず、弟の剣三郎に家督を譲り、東京美術学校(現・東京藝術大学)の日本画科に入学。橋本雅邦のもとで日本画を学びました。
明治33年(1900年)、33歳で渡米。シカゴ美術館附属美術大学で水彩画を教えるかたわら、アメリカ各地のステンドグラス工房で技法を習得しました。明治44年(1911年)に帰国後、日本画の素養とアメリカで身につけたガラス技法を融合させた独自のスタイルを確立します。
三知の作品の特徴は、アール・ヌーヴォーやアール・デコの様式でありながら、日本画的な非対称の構図、余白の美、花鳥風月のモチーフ、繊細な色彩感覚を取り入れている点にあります。西洋の教会ステンドグラスの荘厳な宗教画とは全く異なる、静謐で絵画的な美しさが三知の真骨頂です。
鳩山会館、国立科学博物館、旧松本家住宅(西日本工業倶楽部会館)など各地に作品が残りますが、関東大震災や戦災で多くが失われており、黒沢ビルに残る作品群は、三知の最晩年の集大成として極めて貴重な存在です。
見学案内
黒沢ビルは現在、眼科・歯科などの医院や各種事務所が入居するテナントビルとして使用されています。外観は公道に面しているため、いつでも自由に見学できます。玄関・廊下・階段などの共用部分は、テナントや来訪者の方々にご迷惑にならない範囲で見学が可能です。
小川三知のステンドグラスを間近で鑑賞するには、月に一度開催される解説付きの一般公開日への参加がおすすめです。要予約・有料(参加費3,000円)で、参加費は文化財の維持・修繕費用に充てられます。参加記念として、建築写真家・増田彰久氏撮影のポストカードセットが配布されます。詳細は公式サイトをご確認ください。
周辺情報
黒沢ビルが位置する上野・湯島エリアは、東京有数の文化施設や歴史的名所が集まる地域です。
- 上野恩賜公園・不忍池 — 桜の名所としても知られる広大な公園。不忍池は四季折々の風情を楽しめ、黒沢ビルからも徒歩圏内です。
- 東京国立博物館 — 日本最大の博物館。国宝・重要文化財を含む膨大な東洋美術コレクションを所蔵しています。
- 国立科学博物館 — 昭和6年竣工の本館(重要文化財)には、小川三知のステンドグラス作品も残されています。
- 旧岩崎邸庭園 — 三菱財閥・岩崎家の本邸として建てられた壮麗な洋館(重要文化財)。黒沢ビルと同時代の近代建築を堪能できます。
- 湯島天満宮 — 学問の神様・菅原道真を祀る神社。早春の梅まつりが有名です。
- アメヤ横丁(アメ横) — 上野駅近くの活気あふれる商店街。新鮮な海産物やお買い得品が並ぶ、東京の下町文化を体感できるスポットです。
Q&A
- 予約なしでも見学できますか?
- 外観は公道に面しているため、いつでも自由にご覧いただけます。建物内部の共用部分(玄関、廊下、階段など)は、テナントや来訪者にご迷惑にならない範囲であれば見学可能です。ただし、応接室のステンドグラスを間近に鑑賞するには、月一回の一般公開日への事前予約が必要です。
- ステンドグラスの作者はどなたですか?
- 日本初のステンドグラス作家と称される小川三知(1867年〜1928年)の作品です。三知はこのビルの建設者・小川剣三郎の実兄にあたります。黒沢ビルのステンドグラスは、三知が亡くなる直前に制作した最晩年の作品群であり、兄弟の絆が生んだ芸術遺産として高い価値を持っています。
- 最寄り駅からのアクセスは?
- 東京メトロ千代田線・湯島駅2番出口から徒歩約2分が最も便利です。そのほか、銀座線・上野広小路駅から徒歩約4分、京成線・京成上野駅から徒歩約5分、JR京浜東北線・御徒町駅から徒歩約6分でもアクセス可能です。
- 一般公開の参加費はいくらですか?
- 参加費は3,000円です。この費用は建物の維持・修繕に充てられます。参加記念として、建築写真家・増田彰久氏撮影のポストカードセット(1,900円相当)が配布されます。月一回の開催で事前予約制のため、公式サイトで日程をご確認ください。
- 現在も病院として使われていますか?
- 当初の小川眼科病院としての営業は終了していますが、現在は眼科・歯科などの小規模医院や各種事務所が入居するテナントビルとして、建設以来約1世紀にわたり現役で使用され続けています。
基本情報
| 名称 | 黒沢ビル(旧小川眼科病院) |
|---|---|
| 文化財区分 | 国登録有形文化財(建造物)/登録年月日:平成17年(2005年)11月10日 |
| 竣工 | 昭和5年(1930年)※着工は昭和3年(1928年) |
| 構造 | 鉄筋コンクリート造 地上3階・地下1階建、建築面積144㎡ |
| 建築様式 | 表現派風意匠を取り入れた昭和初期モダン建築 |
| 所在地 | 東京都台東区上野2-11-6(登録上の住所:上野2-40) |
| アクセス | 東京メトロ千代田線 湯島駅2番出口より徒歩約2分/銀座線 上野広小路駅より徒歩約4分 |
| 見学 | 外観:自由見学可。内部:月1回の一般公開日(要予約・3,000円)。公式サイト参照。 |
| 公式サイト | http://www.kurosawa-bldg.com/ |
参考文献
- 黒沢ビル - Wikipedia
- https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E6%B2%A2%E3%83%93%E3%83%AB
- 黒沢ビル 文化遺産オンライン
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/140718
- 登録有形文化財 黒沢ビル(公式サイト)
- http://www.kurosawa-bldg.com/
- 黒沢ビルとは|登録有形文化財 黒澤ビル
- http://www.kurosawa-bldg.com/about2.html
- 小川三知 - Wikipedia
- https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E4%B8%89%E7%9F%A5
- 小川三知のステンドグラス | キュウコン・ステンドグラス
- https://kyukon-stained-glass.net/ogawa-sanchi-01/
- 【登録有形文化財】黒沢ビル(東京都台東区)見学のしかた | 文化遺産見学案内所
- https://bunkaisan.exblog.jp/30142175/
最終更新日: 2026.03.29